三百十七話 色仕掛け

文字数 2,287文字

あと一週間で真冬の試用期間が終わる。そのあとの二ヵ月の『仕込み』が楽しみで仕方がない。皆ですき焼きを囲むのもそうだが、肉を頬張って幸せそうに微笑む都を早く見たくて仕方がない。

こんこん。


「どうぞ」

『失礼します』


真冬だ。出勤するためにタイムカードを打刻しに事務室に来たのだろう。


「おい、待て」

「なんですか?」


真冬は嬉しそうにしている。


「なんだその恰好は」


真冬はピンクの生地に白いハイビスカスが描かれた、細い肩紐のワンピースを着ていた。胸の谷間が見えてイラッとした。白い半透明な布を肩にかけて腕に巻き付け、両手首にはシルバーのブレスレットに、紺色のキラキラしたマニキュアと、似た色のキラキラしたハイヒール。髪はまとめあげて白いリボンを付けていた。


「直治様、私、間違っていました・・・」


漂う香水。


「目の前にこんなに素敵な男性が居るのに、別の人を見てしまっただなんて、私、馬鹿ですよね・・・」


ああ、標的を美代から俺にかえたのか。


「真冬、今すぐシャワーを浴びて香水を落として、仕事用の服に着替えてこい。その恰好での出勤は認めない」

「シャワーならもう浴びてきましたよ?」

「香水を落として服を着替えろ。その恰好での出勤は認めない」

「恥ずかしがらなくていいんですよ? 私、気付くのが遅かったですよね? ごめんなさい。直治様は熱烈にアプローチしてくれていたのに」

「おい、お前の勘違いだ。俺はお前に一度もアプローチなんてかけてない」

「直治様ってシャイですもんね? そう言っちゃいますよね。全部わかってますからいいんですよ? 社内恋愛ってなんか大人っぽくてお洒落ですね。それに、スリルがあってヤミツキになりそう・・・」


椅子に座った俺に真冬が近付いてくる。唇を尖らせているのでキスをしようとしているのはすぐにわかった。俺は左手の甲で唇を庇い、右手で真冬を押し返そうとした。

その時だった。


『バアアァンッ!!』


真冬が鍵をかけたはずのドアが、轟音と共に部屋の中に吹っ飛んできた。正面にある棚にぶつかって棚を倒したにも関わらず、勢いを失わずに回転しながら向きをかえ、棚の横の窓へ。そのまま窓をブチ破り、窓だった硝子片とドアだった木片が外に飛び散っていった。


「おはよう」


ぬるり、と都が事務室に入ってきた。唇は綺麗な弧を描いているのに、目は見開かれて、全く笑っていない。怖過ぎて吐き気がして、俺は慌てて手の甲をひっくり返して口元をおさえた。真冬は俺の足元にへたり込んで、都を見上げていた。


「今、なにしてたの?」


俺は慌てて右手を振った。


「なにしてたか聞いてんだけど」


ぱたぱたと複数の足音が聞こえる。音から異常事態に気付いて様子を見に来たのだろう。


「おい、お前に聞いてんだよ阿部真冬。なにしてたんだよ、ええ?」


真冬は震えるだけで、なにも言わない。いや言えないのかもしれない。かちゃかちゃ。ジャスミンの足音。荒れた事務室に入ってくると、都と真冬の間に入り、『きゅんきゅん』と鳴く。


「ジャスミン、退きなさい」


きゅんきゅん。


「退けやテメェ」


きゅうん。


「仏が三度までっつってんだぞ。俺がそれより気が長いように見えんのか?」


ジャスミンは、そっと、身体を躱し、『ごめんなさい』と言わんばかりに項垂れた。


「直治」

「は、はい!!」

「『仕込み』に入れ」

「はい!!」

「良かったな、オイ。この前、美代に怒られてなかったら今日がお前の命日だったぜ」


真冬を見てそう言うと、都は足音も無く去っていった。それと入れ替わりに美代がひょこっと事務室を覗き込む。


「うわ、派手にやったねえ」


そう言ってケラケラ笑った。


「直治、都の指示通り仕込みに。千代君、桜子君、悪いけど事務室の片付けを。淳蔵、無理せずトイレで吐いてこい」


廊下に全員居るらしい。俺は静かに息を吸う。香水のせいで吐きそうだ。落ち着くために深呼吸したかったが大して吸えずに吐き出してしまった。真冬の首を後ろから鷲掴みにし、暴れるのも構わずにずるずると引き摺って地下室へ連れて行った。最低限の処理をして事務室に戻ると、千代と桜子はまだ片付けをしていた。


「おや、直治さん! ブチギレた都さん、怖かったですねェ!」


千代も美代と同じくケラケラ笑っているが、桜子は真っ青になっていた。


「桜子、無理するな」

「い、いえ、動いている方が落ち着きます」

「そうか・・・」


千代は笑みをチェシャ猫にかえる。


「お肉さんの格好を見て大体の想像はついていますが、色仕掛けされたんですかァ?」

「おう・・・」

「あニャニャ、それで激怒しちゃったと?」

「・・・昔は、こんなふうに暴れることはなかった」

「あれま。また虫の居所が悪かったんでしょうかねェ?」


わからない。俺達は一度も受け入れたことは無いが、色仕掛けしてくるメイドなら何人も居た。もっと直接的で下品な者も居た。何故、今回に限ってこんなに。かなり昔の話だが、都が自分に正直になるまでは、メイドに手を出すように誘導することもあったのに。俺達は一度もそんなことはしなかったが。


「うニャー、やってもやっても片付きませんなァ。今日は無理ですね! 不幸中の幸いでお客様は居ませんし、取り敢えず朝食にしましょうか。私、都さんを呼んできまァす!」

「え!? 呼んでくるのか!?」

「はァい! 食堂で召し上がらないのならお部屋にお運びしなくちゃいけませんしィ?」

「お、お前、死ぬなよ?」

「都さんは八つ当たりはしても八つ裂きはしませんよう。桜子さん、朝食の準備を。直治さんは淳蔵さんと美代さんを呼んできてくださいませませェ!」


千代は行ってしまった。俺と桜子は顔を見合わせ、互いにぱちぱちと瞬いた。
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