百五十九話 意趣返し
文字数 2,901文字
中畑の娘、早貴が来てから三日。
今まで雇ったメイドは親近感を持たせて油断させるために名前で呼んでいたのだが、今回は特別感を持たせてはいけないということで、全員が『中畑さん』と呼ぶことになっている。談話室に直治がやってくると、腕を組んで背凭れに身体を預けた。不機嫌な合図だ。
「どーよ?」
「駄目だ、殺しそう・・・」
細い声で言うので、俺も淳蔵も思わず笑ってしまった。
「話してみ」
「今朝、漸くメモをとり始めた。初日からメモをとれって何度も言ったんだがな」
「そんな初歩的なことからかァ」
「如何せんプライドが高くてな。クッキーやケーキを作りたいだの、トイレ掃除は汚いからやりたくないだの・・・」
「あらら。ま、予想通り、だね」
「はっ、米を洗剤で洗おうとするのが『予想通り』か?」
直治が、ぱん、と両膝を叩いて頭を横に振る。
「イチからじゃなくてゼロから教えてるんだ。なにがわからないのかがわからないから、全部教えてやるしかない。なのにそれを、あれやりたいだのこれやりたくないだの。育成ゲームしてる気分でいっそ面白くなってきたところだよ」
たった三日で相当キているらしい。俺と淳蔵は顔を見合わせた。
「で、今夜から、都と中畑の分の米は、中畑一人で炊くことになった」
「都の分も?」
「毒かなんか盛りそうな勢いで都のこと恨んでるみたいだからな。一緒の窯にしちまえば米は防げるだろ。で、米ができたら次は簡単な卵料理、その次は味噌汁、その次は切り身の焼き魚。あとは漬物でも添えれば三食分のレパートリーになるだろ」
「そのあとは?」
「肉と野菜。肉は焼いたり煮込んだり、野菜は炒めたり茹でたり。応用すれば肉じゃがだのカレーだのできるだろ。調味料での味付けの仕方もこの段階で覚えさせる。それが終わったら麺類だ。麺は茹でて終わりじゃないからな。茹でないと始まらないけど。ここら辺で一ヵ月半か、二ヵ月。こんだけ教えれば基礎はできるんだから、あとは本人と相談しながらなにを作るか考える。ま、場合に寄っちゃクッキーやケーキでも構わねえよ」
「ほお、練ってるなァ」
「料理に対してはなかなか積極的なんだよ。成果が目に見えるからだろうな。掃除や洗濯は駄目だ。嫌々やってるから、いくらでも改善点が出てくる。『こんなこともできないのか』って馬鹿にされたくない一心でやってるから、雑なんだけど丁寧なんだよ。四角いところを丸く掃き続けている感じだな」
「んー、直治、俺もなにか手伝おうか?」
「正直そうして欲しいんだが、駄目だ。俺は中畑を働かせることに賛同したからな。反対していた美代に迷惑をかけるわけにはいかない」
「気にすんなって、俺も気にしないし」
「都が気にするだろ」
「あ、あー、そう、かな? そうかも? じゃあ駄目だね」
「はあー・・・。都のためだ、耐えろ俺、耐えろ直治・・・」
直治が両頬をぺちぺちと叩いた。そのあと、暫く雑談していると、千代が休憩の許可をとりに来て、直治が承諾する。話している間に気分が回復したのか、直治はいつも通り事務室に帰っていった。淳蔵も自室に戻り、俺も事務室に戻る。肩や首を回して軽くコリを解し、さあ、仕事を、とパソコンのロックを解除しようとした時。
こんこんこん。
ノック三回、良からぬ用向き。というか中畑だろう。出るかどうか少し迷う。
こんこんこん。
ここで無視したら直治の心労を増やすことに繋がるかもしれない。仕方なく、俺はドアを開けた。
「あっ、美代さん!」
やっぱり中畑だった。
「中畑さん、なんのご用ですか?」
