百六十話 女の勘ですニャ
文字数 2,881文字
乾いた破裂音。都が中畑の頬を叩いて四回目。一応、右手で叩いているので、加減はしている。
「都、その辺で・・・」
都は黙って、俺をじっと見る。それだけで、俺の喉から言葉は出なくなった。
「ごめンなざい・・・ごめンなざい・・・」
中畑は謝っている。
「直治」
「はい」
「難しいね、己の生活を己で立ち行かせるのは」
都が常に考えていること、らしい。
自分一人の力で生活や商売を成り立たせること。
都は『外』に出られないから、アンティークレースのように綿密な人脈の糸を張り巡らせ、万が一に備えて、必死に金を稼いで貯めている。本当なら、世界を好きに渡り歩いていけるような人物なのに。中畑のような人間の相手をしなくてはいけない都自身に向けて言っているのか、中畑に向けて言っているのかはわからないが、胸が締め付けられる。
「中畑さんさぁ、結婚して幸せな家庭を築いて、自分が産んだ子供の顔を父親と祖母に見せてあげることが夢らしいじゃん?」
「はい・・・」
「母親を早くに亡くして、父親と祖母が育ててくれたから、二人を早く安心させてあげたいのもあるけど、母親っていう存在に憧れがあって、自分は絶対に子供を幸せにしてあげようって思ってるんでしょ?」
「そうです・・・」
中畑の父親から事前に知らされていた情報だ。中畑自身も婚約者との未来を描いて、同じことを俺達に言っていた。
「子供を幸せにしてあげられる親ってさぁ、優しくて頼りになる存在だと思うんだけど、どうよ?」
「わ、私もそう思います・・・」
「優しくて頼りになる存在になりたいって思ってる人がさぁ、あんな風に人に嫌がらせするのってどうなの?」
「良く、ないです・・・」
「中畑さんは美代じゃないから、『美代のことなにも知らないくせに』って怒るのはお門違い。これはわかるよね?」
「はい・・・」
「でもさ、邪推や妄想で決め付けて一方的に詰るのは駄目だよね。中畑さん、美代のなにを知ってて、あんな偉そうな顔して美代の自尊心を傷付けようとしたの?」
「なにも、なにも知らないです、ごめンなさい・・・」
「謝って済むなら警察も弁護士も裁判も要らないんだよね」
「あ、謝って駄目なら、どうすればいいンですかあっ」
「誠意見せろ」
「せ、誠意・・・?」
「中畑さんは美代にちょっかいかけに来たんじゃなくて、学びに来たんでしょ?」
「は、はい」
「余計なことしてる暇があったら、学んで? お勉強して?」
「はい・・・」
「じゃ、教育係の直治に今までの非礼を詫びて教えを乞いなさい」
「えっ、え・・・?」
「わかんないかなぁ? 『我儘言ってごめんなさい、これからは頑張りますから、お仕事教えてください』って言うんだよ。自分の考えた言葉で。もしかしてこんなこともできない?」
中畑が俺に向き直る。
「な、直治さん、我儘ばかり言って、すみませンでした。お仕事、一生懸命頑張りますので、教えてください。お願いします・・・」
「あ、ああ、わかりました・・・」
都が苛立った様子で溜息を吐いた。
「言っておくけど、許したわけじゃないから勘違いしないでね。貴方、今日は使いモノにならないでしょうから部屋に帰って。正直、見てるだけでも不愉快でまた叩きそうだわ」
「す、すみませンっ! 失礼します!」
中畑は部屋から出ていった。都が両手で髪をぼりぼりと掻く。
「ちょっとやりすぎたかな?」
「・・・かもな」
「恥ずかしいなあ。余裕の無いところばっかり見られて・・・」
俺は淳蔵と二人で酒を飲んでいる時にした話を思い出した。美代はこの事実に目を合わせないようにしている。都は、完璧な存在じゃない。ただの女だ。自分を律しきれずに感情に振り回されることだってある。
「・・・で、美代にどんなこと言ってたんだ?」
「あのね・・・」
都が中畑と美代のやりとりを詳細に話す。
「・・・成程」
「これで大人しくなればいいんだけどね」
都は苦笑した。
「・・・あまり上手く言えないが、都と美代は似てる」
「え? そうかな?」
「似てる。境遇もそうだし、考え方も。『自分はなにを言われてもいいけど好きな人を貶されたら我慢できない』ってところで沸点低いところとかもな」
「ああ・・・。そうですねえ・・・」
「でも、本当は、気付いてないだろ? 自分が貶された時にしっかり傷付いてるってこと」
ぴた、と都が固まる。
「気付かない振りをしてるんだろ」
「そ、そんなこと、初めて言われたよ」
「なんで動揺してるんだよ」
「やめて」
「『自分が我慢すれば』って考え方は、」
「やめろ!」
都が顔を背けた。
「・・・『自分が我慢すれば』って考え方は、いつか自分を喰い潰すぞ。貶された時にどれだけ傷付くかわかっているから、好きな人を貶された時に我慢できない、そうだろ?」
