百七十五話 介護

文字数 2,818文字

朝五時、目覚まし時計が鳴る。目蓋を開けると都が俺の腕の中で眠っている。表情は穏やかだとは言えなかった。起こしたくはないが、頬を優しく叩いて起こす。


「おはよう」

「んー、おはよう・・・」


車椅子に乗せ、キッチンに向かう。ジャスミンの朝飯の時間だ。ジャスミンが中畑を受け入れる提案をしなければこんなことにはならなかったので、罰としてダイエットフードを野菜の煮汁でふやかして与えている。


「許してあげなよ」

「うるさい」


ジャスミンは申し訳なさそうな顔をしている。専用の台に餌皿を設置すると、さっさとキッチンを出る。都は食べ終わるまで見ていたいと言ったが、俺が許さなかった。部屋に戻ると、都の歯を磨く。『肉』の『下処理』をしていた経験がこんなところで活きるだなんて、とんでもない皮肉だ。歯磨きが終わると、濡れタオルで顔を丁寧に拭く。俺も歯磨きをして顔を洗った。


「あの・・・」

「ん?」

「ご、ごめんなさい、トイレ・・・」


都が顔を真っ赤にして視線を逸らした。トイレに連れて行き、ズボンと下着を脱がせて便器に座らせる。


「ほ、ほんと、ごめんなさい」

「気にする間柄じゃないだろ。何度も言わせるな」

「・・・終わりました」


丁寧に陰部を拭き、処理をする。服を着せて車椅子に座らせ、テレビの前に移動すると車椅子を固定する。小さな音量でテレビを点けてニュースを流した。


「直治、外の空気吸いたい」

「・・・わかった」


カーテンを少し開け、ベランダに続く窓を開ける。ベランダの隅っこで淳蔵の鴉と美代の鼠が身を寄せ合って眠っていたので、ちょんちょんとつついて起こした。誰にも見られたくないと都が言っているのに、この馬鹿共は聞けないらしい。二人が起きたのを確認してから、窓を少しだけ開けたまま、カーテンを閉める。俺は都の前にしゃがみ込んで、腕と足のマッサージを始めた。


「ありがとうね」


俺は都を見上げて微笑む。マッサージが終わると都の髪の毛を梳く。艶があってさらさらなのに、どうしてか外側にふわふわと跳ねてしまう。それがまた愛おしい。髪の手入れを終えると、二人でテレビを見る。特に会話は無い。

朝食の時間の三十分前に食堂に行く。いつもならバラバラの時間に来る淳蔵も美代も、一番遅く来る中畑でさえも席に座って都を待っていた。昨日、医者が帰ったあとの話は美代から聞いている。淳蔵が怖いのか千代が怖いのかはわからないが、中畑は見せつけるように笑うことはしなくなった。千代が食事を配膳し終えると、都の『いただきます』の声で食事が始まる。淳蔵と美代は黙って食べている。恐らく味はしていないだろう。千代は都からの命令を遂行しようと、『いつも通り』に振舞っていた。

食事を終えると、部屋に戻る。千代が俺の食事を部屋に運んできたのでドアの前で受け取り礼を言う。千代は深くお辞儀をしてから去っていく。

都は座っていられる時はテレビを見せて、座るのがつらくなったらベッドに寝かせた。身体も頭も動かさないと腹が減らないからなのか、昼食は摂らない。夕方五時のジャスミンの晩飯は千代に任せてあるので、俺達の夕食の時間まで、部屋の外に出ることはない。俺は千代に頼んで事務室から運んでもらった仕事道具でいつも通りの業務と並行しながら、『達磨屋の辰』について情報収集を続け、都が講じた策に穴は無いか、縫い針の穴に糸を通すように、慎重に、緊張しながら、色んな角度で観察し、確認する。策と言ってもシンプルなものだ。だからこそ、イレギュラーが起きやすい。