「今ぁ、休憩時間なンです。ちょっとお話しませン?」
「俺は休憩終わったところなんです。これから仕事なので」
「ちょっとだけでいいの! お願い、仕事頑張るから!」
俺は隠すことなく溜息を吐いた。中に招き入れるのは嫌だったので、部屋の外に出て、ドアを庇うように凭れ掛かる。
「なんのお話ですか?」
「ね、美代さんって年収いくらあるの?」
「年収? 二百四十万ですよ」
「えっ!?」
中畑は意外そうに驚いたあと、にたあと笑う。
「私の婚約者、年収千二百万だよ? 五倍だよ? 美代さんの五倍。ねえ、美代さん、少な過ぎない? っていうか、今の日本人男性の平均年収知ってる?」
「平均年収は四百万前後ですね」
「少なくない? なンでそンな少ないの? ねえねえ?」
「必要なものは全て社長が買い与えてくれるので、毎月の二十万は小遣いとして貰っているんです」
「ぷっ、お小遣い? 社長って、都さんでしょ? 必要なものって、お母さんに買ってもらってるってこと?」
「そうですよ」
「やばっ! マザコンじゃん!」
中畑はくすくす笑った。成程、俺に意趣返しに来たらしい。
「ねえ、社長の秘書なンだよね? どンな仕事してるの?」
「教えられません」
「仕事してないから教えられないンじゃないの? やってたら教えられるよね?」
「企業秘密ですので」
「あー、かわいそっ。いくら顔が良くても頭と性格が悪かったら、田舎でおばさんのおっぱい吸って、ママーって言うしか仕事ないンだ。おッもしろ! ねえ、美代さんてさ、」
ぱち、と俺が瞬きをすると、中畑の後ろに都が立っていて、汚物を見るような目で中畑を見ていた。都は人差し指でちょんちょんと中畑の肩をつつき、びくっと身を竦ませながら振り返った中畑の頬を、思いっ切り引っ叩いた。物凄い破裂音が響いて、淳蔵の部屋にまで届いたのか、淳蔵がドアを開けて廊下に出てくる。中畑はドンッと向かいの空き部屋のドアにぶつかってずるずると崩れ落ち、震える手で叩かれた頬をおさえながら、酷く怯えた様子で都を見上げた。
「なにしてるの?」
都が中畑に問う。淳蔵がそーっと俺に近寄ってきて、安否を確認するように俺の顔を見る。俺は人差し指を立てて唇の前に持ってきて『静かに』というジェスチャーをした。
「ぜェんぶ聞こえてるんですけど?」
「い、いや、あの、わっ、私、」
「そんなに御父様の顔に泥を塗りたいのかしら」
「ごっ、ごめンなさい! パパにはっ、パパには言わないでくださいっ!」
「パパに言われたくないから謝るの? 違うでしょ? 美代に嫌な思いをさせたから謝るんじゃないの?」
「み、美代さん、ごめンなさい! もう二度としませン! ごめンなさい!」
「性質の悪い猿だこと。ちょっとお説教が必要なようね。淳蔵、直治を電話で呼んで」
「はい」
「美代、ごめんね、嫌な思いをさせて。こういうのって現行犯で捕まえるしかないから・・・」
「ううん、気にしてないから」
「あとでちゃんとお詫びするから、仕事に戻ってちょうだい」
「わかりました」
荒っぽい足音がして、直治が階段を駆け上ってくる。
「すみません! 俺の監督不行き届きですっ!」
「今回はそうじゃないけど、今後そうなるかもしれないから、ちょっと話し合いましょ」
「はい! 立て! 中畑!」
泣き崩れている中畑を、直治が乱暴に立たせる。
「じゃ、ここの部屋で」
「はい!」
なにもない空き部屋に、都達は入っていった。
「美代、大丈夫か?」
「俺は大丈夫。でも直治が・・・」
「・・・部屋から出てきたら髪が真っ白になってたりしてな」
「有り得るなあ・・・」