都はゆっくり振り返り、黙って俺を睨んだ。
「だから今の都は、みっともなくともなんともない。ごく当たり前の、普通のことだ。沸点が低いのにも怒り過ぎるのにも理由があるから、あんまり目をぐるぐる回すな」
「なにそれ、人をカメレオンみたいに・・・」
「『怒り過ぎた』って自分を責めるなら、仕事の関係だと思って割り切って、今まで通りに接することに努めたらいいだろ。ガキの喧嘩じゃないんだからべたべたと仲直りする必要はないんだし」
「うぅ、うるさいなあ! 人生の先輩面しやがってこの野郎!」
都は顔を赤らめて不満気な表情を浮かべると、腕を組む。
こんこん。
ノック二回。俺はドアを開けた。淳蔵だった。
「・・・あれ? 直治に怒ってる?」
「そーです!」
「あー、あのぉ、俺、美代の事務室で話してたんだけど、そしたら中畑が謝りに来て・・・」
「で?」
「美代が『気にしてないから』って言って許してやったら、部屋に帰っていったよ」
「許してない! ぜーんっぜん許してない! もう一発ぶっとけばよかった!」
都が淳蔵を押し退ける勢いで部屋を出て、階段を昇って自室に帰っていく。
「なにしたんだよお前・・・」
「相手を怒りながら自分を責めるっていう変な技術使ってたから、使いモンにならなくしてやった」
「なんだそりゃ・・・」
「都なら放っておいて大丈夫だ。それより美代は?」
「『都が俺のことで怒ってくれて嬉しい』っつってお顔とろとろですよ」
「・・・心配して損した」
「俺もだよ。じゃあな」
「おう」
階段を降りて事務室に向かう。事務室の前で千代がラジオ体操をしていた。
「おっ、直治さん! 休憩から戻ろうと思って事務室に来たら中にいらっしゃらなかったので、お戻りになるまでラジオ体操をして時間を潰しておりました!」
「お前ほんとよく動くなあ・・・」
「中畑さんの姿が見えないんですけど、なんかありましたァ?」
「あー、その話をしなくちゃいけないな」
俺は千代と事務室に入って事の顛末を話す。
「・・・と、いうわけだ。これで大人しくなってくれればいいんだけどな」
「ん、んんん、どうでしょうねェ」
「え、なんだその反応は・・・」
「直治さん達が思っているより、ちょーっとォ、厄介な人かもしれませんよ?」
「なにかあるのか?」
「んふぅ、女の勘ですニャ」
千代はにんまり笑い、招き猫が手招くような仕草をした。
「・・・当たらなきゃいいけど」
「都、その辺で・・・」
都は黙って、俺をじっと見る。それだけで、俺の喉から言葉は出なくなった。
「ごめンなざい・・・ごめンなざい・・・」
中畑は謝っている。
「直治」
「はい」
「難しいね、己の生活を己で立ち行かせるのは」
都が常に考えていること、らしい。
自分一人の力で生活や商売を成り立たせること。
都は『外』に出られないから、アンティークレースのように綿密な人脈の糸を張り巡らせ、万が一に備えて、必死に金を稼いで貯めている。本当なら、世界を好きに渡り歩いていけるような人物なのに。中畑のような人間の相手をしなくてはいけない都自身に向けて言っているのか、中畑に向けて言っているのかはわからないが、胸が締め付けられる。
「中畑さんさぁ、結婚して幸せな家庭を築いて、自分が産んだ子供の顔を父親と祖母に見せてあげることが夢らしいじゃん?」
「はい・・・」
「母親を早くに亡くして、父親と祖母が育ててくれたから、二人を早く安心させてあげたいのもあるけど、母親っていう存在に憧れがあって、自分は絶対に子供を幸せにしてあげようって思ってるんでしょ?」
「そうです・・・」
中畑の父親から事前に知らされていた情報だ。中畑自身も婚約者との未来を描いて、同じことを俺達に言っていた。
「子供を幸せにしてあげられる親ってさぁ、優しくて頼りになる存在だと思うんだけど、どうよ?」
「わ、私もそう思います・・・」
「優しくて頼りになる存在になりたいって思ってる人がさぁ、あんな風に人に嫌がらせするのってどうなの?」
「良く、ないです・・・」
「中畑さんは美代じゃないから、『美代のことなにも知らないくせに』って怒るのはお門違い。これはわかるよね?」
「はい・・・」
「でもさ、邪推や妄想で決め付けて一方的に詰るのは駄目だよね。中畑さん、美代のなにを知ってて、あんな偉そうな顔して美代の自尊心を傷付けようとしたの?」
「なにも、なにも知らないです、ごめンなさい・・・」
「謝って済むなら警察も弁護士も裁判も要らないんだよね」
「あ、謝って駄目なら、どうすればいいンですかあっ」
「誠意見せろ」
「せ、誠意・・・?」
「中畑さんは美代にちょっかいかけに来たんじゃなくて、学びに来たんでしょ?」
「は、はい」
