百八十話 あと少し

文字数 2,922文字

いつもの時間に談話室に行くと、淳蔵は雑誌を読まずに足を組んで座っていた。二人でソファーを片付けて、待つ。暫くすると、盆に濃緑のゼリーと、餡子、ホイップクリーム、きな粉、黒蜜の入った小皿と茶の入ったコップを乗せた千代がやってきて、テーブルに盆を置いた。


「今日は抹茶ゼリーです。私もご一緒させていただきますねェ」


千代は俺の隣に座る。


「千代」

「はい?」

「この間は悪かったよ」


淳蔵の謝罪に、千代は一瞬きょとんとしたあと、微笑んだ。淳蔵は照れ臭そうに視線を逸らした。少しして、都を連れた直治がやってくる。直治は車椅子を横向きに固定すると、談話室の隅に置いてあるスツールを持ってきて、都と向かい合って座った。


「順番に報告しろ」


直治はそう言うと、都に抹茶ゼリーを食べさせ始める。


「達磨屋のテントがあった場所を見に来たぜ。暫く辺りを調べたあと、門扉まで移動して、鴉を見てビビって帰っていった。終わり」


俺は唇が歪むのを堪え切れなかった。


「泣きながら父親に電話をかけていたよ。何度かけても繋がらなくて、相当焦った様子だった。だから電話が繋がった時、『これで助かるんだ!』って顔をしていたね」


『パパ! 助けて! 今すぐ家に帰りたいの!』

『いつもの我儘じゃない! 私、酷いことされたの!』

『私、私・・・。私、犯されたの! レイプされたの!』

『誰に? だ、誰にって、わけのわからない男に・・・』

『違う! 都さん達に変な言いがかりをつけられて!』

『・・・え? け、警察?』

『け、警察は、ちょっと・・・』

『警察は呼べないの! なンでもいいから助けてよ!』

『なに言ってンの!? 愛娘のピンチなのよ!?』

『電話を切らないで!! お願い!! 助けて!!』


「電話を切ったあと、暫く放心してから、泣きながら歯を磨いて身体を洗ってたよ。二時間くらいね。それが終わると部屋を出て館を徘徊し始めた。ジャスミンの寝ている場所が気になったみたいで、壁や床を叩いて調べていたね。館の外にも一度出た。徘徊中に千代君に会って、少し話をしたあと、部屋に戻ってずっと泣きながら携帯を弄ってる。おしまい」


千代が頷く。


「昨日、なにが起こったのかを聞かれました。昨日のお昼過ぎ、都さんをお庭に連れ出した中畑さんの携帯に着信が入りました。久しぶりのお友達からの電話だったので、『少しだけ電話したい』と中畑さんが都さんにお願いして、都さんが承諾しました」


千代は、すう、と息を吸う。


「話に熱中して都さんの存在を忘れてしまった中畑さんは、都さんの制止も聞かずに館に戻り、部屋で電話を続けました。お客様の苦情の対応を終えた直治さんが一号室に戻ると、自力では移動できない都さんが部屋に居ないことに気付きました。直治さんは慌てて、淳蔵さん、美代さん、私に声をかけ、最後に中畑さんに声をかけたところ、『あ!』という反応をされたので、事情を聴き出して庭の森に向かいました」


眉を顰めて首を振る。


「都さんを見つけることはできましたが、都さんは八月の日中に外に放置されたことで体調が悪化してしまい、私がお部屋にお連れして手当をしました。直治さんはその場で淳蔵さんと美代さんに激しいお叱りを受け、館に戻ったあと、直治さんは中畑さんを叱責しました。中畑さんは泣いて謝りましたが、直治さんは許しませんでした。中畑さんは部屋に帰され、中畑さんの泣き声は深夜まで聞こえていました。と、昨日起こったことを、そのまま、お伝えしました。中畑さんはぽかんと呆けたあと、なにも言わずに去っていきました。私からは以上です」