「ねえ、直治」

「うん?」

「タオル、一枚でいいからベランダに干してきてよ。一番ふわふわのヤツね。お日様のにおいを嗅ぎたいの」


意図を汲み、頷く。タオルを持ち、窓ガラスをそっと開けてベランダに出る。鴉と鼠が蹴り飛ばすか踏み潰しそうな位置で部屋の中をなんとか覗こうとしていた。俺は二人がいつも寝ている場所に綺麗に畳んだタオルを置くと、窓を少し開けたまま、部屋に戻る。


「都、悪い。風が強くて飛ばされちまった」

「あらら」


そのあと、都を座らせたり寝かせたりを繰り返し、排尿と排便をさせる。夕食の時間になると食堂に行く。淳蔵と美代は己を律し、千代は何事も無かったかのように、それぞれ食事を摂っている。中畑は何度怖い思いをしても性根が曲がったままだ。知識は学ぶが失敗からは学ばない。都の姿に堪えられなくなったのか、ぷはっ、と笑い声をあげ、箸を持ったまま手で口元をおさえて身体を揺らした。


「中畑さァん、お行儀悪いですよ?」

「すみませえン、ちょっと思い出し笑いをしちゃって」

「食べる時は食べることに集中しましょうねェ」

「はあい」


淳蔵の表情が死んでいる。美代は僅かに顔を顰める程度で留めてくれた。都は、この姿を誰にも見られたくないのに、敵であり、張本人である中畑の前で晒して、惨めな気持ちを飯と一緒に噛み締めている。

食事を終えると、部屋に戻る。千代が俺の分の夕食を持ってきてくれたが、食欲がわかないので持って帰ってもらった。俺が『申し訳ない』と言うと、千代は静かに微笑んで首を横に振った。

都に排泄をさせ、風呂に入れる。湯船の中に凭れ掛からせるように座らせて、都の部屋から持ってきたボディースポンジにボディーソープを浸して泡立て、身体を優しく擦る。陰部に触れる時は都は恥ずかしそうな顔をしたが、俺は構わず洗い続けた。身体を洗ったら髪だ。細かく意思疎通しながら、丁寧に洗う。全身を綺麗さっぱり洗ったあとは、脱衣所で寝かせてタオルで身体を拭き、ドライヤーで髪を乾かす。服を着せ、車椅子に座らせると、脱衣所にしっかり鍵がかかっているのを確認してから、俺は風呂に入って手早く髪と身体を洗い、脱衣所でなるべく早く水分を拭き取った。都の歯磨きをしたあと、俺も歯磨きをして、脱衣所を出る。


「お茶飲みたい」


小さな冷蔵庫に入れてあるペットボトルのお茶を取り出し、ストローを差して都の口に含ませる。都は一気に半分ほど吸い上げて、ストローから唇を放した。俺はストローを外して残りを飲む。


「もう寝るぞ」

「うん。今日も一日、ありがとうね」


都をベッドに寝かせあと、開けっ放しにしていた窓からベランダに出る。淳蔵と美代はなにも言わずにタオルの上で丸くなり、寝始めた。俺は部屋に戻り、窓の鍵を閉めてカーテンを閉じた。都の横に寝そべり、抱きしめる。


「元気になったら、皆にお詫びしなくちゃね」

「俺は一番最後でいい。淳蔵と美代と千代の相手をしてやってくれ」

「いいの?」

「いい」

「・・・そっかあ。わかった」

「おやすみ」

「おやすみなさい」


都が目蓋を閉じる。いつまで経っても呼吸が浅い。身体を動かせないから、睡眠に必要な程良い疲労が無いせいだ。ストレスだって相当貯まっている。都が眠るまで見つめていたいが、仕事と介護で疲れた俺の方が、どうしても早く寝てしまう。明日も、仕事と介護がある。ゆっくりと落ちていく意識に逆らうことはせず、俺は目蓋を閉じた。
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