二百九十四話 いつか海へ
文字数 2,635文字
「ええっ!? 都さん、入院したんですか!?」
常連の宿泊客、佐々木がそう言った。
「はい。先週から。見舞いなどは全て断るように言われています」
「あー、良からぬ輩が大挙して押しかけそうですもんねえ・・・」
話が早くて助かる。だから『常連になれる』んだが。
「社長の入院は隠しているわけではないのですが、もう悪い噂が広まっているみたいですね。弟はその対応に追われています」
「おお、聞いてもよろしいのですか?」
「ええ、構いませんよ。佐々木さんもご存じでしょう。以前、手足が動かなくなるまで働き詰めてお医者様に怒られたことがありました」
「あっ、そうそう、そうですね」
「今回も、僕達の見えないところで会社の規模を大きくしようとして、かなり無理をしたようです。その結果が体調を崩して長期入院です。次期社長の弟も呆れ返ってしまって、規模を大きくするなんてとんでもない、寧ろもう少し小さくして余裕のある生活をしよう、という結論になりました」
「あやっ? 次期社長は、淳蔵さんではなく美代さんですか?」
「ええ。美代が適任ですから。それで、悪い噂なんですけれど、大病を患って死に瀕しているとか、本当は破産寸前で夜逃げの準備をしているとか、喧嘩を売っちゃいけないところに売っちゃったから海外逃亡しようとしているとか、犯罪が警察にバレたとか、誰かに弱みを握られたとか・・・。色々と囁かれていますね」
「あははっ、全部『ハズレ』なんでしょう?」
「フフ、『ハズレ』ですよ。注射が嫌いなので朝晩の採血で看護師さんを困らせていないか心配です。それと、病院食にも『少ない』と拗ねていそうで・・・」
「ん? 連絡は取っていないんですか?」
やっぱり鋭いなこいつ。
「ええ。社長の居場所は、弟、美代しか知らないんです。念のため、ですよ」
「あははははっ、成程成程。説得力あるんだから困っちゃいますなあ。あっ、ところで淳蔵さん、髪の毛、切ったんですか?」
「似合わないでしょう?」
「いえいえそんなことは」
「麓の町に行った時に、子供にガムをくっつけられちゃいまして」
「命知らずな子供だなあ・・・」
本当にそんな子供が居たら、俺じゃなくて都がブチギレるだろうなあ。
「弟の手伝いで書類仕事をしていたら、眼精疲労から頭痛がするようになりまして、眼鏡も」
「あーっ、わかりますわかります。僕は両目とも2.0なんですけど、小さい字を見るのは性に合わなくて、眼鏡作りましたよ」
嘘で塗り固めた会話。佐々木がチェックアウトして帰っていくと、酷く疲れた様子の美代が談話室に来た。
「・・・異変は?」
俺は首を横に振った。本当は『都は?』と聞きたいんだろう。
「淳蔵、飯食えよ」
「・・・わかってるよ」
山に張り巡らせている鴉は、髪の毛の分だけじゃない。今、俺の身体の中はスカスカだ。空腹も疲労も感じないが、なんの充実感もない。俺は、俺達は、漸く、都の言う『人間らしさ』を理解し始めていた。
外が寒いから家の中が温かい。
外が暑いから家の中が涼しい。
そんな簡単なことが、そんな当たり前のことが、人間をやめちまうとわからなくなる。『死なない』ということに胡坐を掻いて、自分を過信し、油断に繋がる。命取りだ。必ず痛い目を見る。俺達は『生きていたい』と、『生きていたい』と思わなければならない。生きていたい。死んでたまるか。死にたくない。生きたい。生きるためには食べなければならない。
「・・・美代、先に食堂に行ってろ。鴉を回収する間に直治を呼んでくる」
「・・・わかった」
気が重い。直治の事務室に行きノックをするが、返答は無い。俺は黙ってドアを開けた。
「直治、飯だぞ」
直治は俺を睨み付けた。
「・・・食えばいいんだろ、食えば。味もしねえのによ」
そう言って立ち上がり、俺を押し退けて出ていく。八つ当たりされて気分が良くなるヤツなんて居ない。溜息を吐きたい気持ちを必死で堪える。
食事を配膳する桜子は、無機質な虫の顔をしていた。
千代はいつも通りに微笑んでいるが、必要最低限のことしか話さなくなった。その声も、機械のように感情がこもっていない。
「いただきます」
美代の言葉で食事が始まる。俺にとって、一日三回の食事は、食事を摂る都を見られる憩いの時間だった。今は全身の血管が引き抜かれたみたいで、食べることに意味を感じない。都と『美味しい』を共有することに意味があったのだ。今はただ、生命活動を維持する『振り』のために、胃に充填させるだけだ。
