九十九話 噂
文字数 2,495文字
どんなに仕事が忙しくても、俺が商談や打ち合わせに行く時は、都は見送りに来てくれる。
「あら? 淳蔵は?」
「今日から自分で運転しようと思って」
俺は大学に通っている間にペーパードライバーになってしまったので、館に帰ってきてからは淳蔵に練習に付き合ってもらって、再び車に乗れるようになっていた。淳蔵の野郎、運転だけは無駄に上手いので今まで送迎させていたが、都の会社の社員として正式に働き始めたことと、毎日の鴉でのパトロールを優先させるため、今日から自分で運転することにしたのだ。
「行ってらっしゃいのキス」
「はいはい」
都が少し背伸びして俺にキスをする。俺は都の後ろ髪を掴むと口の中をべろべろと舐め回した。
「んんっ、ん」
「んー・・・」
ずっとキスしていたいが、そういうわけにもいかない。俺は名残惜しくも唇を離した。
「行ってらっしゃいのキスにしては、情熱的ね」
「フフッ、仕事、上手くいきそうだよ」
俺が笑うと、都は何故か悲しそうな顔をして、俺の首に抱き着いた。
「都?」
「ごめんね、本来は私の仕事なのに」
「いいんだよ。外に出られないんだから、仕方がないだろ?」
俺は都を抱きしめ返す。都は俺を見つめた。
「ねえ、美代」
「うん?」
「・・・外に、出たいな」
「・・・いいよ。都の知らないこと、全部教えてあげる」
都は嬉しそうに笑った。
仕事自体は上手くいった。食事に誘われたので承諾したが、これが苦痛だった。相手が有名なヘビースモーカーなのだ。館は敷地内禁煙で、息子の俺達は煙草を吸わない。都と千代は嫌煙家だ。
「いやぁ、美代さん。相変わらずお母様は肺が悪いので?」
相手方の有坂社長が紫煙をくゆらせる。飯が不味くなった。
「はい。運動も控えるようにと」
「うーむ、大変ですなあ、外に出られないというのは。陰口を叩かれるのは人気がある証拠なんでしょうけれど、悪い噂もよく聞きますよ。いやなに、その噂を流している連中も、品のない成金や、血族の威光で威張ってる馬鹿ばっかりですけれどな」
「悪い噂、ですか」
「『女に金を持たせると碌なことがない』と、男尊女卑丸出しの考えの馬鹿ばっかりですよ。莫大な金と深く広い人脈に物を言わせて、働かずに甘い蜜を貪り食って、山奥に引きこもって自分好みに育てた美青年達と乳繰り合ってる、とね」
有坂は煙草をフィンガーボールに入れて火を消し、二本目を吸い始めた。こいつ、仕事は抜群にできるけど、礼儀作法がなってない。都に対して敵意を持っているわけではないようだが、ずばずばと物を言うので失礼なヤツだ。
「聞きましたよぉ、少し前までは女の子を育てていたとか。なんでも、高校進学の資金援助までされたそうですな。一体どういう経緯で?」
「話すと長くなりますよ」
「構いませんよ」
「・・・では、」
俺は簡潔に美雪と雅のことを、名前を伏せて話した。これは都から『聞かれたら話してもいい』と言われているからだ。俺の判断で勝手に家庭内のことを話したりはしない。
「・・・ほぉー。『極東の魔女』と噂される都さんが、そんな人情家だったとは」
「『極東の魔女』だなんて呼ばれているんですか?」
「ええ、『夢』を操る魔女だとね。一部の馬鹿共からは不気味がられていますよ。賢い我々はそんなこと気にしませんがね。仮に都さんが本当に夢を操る魔女だとしても、良き仕事相手にはかわりありませんからな」
「ありがとうございます」
「うーん、しかし、一度お会いしたいものだ。噂では『傾国の美女』だとか、『天女』だとか、『サキュバス』だとか言われるほどお美しいとか。美代さん、一度、茶の席を設けてはくださりませんか?」
「構いませんけれど、有坂社長。我が家は完全禁煙です。ヘビースモーカーの有坂社長にはつらくないですかね」
「ハハハッ! ではこの一本を最後に禁煙、いや減煙するかな・・・」
そう言って、有坂はたっぷりと煙草を吸った。
「ッチ、馬鹿が・・・」
