三百二十六話 馬鹿美代

文字数 2,632文字

午前六時半。俺はいつも都の部屋に行って、朝の挨拶を交わしてから働き始める。本当なら都にはもう少し寝ていてほしいが、互いにワーカーホリックなので『貴方も休みなさい』と水掛け論になってしまってなかなか難しい。


「ん?」


部屋の外まで聞こえる、奇妙な声。

直治の声だ。

慟哭しているような、声。

階段の途中で立ち止まっていた俺は引き返そうとしたが、ガチャ、と独りでにドアが開き、中からジャスミンが尻尾を振りながら出てきて、まるで『部屋に入れ』と言わんばかりにオスワリをした。直治の声がよく聞こえる。心臓に悪いくらい叫んでいる。俺は一瞬で極度の緊張状態に陥った。深呼吸を一つ、階段を上がり、都の部屋に入る。


「おはよう」

「お、おはよう、ございます」


都はいつも通り、部屋の奥の机で仕事をしていた。異様なのは、その横の直治。陽の光を浴びて、汗で濡れた身体が輝いている。バタン、と勝手にドアが閉まり、ガチャ、と鍵がかかった。ジャスミンの馬鹿野郎。


「み、都」

「なあに?」

「その、直治、は・・・」


くす、と都が笑う。


「昨日、ちょっと過激な遊びをしてたら、興奮し過ぎて私の肩を噛んじゃってね。血が出るくらい。私の血を飲んで暴れ始めたから、縛ってるの」


都の血は、俺達にとってどんな薬よりも脳を蕩けさせ、どんな毒よりも身体を痺れさせる禁断の雫だ。


「可哀想だから、落ち着くまでこうやって見張ってるってわけ」


重厚な椅子の上。直治は手首と足首をくっつけるように縛られ、足を開くように椅子に固定されている。目隠しと開口器具、乳首には洗濯バサミ、尻の穴には太いバイブを入れられてストッパーバンドで滑り落ちないようにされ、濁った声で絶叫していた。


「し、死んじゃうよ、直治」

「そう? じゃあ休憩させてあげようかな」


都が机の上に置いてある小さなリモコンのスイッチを押すと、バイブの振動が止まった。直治はガクリと項垂れ、興奮した獣のような荒い呼吸を繰り返す。都が椅子から立ち上がり、直治の開口器具を外した。


「直治、聞こえてる?」


目隠しも外す。


「美代が直治のこと心配してるから、ちょっと休憩ね」

「やえ、ないれ・・・、も、もっと、もっどぉ・・・」

「水分補給もしなくちゃでしょ。ほら、美代が見てるよ」


都は直治の顎を掴み、俺の方を向けさせる。直治は俺を見ても俺だと認識できなかったらしい。いつもは理知的な涼しい目元が、幼子が不思議なものを見るような目で俺を見ていた。


「汗掻いてるんだから、塩分も必要だね」


都が部屋の隅の冷蔵庫まで歩いていくと、直治からは姿が見えなくなる。途端に直治は焦り始めた。


「みやこっ、みやこおっ!」

「いーるーよー」


幼子というより、赤子だ。母親の姿が見えなくなって泣き出して、それをあやすようなやりとりをしている。


「ほら、スポーツドリンク。飲ませてあげるから大人しくしてね」


都はペットボトルの蓋を開けると口に含み、直治に口移しで飲ませ始める。ごくっごくっと直治が喉を鳴らす。


「良い子ね、直治」

「いじめてっ、いじめてえっ」

「休憩だってば」

「おねがいっ、おねがいっ」

「もう、仕方がないなあ。『後ろ』はもう駄目。『前』でね」


都がストッパーバンドの紐を解いて、バイブを引き摺り出す。直治は切ない顔をする。都がしゃぶりはじめると、直治の甲高い喘ぎと共に、ガチャ、キイ、と、鍵が開き、ドアが開いた。俺は慌てて部屋を出てドアを閉めた。


「っ、クソッ・・・!」


羨ましい、だなんて。


「馬鹿犬!」


俺はずっと同じ場所に座っていたジャスミンに向かってそう吐き捨て、事務室に行った。仕事をしていても集中できない。苛々する。朝食の時間になって食堂に行っても、都と直治は勿論居ない。


「あれ、直治はどうしたんだ?」


なにも知らない淳蔵が言う。


「体調不良だそうですぅ!」

「・・・そうか」


直治が『体調不良』で仕事を休んだことは一度もない。俺達は滅多なことがないと体調を崩さない『造り』をしているのだから当たり前だ。淳蔵は都も居ないことでなにかしら察したらしい。千代も桜子も必要以上に言及しない。


「いただきます」

『いただきます』


都が居ない時は俺が代理だ。イチャイチャしてる二人の代理だなんて馬鹿らしい。

昼食になっても都と直治は来ない。

夕食になっても都と直治は来ない。

淳蔵は心配半分不満半分といった顔だ。俺の苛立ちが伝わってしまったのだろう。余計なことは言わない。言っちゃ駄目だ。都の血は滅多なことでは貰えない『ご褒美』だ。元ヤク中の淳蔵が『クスリよりキまる』と言う程の危険な快楽を味わえる。都の生き血は寵愛の証。それを『興奮してついうっかり』で直治が頂戴できただなんて。それよりも、都の身体に傷を付けるだなんて、今の直治はなにもかもから許されない存在だ。

夜十時。都の部屋に行き、一日の報告をして抱きしめてもらってから仕事を終えるのがいつもの日課。二人に遠慮するなんて馬鹿馬鹿しい。直治に嫌味の一つでも言ってやりたい気分だ。俺は階段を登った。

こんこん。


『どうぞ』

「失礼します」


部屋に直治は居なかった。


「社長、今日の報告を」


いつも通りに。


「・・・そう、ありがとう。今日も一日お疲れ様」

「直治は?」

「部屋に帰したわ。明日も使い物にならないかも」


にこり、と都は笑う。


「都」

「なあに?」

「どこ噛まれたの」


ブラウスのボタンを外し、少しはだける。左の肩に、くっきりと、痛々しい歯形が付いていた。


「そのままこっちに来て」


いつも通りに、都を抱きしめる。俺は直治の歯型の上から、そっと、噛み付いた。痛みに小さく呻く都。


「・・・あんまり煽らないように」


俺は身体を離し、ブラウスのボタンを留める。そして部屋を出て自室に戻り、シャワーを浴びた。


「馬鹿が」


直治か、都か、ジャスミンか、俺か。


「・・・俺だな」


寝る前の準備を済ませたあと、鍵付きの引き出しを開錠して、中から小さなケースを取り出す。紺色のベルベットの包みを開くと、中から出てきたのは、赤いカプセル。

都の血だ。

見ているだけで気分が高揚し、同時に沈み込むように冷静になっていく。都が戦いから帰ってきた時、淳蔵から『輸血できるかもしれない』と言って隠し場所を教えてもらったもの。あの時、ジャスミンはこれを使わなかった。あいつは、『白い男』は、にっこりと笑って、まるで賄賂でも握らせるように俺をこれに渡した。俺は受け取った。受け取ってしまった。今でもこうして隠し持って、宝石を眺めるように鑑賞している。


「馬鹿美代」


独り言ちた。
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