二百二十一話 娘に絵本を

文字数 1,892文字

「ん?」


早朝、髪の手入れをしていて気付いた。絶対都のしわざだ。


「・・・はぁ」


問い詰めないといけない。

朝食のあとに聞こうかと思ったが、千代と桜子に呼び止められて聞けなかった。ジャスミンがドッグランに行きたがっているので、一度、桜子も連れて行ったらどうか、という話だった。ちょっと都と話があるから、また今度、と断り、千代も桜子も了承する。話し終えたあとすぐに都の部屋に行ったが、ノックしても返答が無い。鍵もかかっている。少しだけ待って、諦めて自室に戻ろうとしたら、階段を登ってきた都と鉢合わせた。


「・・・どうしたよ?」

「な、なんでもないよ」


酸いにおいがした。胃液?


「話がある」

「ちょっと歯磨きしたいから、そのあとで」

「すぐ済む」


都はつらそうに目を細めたあと、頷き、階段を登って部屋の鍵を開けた。二人で中に入り、俺が鍵をかける。


「話ってなに?」

「なんだと思う?」

「・・・なに?」


怯えている。


「もう一回だけ聞くぞ。どうした?」


都は目を閉じて、首を横に振った。


「んー、そっかァ。じゃあ本題に入るけど、」


俺は指輪の『スイッチ』を入れ、腰まで届く長い髪を、鴉が翼を広げるように持ち上げた。


「俺になんかしただろ」


髪に『感覚』がある。俺の意志で自在に動かすことができる。驚いて後退る都に、歩み寄って距離を詰める。


「なんで逃げてんのかなァ?」

「き、気分が悪いの。詳しい説明はあとで、」

「都、俺がお前を愛してるからって、俺の身体を好き勝手弄っていいってことになんのか?」


俺は敢えて『お前』と呼んだ。都から禁止されている行為の一つだ。それに気付く余裕すら無いのか、都はよたよたと後退り続ける。そして、とん、と背を壁にぶつけ、ずるずると崩れ落ちた。


「い、ぃき、が・・・」


都の呼吸が止まった。自分の手で自分の首を絞めているからだ。都は無意識に、父親のトラウマを掻き消すため、自分で窒息死しようとしていた。肘を視点に四つん這いになった都を仰向けに転がし、手首を掴み、骨を折る勢いで強く力を込める。痛みで緩んだ指を首から外して、両手をそっと、顔の横に置いてやった。唇がくっつかないギリギリの位置まで顔を近付けて、揺れる都の瞳に視線を合わせる。そして、ゆっくりと、俺は都の首を握った。


「都」


都にも、俺にも無かった経験。でも、想像することはできる。父親が娘に絵本を読み聞かせるように、言う。


「大丈夫だ」


俺の髪と、都の髪が混じる。


「吸って」


都が必死に息を吸う。


「吐いて」


必死に、息を吐く。


「そうだ、上手だぞ。ゆっくり、吸って」


都が瞬きをするたびに、涙が零れる。


「吐いて」


俺の声に、都の呼吸音が応える。ほんの一瞬の出来事にも感じたし、ずっとこうやって二人で生きてきたような錯覚も抱いた。


「・・・ごめんなさい」

「いいよ」


俺は都の首から、手を放した。額にキスをして、上体を起こし、都の横に座り込む。都は仰向けに倒れたまま、まだ荒い呼吸を繰り返した。


「誰にそこまで苦しめられたんだよ」

「・・・絶対言わない」


美代は都のことを考え過ぎて暴走することがあるし、直治も思い通りにいかないと都を追い詰めることがある。千代と桜子とは俺が喋っていたし、一階から上がってきた時にはもう危うかったから、直治か。


「都ちゃん」


俺はにやりと笑う。


「パパに怒られると思って、過呼吸起こしちゃったか?」


都は唇を尖らせた。そっと抱き起して、身体に凭れ掛からせる。


「駄目だろ、人の身体勝手に弄っちゃ」

「私のすることに口出ししないで」

「反抗期の娘が言うことは怖いねぇ」

「うるせーばかやろ・・・」


きゅ、と俺のシャツを握る。


「お風呂入って歯磨きして昼寝する」

「パパの付き添いは?」

「美代叔父さんと直治叔父さんに言いつけるよ」

「おおこわ」


都は少しだけ揺れながら立ち上がり、ゆっくり歩いて風呂場に消えていった。俺は溜息を吐きたい気持ちを堪えた。結局、なにもわからないままだ。都のトラウマを悪戯に刺激しただけ。

駄目だ。

俺は頭を強く振った。マイナスの感情でもいいから、俺のことで頭をいっぱいにしていてくれたのが嬉しかっただなんて。呼吸の補助なんてせずに、都の喉をへし折って、最期の瞬間に俺の顔だけを見ていてほしかっただなんて。都の身体を汚物ごと貪って、血や脂が染み込んだカーペットまで喰い千切りたいだなんて。そんなことしたら、二度と笑いかけてくれなくなるじゃないか。


「どッこに余裕があんだかよぉ・・・」


都の皮膚の下にあるざわめきを、首を絞めて上書きするんじゃなくて、優しく抱いてやることで忘れさせてやりたい。


「ごめんな」


都が気まずい思いをしないように、俺はそっと、部屋を出た。
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