食事は無事に終わったが、服にも髪にも臭い煙が染み付いてしまった。このまま帰るわけにはいかない。俺は近くのカプセルホテルの情報を調べて、浴室と洗濯機と乾燥機があることを確認してから、近くの洋服店で着るものを一式揃えた。館内用の寝巻きに着替え、洗濯機に煙が染み付いた服を入れて洗い、乾燥させてから、服を買った時に貰った紙袋に洗った服を入れる。それから風呂に入り、念入りに身体と髪を洗い、新しい服に着替えた。俺達は人間より五感が優れている。嫌いな音やにおいになれば尚更だ。都に不快な思いは絶対にさせたくなかった。
「おっと」
帰りは少し遅くなる、と連絡するのを忘れていた。都にメッセージを送る。
『仕事は上手くいきました。
帰りは遅くなります』
『ありがとう。
また帰る時に連絡をください』
『わかりました』
仕事用の携帯でのやりとりだから、これで終わる。これで終わるのに都から返事が来ているのかと思うとにやにやしてしまう。俺はプライベート用の携帯を取り出した。
『有坂社長が都のこと『極東の魔女』って言ってたよ』
『私のこと嫌ってるヤツ、みーんなそれ言うんだけど、有坂さんもそんな感じ?』
『いや、ただ失礼なだけ。都と会ってお茶したいって言ってたけど、ヘビースモーカーは駄目ですってお断りしといた』
『ありがとう。もしかしてまだ会議中? それとも食事中?』
『会議のち食事。両方終わったんだけど、有坂社長のせいで煙草臭くなっちゃって、カプセルホテルで服を洗濯してお風呂に入ってたから連絡が遅くなっちゃった。ごめんね。もうすぐ帰るよ』
『たまには遊んで帰ってきてもいいぞぉ』
『母さんが居ないと寂しくて死んじゃうからすぐ帰る』
『愛してるよベイビィ。待ってるね』
キスマークの絵文字が一つ飛んできて、会話はそこで終わった。
俺は携帯を持ちながら、片手で口元をおさえてにやけを堪える。
「なんでそんなにお茶目なのっ・・・」
小声で言う。と、携帯の画面に雅のメッセージの通知がきた。
『十二月二十八日から一月五日まで、帰りますー!』
俺は携帯を持ちながら、片手で口元をおさえて怒りを堪える。
「なんで帰ってくるんだよっ・・・!」
また騒がしくなる。俺は深い深い溜息を吐いた。
「あら? 淳蔵は?」
「今日から自分で運転しようと思って」
俺は大学に通っている間にペーパードライバーになってしまったので、館に帰ってきてからは淳蔵に練習に付き合ってもらって、再び車に乗れるようになっていた。淳蔵の野郎、運転だけは無駄に上手いので今まで送迎させていたが、都の会社の社員として正式に働き始めたことと、毎日の鴉でのパトロールを優先させるため、今日から自分で運転することにしたのだ。
「行ってらっしゃいのキス」
「はいはい」
都が少し背伸びして俺にキスをする。俺は都の後ろ髪を掴むと口の中をべろべろと舐め回した。
「んんっ、ん」
「んー・・・」
ずっとキスしていたいが、そういうわけにもいかない。俺は名残惜しくも唇を離した。
「行ってらっしゃいのキスにしては、情熱的ね」
「フフッ、仕事、上手くいきそうだよ」
俺が笑うと、都は何故か悲しそうな顔をして、俺の首に抱き着いた。
「都?」
「ごめんね、本来は私の仕事なのに」
「いいんだよ。外に出られないんだから、仕方がないだろ?」
俺は都を抱きしめ返す。都は俺を見つめた。
「ねえ、美代」
「うん?」
「・・・外に、出たいな」
「・・・いいよ。都の知らないこと、全部教えてあげる」
都は嬉しそうに笑った。
仕事自体は上手くいった。食事に誘われたので承諾したが、これが苦痛だった。相手が有名なヘビースモーカーなのだ。館は敷地内禁煙で、息子の俺達は煙草を吸わない。都と千代は嫌煙家だ。
「いやぁ、美代さん。相変わらずお母様は肺が悪いので?」
相手方の有坂社長が紫煙をくゆらせる。飯が不味くなった。
「はい。運動も控えるようにと」
「うーむ、大変ですなあ、外に出られないというのは。陰口を叩かれるのは人気がある証拠なんでしょうけれど、悪い噂もよく聞きますよ。いやなに、その噂を流している連中も、品のない成金や、血族の威光で威張ってる馬鹿ばっかりですけれどな」
「悪い噂、ですか」
