百二十七話 安眠

文字数 2,519文字

「直治」

「ん?」

「・・・昔の話、してくれ」


昔の話。俺の腕の中で不安そうに見上げてくる美代を見ても、不思議と苛立ちはわかなかった。眠れない子供が御伽噺をねだる様な甘い声のせいかもしれない。美代は気丈に振舞っているが、母親に復讐をしてから長い間、不安定になっている。繋がりを求めている。都ではなく俺と淳蔵に。精神的に成長するんだろう。『脱皮』の時期だ。白くて無垢で、柔くて危ない。そっと触れてやるしかない。


「頭の中真っ白になるの、怖いぞ」


エメラルド色の瞳が俺の瞳を捉える。トルマリン色に輝いていた。


「どこにも逃げ場がないんだ。どこにも隠れられない。だから朝と昼は憂鬱だった。『普通』の人間が『普通』に暮らしていて、その生活音が煩わしかったよ。ハハ、『普通』ってなんなんだろうな」


昼は、長い。


「生活音がなにかのノイズみたいに聞こえて、それが段々、俺の思考を盗聴している音のような気がしてくるんだ。声に聞こえることもある。父親の声に似てたな。俺のやること全てに反応して、笑ったり怒ったり泣いたりするんだよ。俺を馬鹿にしてるんだ」


俺は美代の耳を軽く掴んで、さりさりと撫でた。


「くすぐったい」

「それの何億倍も嫌な感じだ」

「・・・怖いな」

「だろ? 変なモノが見えることもあってな。学校に行った時は特に酷かった。屋上の鴉、校庭の猫、ホルマリン漬けの標本、ゴミ捨て場の人形。全員、理想的な女に見えてな。毎日口説きに行ってたよ」

「・・・その、周りに虐められたりしなかったのか?」

「俺、馬鹿みたいに背が伸びるのが早かったからな。デカくて怖かったんだろ。避けられてはいたよ」

「へえ・・・」

「何故か、世界中の女は皆、俺に気があると本気で思い込んでいてな。現実に存在する女にも言い寄って、警察沙汰になったことがある。父親に殴られて母親に泣かれても、いまいちピンとこなかったのが怖いところだろ?」

「怖いなあ」

「あとは妄想・・・、だな。五カ国語を覚えて世界をまたにかけるチョコレートの会社を立ち上げて社長になるだの、一からロケットを組み立てて火星に移住するだの、日本で初の大統領兼シンガーソングライターになって来年の歴史の教科書を書き換えさせるだの。覚えてるのはこれくらいか? 他にも色々言ってた気がする」


美代は子供のように俺の話に聞き入っている。淳蔵の言っていた通り、生意気な美代がしおらしくなって可愛い、と、何度か抱いてやって寝るうちにそう思うようになった。


「症状についてはこんなところか? 夕暮れになってくると、気分も落ち着いてくる。暗闇は良い。夜に起きているヤツは『普通』から逸れちまった人間が多いからな。妙な同族意識がわいてくる。それと同時にそういうヤツを心の中で見下してたよ。『俺はこいつよりマシだ』と思うことで、ちっぽけな自尊心を保とうとしていたんだ」


腕の中の美代の体温が徐々に上がってきたのがわかる。美代は普段は体温が低くて、眠くなると温かくなる。もう少し話してやれば心地良く寝息を立て始めるだろう。俺は言葉を紡いだ。


「俺、林檎とカレーと菓子パンが嫌いでな。林檎は祖父が林檎農家やってて、月に一回、売り物にならない林檎をダンボール一箱分、母親に押し付けてたんだよ。俺の病気のせいで近所からは村八分状態だったから、どうにかして貰った林檎を食べ切ろうと、色々創作料理が食卓に並んでた。カレーにじゃが芋が入ってると思ったら、林檎だった時もあったよ」

「それでカレー嫌いに?」

「いや、カレーはカレーで別の理由がある。貧乏だったから、安いルゥと食材をブチ込んで、不味いカレーばっか食わされてたんだ。日持ちするからって週に一度はカレーが出て、それが三日続く。『カレーはよく煮込んだ方が美味しい。二日目の方が美味しい、三日目は更に美味しい』とか言ってな。俺、ある日それが我慢できなくなってブチギレて、両親に金をせびるようになったんだよ。それで菓子パンばっか食ってたから、お前らと出会った時、あの体型だったわけだ」

「成程・・・」

「あとは・・・。親友のドアノブ、か?」

「『ぐーちゃん』と会った時にそんなこと言ってたような・・・」

「ドアノブだと認識しているのに、ドアノブだと理解できなかったんだよ。説明が難しいな」

「なんとなくだけどわかるよ」

「なんでも話したよ。今のお前みたいにな」


美代はくすくす笑った。目蓋が大分落ちている。眠いのか幸せなのかわからない顔だ。


「・・・直治は格好良くて優しいな」

「美代は可愛いぞ」

「淳蔵は?」

『美人』


二人の声が重なって、二人で笑う。


「眠れそう・・・」

「おやすみ」

「おやすみなさい・・・」


夢の世界に意識を手放した美代を見つめて、俺は昼に都とした会話を思い出す。


「ねえ、直治。美代、ちょっと不安定だと思わない?」

「母親に復讐してから、ずっと不安定だな」

「多分、この館に来てからも、ずっとずっと、ずーっと恨んでいたからだと思うの。私、美代の気持ちがちょっとだけわかるからさ」

「謙遜すんなって。良き理解者だよ」


美代は女に産まれなかったことを責められ、都は男に産まれなかったことを責められた。そして、二人共男に犯されかけた。都が復讐の機会を執念深く窺い続けていたように、美代も心のどこかで復讐したいという気持ちが燻っていたのだろう。


「直治達に甘えに行くのは、一過性のものかもしれないし、もしかしたら今後ずっと続くかもしれないけれど、美代のこと甘やかしてあげて欲しいの」

「都」

「うん?」

「余計なお世話だ」


都は目を丸くした。


「俺達、何十年の付き合いだと思ってる? なんなら飯の介助して風呂に入れて歯磨きして、シモの世話もしてやるよ」

「・・・フフ、これはこれは。無粋なことをしました。話はこれでおしまい。仕事に戻ってちょうだい」

「わかった」

「ありがとね」


俺は手を振って談話室を出た。

腕の中の美代は安眠している。普段は勝気で、頭の回転が速くて、口が達者で、ちょっと沸点が低いが、仕事は完璧にこなす美代。俺なんかでよければ、いくらでも甘やかしてやるから、平穏な日常を送ってほしい。俺は抱きしめる腕にそっと力を込めた。美代は俺の胸板に顔を擦りつけて、少しだけ笑った。
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