「直治」
「あ?」
「最近、筋トレしてるか?」
「してる」
「なら、いい」
直治は舌打ちをすると、両手でテーブルを叩いて荒っぽく立ち上がり、食堂から出ていった。
「・・・ごめん」
美代が深い溜息を吐いた。一週間、たった一週間で俺達は、一条家は壊滅しそうになっていた。いつもの時間に兄弟で談話室に集まることもない。千代や桜子と雑談することもない。唯一全員が集まる食事の席では、空気が軋んで温度が下がる。
「ごちそうさま」
俺は自室に戻って、身体の中のものを鴉にかえて再び山に飛ばす。不安になる。自分の思考が煩い。掻き消したくて、テレビを点けた。
『日本各地で地震相次ぐ』
麓の町も揺れたらしい。白い竜が『結界』に叩き付けられた時間帯だ。都が美代に話していた『最悪の災厄』は、まだ起こっていない。
気分が悪い。
リモコンの上ボタンを押してチャンネルを次々とかえる。ぴた、と俺の指が勝手に止まった。都がたまに見ている、子供向けの教育番組。
『こんなの観るの?』
若い頃の俺が問う。都が微笑む。
『大人が観ても結構面白いのよ』
『ジュゴン、ね。独特な顔付きしてる』
人魚のモデルになったとも言われる、白い海獣。
『海って、怖くないのかな』
『・・・行ったことないの?』
『遠くで見ただけ。泳いだことないの』
都の横顔が綺麗で、俺は見惚れてしまう。
『・・・車の免許取ったら、連れて行ってあげるよ』
都は少し驚いたあと、俺を見て微笑む。
『いいの?』
やめろ。
『泳げなくても、手を繋いで砂浜を歩けばいいじゃん』
やめろ。
『・・・えへ、じゃあ、楽しみにしてるね』
やめろ!
「馬鹿野郎がッ!!」
都は本当に嬉しかったのか?
嬉しかったとしても、
同じくらい悲しかったんじゃないのか?
「あああああ!! 馬鹿野郎があッ!!」
頭が勝手に。
波が足首を洗う。潮風に揺れる髪とワンピース。麦わら帽子も着こなして、振り返った都が、俺の名を呼んで微笑む。
有りもしない現実を。
「俺は・・・なんてことを・・・」
涙が眼鏡のレンズに落ちて、広がった。
常連の宿泊客、佐々木がそう言った。
「はい。先週から。見舞いなどは全て断るように言われています」
「あー、良からぬ輩が大挙して押しかけそうですもんねえ・・・」
話が早くて助かる。だから『常連になれる』んだが。
「社長の入院は隠しているわけではないのですが、もう悪い噂が広まっているみたいですね。弟はその対応に追われています」
「おお、聞いてもよろしいのですか?」
「ええ、構いませんよ。佐々木さんもご存じでしょう。以前、手足が動かなくなるまで働き詰めてお医者様に怒られたことがありました」
「あっ、そうそう、そうですね」
「今回も、僕達の見えないところで会社の規模を大きくしようとして、かなり無理をしたようです。その結果が体調を崩して長期入院です。次期社長の弟も呆れ返ってしまって、規模を大きくするなんてとんでもない、寧ろもう少し小さくして余裕のある生活をしよう、という結論になりました」
「あやっ? 次期社長は、淳蔵さんではなく美代さんですか?」
「ええ。美代が適任ですから。それで、悪い噂なんですけれど、大病を患って死に瀕しているとか、本当は破産寸前で夜逃げの準備をしているとか、喧嘩を売っちゃいけないところに売っちゃったから海外逃亡しようとしているとか、犯罪が警察にバレたとか、誰かに弱みを握られたとか・・・。色々と囁かれていますね」
「あははっ、全部『ハズレ』なんでしょう?」
「フフ、『ハズレ』ですよ。注射が嫌いなので朝晩の採血で看護師さんを困らせていないか心配です。それと、病院食にも『少ない』と拗ねていそうで・・・」
「ん? 連絡は取っていないんですか?」
やっぱり鋭いなこいつ。
「ええ。社長の居場所は、弟、美代しか知らないんです。念のため、ですよ」
「あははははっ、成程成程。説得力あるんだから困っちゃいますなあ。あっ、ところで淳蔵さん、髪の毛、切ったんですか?」
「似合わないでしょう?」
「いえいえそんなことは」
「麓の町に行った時に、子供にガムをくっつけられちゃいまして」
「命知らずな子供だなあ・・・」
本当にそんな子供が居たら、俺じゃなくて都がブチギレるだろうなあ。