俺と淳蔵は顔を見合わせ、溜息を吐いた。
今まで雇ったメイドは親近感を持たせて油断させるために名前で呼んでいたのだが、今回は特別感を持たせてはいけないということで、全員が『中畑さん』と呼ぶことになっている。談話室に直治がやってくると、腕を組んで背凭れに身体を預けた。不機嫌な合図だ。
「どーよ?」
「駄目だ、殺しそう・・・」
細い声で言うので、俺も淳蔵も思わず笑ってしまった。
「話してみ」
「今朝、漸くメモをとり始めた。初日からメモをとれって何度も言ったんだがな」
「そんな初歩的なことからかァ」
「如何せんプライドが高くてな。クッキーやケーキを作りたいだの、トイレ掃除は汚いからやりたくないだの・・・」
「あらら。ま、予想通り、だね」
「はっ、米を洗剤で洗おうとするのが『予想通り』か?」
直治が、ぱん、と両膝を叩いて頭を横に振る。
「イチからじゃなくてゼロから教えてるんだ。なにがわからないのかがわからないから、全部教えてやるしかない。なのにそれを、あれやりたいだのこれやりたくないだの。育成ゲームしてる気分でいっそ面白くなってきたところだよ」
たった三日で相当キているらしい。俺と淳蔵は顔を見合わせた。
「で、今夜から、都と中畑の分の米は、中畑一人で炊くことになった」
「都の分も?」
「毒かなんか盛りそうな勢いで都のこと恨んでるみたいだからな。一緒の窯にしちまえば米は防げるだろ。で、米ができたら次は簡単な卵料理、その次は味噌汁、その次は切り身の焼き魚。あとは漬物でも添えれば三食分のレパートリーになるだろ」
「そのあとは?」
「肉と野菜。肉は焼いたり煮込んだり、野菜は炒めたり茹でたり。応用すれば肉じゃがだのカレーだのできるだろ。調味料での味付けの仕方もこの段階で覚えさせる。それが終わったら麺類だ。麺は茹でて終わりじゃないからな。茹でないと始まらないけど。ここら辺で一ヵ月半か、二ヵ月。こんだけ教えれば基礎はできるんだから、あとは本人と相談しながらなにを作るか考える。ま、場合に寄っちゃクッキーやケーキでも構わねえよ」
「ほお、練ってるなァ」
「料理に対してはなかなか積極的なんだよ。成果が目に見えるからだろうな。掃除や洗濯は駄目だ。嫌々やってるから、いくらでも改善点が出てくる。『こんなこともできないのか』って馬鹿にされたくない一心でやってるから、雑なんだけど丁寧なんだよ。四角いところを丸く掃き続けている感じだな」
「んー、直治、俺もなにか手伝おうか?」
「正直そうして欲しいんだが、駄目だ。俺は中畑を働かせることに賛同したからな。反対していた美代に迷惑をかけるわけにはいかない」
「気にすんなって、俺も気にしないし」
「都が気にするだろ」
「あ、あー、そう、かな? そうかも? じゃあ駄目だね」
「はあー・・・。都のためだ、耐えろ俺、耐えろ直治・・・」
直治が両頬をぺちぺちと叩いた。そのあと、暫く雑談していると、千代が休憩の許可をとりに来て、直治が承諾する。話している間に気分が回復したのか、直治はいつも通り事務室に帰っていった。淳蔵も自室に戻り、俺も事務室に戻る。肩や首を回して軽くコリを解し、さあ、仕事を、とパソコンのロックを解除しようとした時。
こんこんこん。
ノック三回、良からぬ用向き。というか中畑だろう。出るかどうか少し迷う。
こんこんこん。
ここで無視したら直治の心労を増やすことに繋がるかもしれない。仕方なく、俺はドアを開けた。
「あっ、美代さん!」
やっぱり中畑だった。
「中畑さん、なんのご用ですか?」
「今ぁ、休憩時間なンです。ちょっとお話しませン?」