「余計なことしてる暇があったら、学んで? お勉強して?」
「はい・・・」
「じゃ、教育係の直治に今までの非礼を詫びて教えを乞いなさい」
「えっ、え・・・?」
「わかんないかなぁ? 『我儘言ってごめんなさい、これからは頑張りますから、お仕事教えてください』って言うんだよ。自分の考えた言葉で。もしかしてこんなこともできない?」
中畑が俺に向き直る。
「な、直治さん、我儘ばかり言って、すみませンでした。お仕事、一生懸命頑張りますので、教えてください。お願いします・・・」
「あ、ああ、わかりました・・・」
都が苛立った様子で溜息を吐いた。
「言っておくけど、許したわけじゃないから勘違いしないでね。貴方、今日は使いモノにならないでしょうから部屋に帰って。正直、見てるだけでも不愉快でまた叩きそうだわ」
「す、すみませンっ! 失礼します!」
中畑は部屋から出ていった。都が両手で髪をぼりぼりと掻く。
「ちょっとやりすぎたかな?」
「・・・かもな」
「恥ずかしいなあ。余裕の無いところばっかり見られて・・・」
俺は淳蔵と二人で酒を飲んでいる時にした話を思い出した。美代はこの事実に目を合わせないようにしている。都は、完璧な存在じゃない。ただの女だ。自分を律しきれずに感情に振り回されることだってある。
「・・・で、美代にどんなこと言ってたんだ?」
「あのね・・・」
都が中畑と美代のやりとりを詳細に話す。
「・・・成程」
「これで大人しくなればいいんだけどね」
都は苦笑した。
「・・・あまり上手く言えないが、都と美代は似てる」
「え? そうかな?」
「似てる。境遇もそうだし、考え方も。『自分はなにを言われてもいいけど好きな人を貶されたら我慢できない』ってところで沸点低いところとかもな」
「ああ・・・。そうですねえ・・・」
「でも、本当は、気付いてないだろ? 自分が貶された時にしっかり傷付いてるってこと」
ぴた、と都が固まる。
「気付かない振りをしてるんだろ」
「そ、そんなこと、初めて言われたよ」
「なんで動揺してるんだよ」
「やめて」
「『自分が我慢すれば』って考え方は、」
「やめろ!」
都が顔を背けた。
「・・・『自分が我慢すれば』って考え方は、いつか自分を喰い潰すぞ。貶された時にどれだけ傷付くかわかっているから、好きな人を貶された時に我慢できない、そうだろ?」
都はゆっくり振り返り、黙って俺を睨んだ。
「だから今の都は、みっともなくともなんともない。ごく当たり前の、普通のことだ。沸点が低いのにも怒り過ぎるのにも理由があるから、あんまり目をぐるぐる回すな」
「なにそれ、人をカメレオンみたいに・・・」
「『怒り過ぎた』って自分を責めるなら、仕事の関係だと思って割り切って、今まで通りに接することに努めたらいいだろ。ガキの喧嘩じゃないんだからべたべたと仲直りする必要はないんだし」
「うぅ、うるさいなあ! 人生の先輩面しやがってこの野郎!」
都は顔を赤らめて不満気な表情を浮かべると、腕を組む。
こんこん。
ノック二回。俺はドアを開けた。淳蔵だった。
「・・・あれ? 直治に怒ってる?」
「そーです!」
「あー、あのぉ、俺、美代の事務室で話してたんだけど、そしたら中畑が謝りに来て・・・」
「で?」
「美代が『気にしてないから』って言って許してやったら、部屋に帰っていったよ」
「許してない! ぜーんっぜん許してない! もう一発ぶっとけばよかった!」
都が淳蔵を押し退ける勢いで部屋を出て、階段を昇って自室に帰っていく。
「なにしたんだよお前・・・」
「相手を怒りながら自分を責めるっていう変な技術使ってたから、使いモンにならなくしてやった」
「なんだそりゃ・・・」
「都なら放っておいて大丈夫だ。それより美代は?」
「『都が俺のことで怒ってくれて嬉しい』っつってお顔とろとろですよ」
「・・・心配して損した」
「俺もだよ。じゃあな」
「おう」
階段を降りて事務室に向かう。事務室の前で千代がラジオ体操をしていた。
「おっ、直治さん! 休憩から戻ろうと思って事務室に来たら中にいらっしゃらなかったので、お戻りになるまでラジオ体操をして時間を潰しておりました!」
「お前ほんとよく動くなあ・・・」
「中畑さんの姿が見えないんですけど、なんかありましたァ?」
「あー、その話をしなくちゃいけないな」
俺は千代と事務室に入って事の顛末を話す。
「・・・と、いうわけだ。これで大人しくなってくれればいいんだけどな」
「ん、んんん、どうでしょうねェ」
「え、なんだその反応は・・・」
「直治さん達が思っているより、ちょーっとォ、厄介な人かもしれませんよ?」
「なにかあるのか?」
「んふぅ、女の勘ですニャ」
千代はにんまり笑い、招き猫が手招くような仕草をした。
「・・・当たらなきゃいいけど」