「弟の手伝いで書類仕事をしていたら、眼精疲労から頭痛がするようになりまして、眼鏡も」
「あーっ、わかりますわかります。僕は両目とも2.0なんですけど、小さい字を見るのは性に合わなくて、眼鏡作りましたよ」
嘘で塗り固めた会話。佐々木がチェックアウトして帰っていくと、酷く疲れた様子の美代が談話室に来た。
「・・・異変は?」
俺は首を横に振った。本当は『都は?』と聞きたいんだろう。
「淳蔵、飯食えよ」
「・・・わかってるよ」
山に張り巡らせている鴉は、髪の毛の分だけじゃない。今、俺の身体の中はスカスカだ。空腹も疲労も感じないが、なんの充実感もない。俺は、俺達は、漸く、都の言う『人間らしさ』を理解し始めていた。
外が寒いから家の中が温かい。
外が暑いから家の中が涼しい。
そんな簡単なことが、そんな当たり前のことが、人間をやめちまうとわからなくなる。『死なない』ということに胡坐を掻いて、自分を過信し、油断に繋がる。命取りだ。必ず痛い目を見る。俺達は『生きていたい』と、『生きていたい』と思わなければならない。生きていたい。死んでたまるか。死にたくない。生きたい。生きるためには食べなければならない。
「・・・美代、先に食堂に行ってろ。鴉を回収する間に直治を呼んでくる」
「・・・わかった」
気が重い。直治の事務室に行きノックをするが、返答は無い。俺は黙ってドアを開けた。
「直治、飯だぞ」
直治は俺を睨み付けた。
「・・・食えばいいんだろ、食えば。味もしねえのによ」
そう言って立ち上がり、俺を押し退けて出ていく。八つ当たりされて気分が良くなるヤツなんて居ない。溜息を吐きたい気持ちを必死で堪える。
食事を配膳する桜子は、無機質な虫の顔をしていた。
千代はいつも通りに微笑んでいるが、必要最低限のことしか話さなくなった。その声も、機械のように感情がこもっていない。
「いただきます」
美代の言葉で食事が始まる。俺にとって、一日三回の食事は、食事を摂る都を見られる憩いの時間だった。今は全身の血管が引き抜かれたみたいで、食べることに意味を感じない。都と『美味しい』を共有することに意味があったのだ。今はただ、生命活動を維持する『振り』のために、胃に充填させるだけだ。
「直治」
「あ?」
「最近、筋トレしてるか?」
「してる」
「なら、いい」
直治は舌打ちをすると、両手でテーブルを叩いて荒っぽく立ち上がり、食堂から出ていった。
「・・・ごめん」
美代が深い溜息を吐いた。一週間、たった一週間で俺達は、一条家は壊滅しそうになっていた。いつもの時間に兄弟で談話室に集まることもない。千代や桜子と雑談することもない。唯一全員が集まる食事の席では、空気が軋んで温度が下がる。
「ごちそうさま」
俺は自室に戻って、身体の中のものを鴉にかえて再び山に飛ばす。不安になる。自分の思考が煩い。掻き消したくて、テレビを点けた。
『日本各地で地震相次ぐ』
麓の町も揺れたらしい。白い竜が『結界』に叩き付けられた時間帯だ。都が美代に話していた『最悪の災厄』は、まだ起こっていない。
気分が悪い。
リモコンの上ボタンを押してチャンネルを次々とかえる。ぴた、と俺の指が勝手に止まった。都がたまに見ている、子供向けの教育番組。
『こんなの観るの?』
若い頃の俺が問う。都が微笑む。
『大人が観ても結構面白いのよ』
『ジュゴン、ね。独特な顔付きしてる』
人魚のモデルになったとも言われる、白い海獣。
『海って、怖くないのかな』
『・・・行ったことないの?』
『遠くで見ただけ。泳いだことないの』
都の横顔が綺麗で、俺は見惚れてしまう。
『・・・車の免許取ったら、連れて行ってあげるよ』
都は少し驚いたあと、俺を見て微笑む。
『いいの?』
やめろ。
『泳げなくても、手を繋いで砂浜を歩けばいいじゃん』
やめろ。
『・・・えへ、じゃあ、楽しみにしてるね』
やめろ!
「馬鹿野郎がッ!!」
都は本当に嬉しかったのか?
嬉しかったとしても、
同じくらい悲しかったんじゃないのか?
「あああああ!! 馬鹿野郎があッ!!」
頭が勝手に。
波が足首を洗う。潮風に揺れる髪とワンピース。麦わら帽子も着こなして、振り返った都が、俺の名を呼んで微笑む。
有りもしない現実を。
「俺は・・・なんてことを・・・」
涙が眼鏡のレンズに落ちて、広がった。