「俺は休憩終わったところなんです。これから仕事なので」
「ちょっとだけでいいの! お願い、仕事頑張るから!」
俺は隠すことなく溜息を吐いた。中に招き入れるのは嫌だったので、部屋の外に出て、ドアを庇うように凭れ掛かる。
「なんのお話ですか?」
「ね、美代さんって年収いくらあるの?」
「年収? 二百四十万ですよ」
「えっ!?」
中畑は意外そうに驚いたあと、にたあと笑う。
「私の婚約者、年収千二百万だよ? 五倍だよ? 美代さんの五倍。ねえ、美代さん、少な過ぎない? っていうか、今の日本人男性の平均年収知ってる?」
「平均年収は四百万前後ですね」
「少なくない? なンでそンな少ないの? ねえねえ?」
「必要なものは全て社長が買い与えてくれるので、毎月の二十万は小遣いとして貰っているんです」
「ぷっ、お小遣い? 社長って、都さんでしょ? 必要なものって、お母さんに買ってもらってるってこと?」
「そうですよ」
「やばっ! マザコンじゃん!」
中畑はくすくす笑った。成程、俺に意趣返しに来たらしい。
「ねえ、社長の秘書なンだよね? どンな仕事してるの?」
「教えられません」
「仕事してないから教えられないンじゃないの? やってたら教えられるよね?」
「企業秘密ですので」
「あー、かわいそっ。いくら顔が良くても頭と性格が悪かったら、田舎でおばさんのおっぱい吸って、ママーって言うしか仕事ないンだ。おッもしろ! ねえ、美代さんてさ、」
ぱち、と俺が瞬きをすると、中畑の後ろに都が立っていて、汚物を見るような目で中畑を見ていた。都は人差し指でちょんちょんと中畑の肩をつつき、びくっと身を竦ませながら振り返った中畑の頬を、思いっ切り引っ叩いた。物凄い破裂音が響いて、淳蔵の部屋にまで届いたのか、淳蔵がドアを開けて廊下に出てくる。中畑はドンッと向かいの空き部屋のドアにぶつかってずるずると崩れ落ち、震える手で叩かれた頬をおさえながら、酷く怯えた様子で都を見上げた。
「なにしてるの?」
都が中畑に問う。淳蔵がそーっと俺に近寄ってきて、安否を確認するように俺の顔を見る。俺は人差し指を立てて唇の前に持ってきて『静かに』というジェスチャーをした。
「ぜェんぶ聞こえてるんですけど?」
「い、いや、あの、わっ、私、」
「そんなに御父様の顔に泥を塗りたいのかしら」
「ごっ、ごめンなさい! パパにはっ、パパには言わないでくださいっ!」
「パパに言われたくないから謝るの? 違うでしょ? 美代に嫌な思いをさせたから謝るんじゃないの?」
「み、美代さん、ごめンなさい! もう二度としませン! ごめンなさい!」
「性質の悪い猿だこと。ちょっとお説教が必要なようね。淳蔵、直治を電話で呼んで」
「はい」
「美代、ごめんね、嫌な思いをさせて。こういうのって現行犯で捕まえるしかないから・・・」
「ううん、気にしてないから」
「あとでちゃんとお詫びするから、仕事に戻ってちょうだい」
「わかりました」
荒っぽい足音がして、直治が階段を駆け上ってくる。
「すみません! 俺の監督不行き届きですっ!」
「今回はそうじゃないけど、今後そうなるかもしれないから、ちょっと話し合いましょ」
「はい! 立て! 中畑!」
泣き崩れている中畑を、直治が乱暴に立たせる。
「じゃ、ここの部屋で」
「はい!」
なにもない空き部屋に、都達は入っていった。
「美代、大丈夫か?」
「俺は大丈夫。でも直治が・・・」
「・・・部屋から出てきたら髪が真っ白になってたりしてな」
「有り得るなあ・・・」
俺と淳蔵は顔を見合わせ、溜息を吐いた。