「お、部屋から出てきたよ。階段を降りた」


こと、こと、と、足音を立てないようにしているのか、靴の裏が慎重に床に乗る音が聞こえてくる。こと、こと。足音が談話室に近付いてきて、そっと、中畑が中を覗き込む。中畑は怯えていた。


「あら、中畑さん。どうしたの?」

「どっ、どうして全員集まって、こ、こンなところでなにを、」

「家族団欒のひとときよ。貴方は家族ではないからお呼びじゃないわ」

「あの、私、地下室、探したけど、無くて・・・」

「地下室なんてものはうちには無いって言ったでしょ」

「そ、それで、携帯、に、友達からの着信履歴があって、友達に確認したら、確かに、友達も、私と話をしていたって・・・」

「ああ、昨日、炎天下の中に私を置き去りにした話?」

「・・・私、昨日、本当に、その、」

「中畑さん、良い知らせよ」


ぴた、と中畑が固まる。


「あと一週間と少しでここを出ていくでしょう? 直治と千代さんに指導してもらって、主婦としてやっていくのに十分な技術は身についたはずよ。特にお料理は、見違えるほど上達したわ。だからね、お父様が迎えに来る日の昼食は、貴方がメニューを考えて、貴方が一人で作りなさい。それまでの間に、作り方を調べて、材料や器具を揃えて、何度も練習するのよ。必要なものがあるなら淳蔵に頼んで町に買い出しに行きなさい。助言が欲しい時は千代さんに甘えなさい。いいわね?」

「は、はい・・・」

「お米の炊き方も知らなかった貴方が、味と栄養と彩を考えた食事を作るのよ。その成果を見れば、お父様も愛娘の成長にお喜びになるでしょう。婚約者だって喜ぶわ。相手のお母様のお許しも出て、結婚の話も具体的なものになるでしょうね」


中畑は、もうなにがなんだかわからない、という顔だった。


「中畑さん、昨日、物凄く叱られて、精神的に疲れ果てて変な夢を見て混乱しているみたいだから、キッチンに行って軽くなにか食べたあと、部屋でゆっくり休みなさい。明日からまた、花嫁修業ですよ。いいですね?」

「は、はい!」


中畑はお辞儀をした。昨日の『アレ』は夢だったのかと、表情が明るくなっている。


「失礼しま、」

「あ! そうそう、」


都が微笑む。


「『達磨屋の辰』さん、元気だった?」

「・・・え?」

「貴方の、久しぶりのお友達。二人で長電話をした結果、私は夏の日差しをたっぷりと浴びることになったんじゃない。お友達に伝えておいてね。長話した結果、大変なことになっちゃったって」


中畑は白くて大きい顔から血の気が引いたのか、余計に真っ白になっていた。


「ちが、います・・・。電話の相手は、『あやちゃん』って子で・・・」

「あら、じゃあ私の聞き間違いだったかしら。ごめんなさいね。さ、家族団欒を邪魔しないでね」


中畑は談話室を出ていった。今日、するべきことは終わった。やっと本当の意味での『家族団欒』の時間が始まる。


「これ、千代さんが作ってくれたの?」

「はァい! お気に召しましたかァ?」

「美味しいの。凄く美味しいの。でも、でもね、千代さん、粒餡派なの?」

「もしや漉し餡派でしたか?」

「相容れねーな」

「戦争ですねェ」


くすくす、くすくす。二人の囀るような声が重なる。都の少し低い声と、千代の少し高い声。都以外の女に愛情を抱いて、可愛いと思うだなんて、昔の俺には想像もできなかっただろう。それどころか、そんな想像をすることすら激しく嫌悪して、汚らわしいと思っていたに違いない。


「・・・さて、ジャスミン。皆の前で話があるから、来なさい」


ジャスミンは怒られるのがわかっているのか、そおーっと談話室に入ってきて、都の隣に座った。
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