「『女に金を持たせると碌なことがない』と、男尊女卑丸出しの考えの馬鹿ばっかりですよ。莫大な金と深く広い人脈に物を言わせて、働かずに甘い蜜を貪り食って、山奥に引きこもって自分好みに育てた美青年達と乳繰り合ってる、とね」
有坂は煙草をフィンガーボールに入れて火を消し、二本目を吸い始めた。こいつ、仕事は抜群にできるけど、礼儀作法がなってない。都に対して敵意を持っているわけではないようだが、ずばずばと物を言うので失礼なヤツだ。
「聞きましたよぉ、少し前までは女の子を育てていたとか。なんでも、高校進学の資金援助までされたそうですな。一体どういう経緯で?」
「話すと長くなりますよ」
「構いませんよ」
「・・・では、」
俺は簡潔に美雪と雅のことを、名前を伏せて話した。これは都から『聞かれたら話してもいい』と言われているからだ。俺の判断で勝手に家庭内のことを話したりはしない。
「・・・ほぉー。『極東の魔女』と噂される都さんが、そんな人情家だったとは」
「『極東の魔女』だなんて呼ばれているんですか?」
「ええ、『夢』を操る魔女だとね。一部の馬鹿共からは不気味がられていますよ。賢い我々はそんなこと気にしませんがね。仮に都さんが本当に夢を操る魔女だとしても、良き仕事相手にはかわりありませんからな」
「ありがとうございます」
「うーん、しかし、一度お会いしたいものだ。噂では『傾国の美女』だとか、『天女』だとか、『サキュバス』だとか言われるほどお美しいとか。美代さん、一度、茶の席を設けてはくださりませんか?」
「構いませんけれど、有坂社長。我が家は完全禁煙です。ヘビースモーカーの有坂社長にはつらくないですかね」
「ハハハッ! ではこの一本を最後に禁煙、いや減煙するかな・・・」
そう言って、有坂はたっぷりと煙草を吸った。
「ッチ、馬鹿が・・・」
食事は無事に終わったが、服にも髪にも臭い煙が染み付いてしまった。このまま帰るわけにはいかない。俺は近くのカプセルホテルの情報を調べて、浴室と洗濯機と乾燥機があることを確認してから、近くの洋服店で着るものを一式揃えた。館内用の寝巻きに着替え、洗濯機に煙が染み付いた服を入れて洗い、乾燥させてから、服を買った時に貰った紙袋に洗った服を入れる。それから風呂に入り、念入りに身体と髪を洗い、新しい服に着替えた。俺達は人間より五感が優れている。嫌いな音やにおいになれば尚更だ。都に不快な思いは絶対にさせたくなかった。
「おっと」
帰りは少し遅くなる、と連絡するのを忘れていた。都にメッセージを送る。
『仕事は上手くいきました。
帰りは遅くなります』
『ありがとう。
また帰る時に連絡をください』
『わかりました』
仕事用の携帯でのやりとりだから、これで終わる。これで終わるのに都から返事が来ているのかと思うとにやにやしてしまう。俺はプライベート用の携帯を取り出した。
『有坂社長が都のこと『極東の魔女』って言ってたよ』
『私のこと嫌ってるヤツ、みーんなそれ言うんだけど、有坂さんもそんな感じ?』
『いや、ただ失礼なだけ。都と会ってお茶したいって言ってたけど、ヘビースモーカーは駄目ですってお断りしといた』
『ありがとう。もしかしてまだ会議中? それとも食事中?』
『会議のち食事。両方終わったんだけど、有坂社長のせいで煙草臭くなっちゃって、カプセルホテルで服を洗濯してお風呂に入ってたから連絡が遅くなっちゃった。ごめんね。もうすぐ帰るよ』
『たまには遊んで帰ってきてもいいぞぉ』
『母さんが居ないと寂しくて死んじゃうからすぐ帰る』
『愛してるよベイビィ。待ってるね』
キスマークの絵文字が一つ飛んできて、会話はそこで終わった。
俺は携帯を持ちながら、片手で口元をおさえてにやけを堪える。
「なんでそんなにお茶目なのっ・・・」
小声で言う。と、携帯の画面に雅のメッセージの通知がきた。
『十二月二十八日から一月五日まで、帰りますー!』
俺は携帯を持ちながら、片手で口元をおさえて怒りを堪える。
「なんで帰ってくるんだよっ・・・!」
また騒がしくなる。俺は深い深い溜息を吐いた。