二百五話 親友になりたかった
文字数 2,878文字
淳蔵さんも、美代さんも、直治さんも知らない。お三方が揃って夢を見ている時、私も同じ夢を見ていることを。
「学校・・・、か?」
「女学生ばかりだな」
「俺達、透けてるぞ」
直治さんが両手を見つめる。廊下の窓側に沿うように立っているお三方は透けていて、陽の光が廊下に落ちていた。私は直治さんの隣に立っていて、同じように透けている。
『芙蓉の君よ!』
『今日もお美しいわ』
『お近づきになりたあい』
女学生達が騒ぎ出す。廊下の右側から、学生服を着た若い都さんがやってくる。
『金鳳花様よ!』
『今日もお美しいわ』
『お近づきになりたあい』
廊下の左側から、学生服を着た金鳳花さんがやってくる。館で働いているぽわぽわした雰囲気の金鳳花さんではない。凛々しく表情を引き締め、天井から糸で吊られたように背筋を伸ばし、真っ直ぐ廊下の真ん中を歩いている。都さんもまた、お手本のような綺麗な歩き方で、真っ直ぐ廊下の真ん中を歩いている。
「・・・このままだとぶつからねえ?」
淳蔵さんが言う。予想に反して、二人はお三方の前で示し合わせたかのようにぴたりと立ち止まった。
『やあ、芙蓉君』
『こんにちは、金鳳花さん』
金鳳花さんは勝気に、都さんは穏やかに笑う。
『話がある』
『役員の会議がありますので』
『親友より大切な会議かい?』
『・・・いいでしょう』
周囲の女学生達がこそこそと耳打ち合っている。どうやら『芙蓉派』と『金鳳花派』で派閥があるらしいが、当の本人である都さんと金鳳花さんはそのことを気にしておらず、お互いを『親友』と呼び合い、仲良くしているらしい。金鳳花さんが手を差し出すと、都さんがそっと握り、二人は並んで廊下を歩きだす。羨望、嫉妬、そして、瑞々しい少女の友情への感嘆。そんな視線や溜息、囁き声が廊下に溢れた。お三方は二人に着いて行く。校庭には美しい薔薇の生垣。二人は人気の無い場所へと歩いていく。
都さんが立ち止まり、手を放すと、まだ手を繋いでいる金鳳花さんが一歩踏み出した分、少しだけ引っ張られた。金鳳花さんは立ち止り、手を放す。そして振り向きざま、都さんの頬を思いっ切り引っ叩いた。ぱぁん、と乾いた音が響く。お三方は吃驚していた。
『どうして・・・』
金鳳花さんが顔を歪める。
『どうして歌をやめたんだッ!!』
都さんは、真っ直ぐに金鳳花さんを見た。
『歌う必要が無くなったからです』
『ひつ、よう・・・?』
『私は家族の緩衝材。母親の機嫌を取るために歌っていただけなのです』
金鳳花さんは、拳をぎりぎりと握りしめる。この人の本名はなんというのだろう。ぱっちりとした目元、長い睫毛、少し太いが形の良い眉。綺麗な鼻に、口紅を塗らなくても魅惑的な唇。
館で働いている金鳳花さんは、小動物のような愛らしさに溢れていて、ただそこに立っているだけで場が穏やかになるような魅力の持ち主である。でも、『今』の金鳳花さんは、凛々しい。洗練された一匹の獣。まるで、狼を見ているみたいだ。
『歌は道具じゃないッ!!』
『貴方にとっては、ね』
『・・・どうして、君は、いつも!』
唸り、牙を剥くように、金鳳花さんが言う。目には涙が溜まっていた。
『私は、誰よりも早い時間から歌い始めて、誰よりも遅い時間まで歌い続けているのに、いつもいつも、一番は君だ! 歌だけじゃない! 勉学に運動だって! おまけに生徒会長だと!? ふざけるのも大概にしろ!!』
金鳳花さんが手を振り上げる。淳蔵さんは金鳳花さんの手を掴もうとした。美代さんは二人の間に割って入り、直治さんが都さんの襟を掴んで引き離そうとしたが、透けているので干渉できない。金鳳花さんが都さんを再び叩く。
『どうして歌をやめたんだッ!! 答えろよッ!!』
『母が死んだからです』
『な・・・、』
金鳳花さんが目を見開き、硬直する。
『父に殺されて、ね。父は逃げ出して行方不明です』
『そ、そんな・・・』
『ご心配なく。相続については元々決まっておりますし、進学についても問題はありません』
都さんは叩かれて乱れてしまった髪を撫でつける。
『どうして、そんなに、冷静なんだ・・・』
『死んで清々しておりますので』
『じょ、冗談でもそんなこと、』
『金鳳花さん、私の母はね、『オペラ歌手になりたい』という夢を見て啖呵を切って一条家を飛び出して、挫折して戻ってきた人なの。御婆様の温情で我が家で暮らしていた人なのよ。それだけじゃない。御婆様の目を盗んで出掛けた先で知り合った父と結婚したいがために、勝手に妊娠してそれを武器にして、御婆様に結婚を認めさせるような女だったのよ』
都さんは鼻で笑い、続ける。
『父は不愉快な人間だった。口癖は『十五歳になったらお父さんと結婚しようね』だったわ。どういう意味か、わかる?』
『十五歳って、君の誕生日は、先月じゃ・・・』
『強姦しようとしたのよ』
金鳳花さんは顔を真っ青にして、両手で口元をおさえる。
『ねえ、金鳳花さん。母が父から私を庇ってくれたのは、私の進学について揉めた時が初めてなの。一条家の十六代目の当主は私ですから、私には教養が必要です。だから高校には進学しなくてはいけない。でもね、父はそれに反対したの。何故だと思う?』
金鳳花さんは首を横に振る。
『父は『女に学なんて必要無い』って言っていたわ。でも、本当はね、御婆様が亡くなったあと、まだ幼い私にかわって一条家の実権を握っている母を殺して、私を犯して、脅して、奴隷にして、邪魔者を排除したら、金を吸い尽くして面白可笑しく暮らすつもりだったのよ。進学の手続きなんてしたら、面倒なことになるでしょう?』
都さんは無表情で、両手を広げる。
『父は母を縊り殺した。私はその現場を見てしまった。予定が狂い、感情が昂った父は、私も縊り殺そうとしたわ。でもね、苦しみ悶える私を見て、思い出したのよ。強姦しようと企てていたことをね』
両手を、ゆっくりと降ろした。
『母は私を庇い切れなかった。それは、お腹を痛めて産んだ我が子より、股を開いた男を選んだということなのよ』
『そ、そんなっ、』
『御婆様という抑止力を失って七年。私がどんな思いをしてきたか、貴方に理解することはできない』
金鳳花さんは沈黙する。
『歌う必要が無くなった理由は、理解できたかしら?』
そっと、頷いた。
『金鳳花さんは歌の学校に行くんでしたね。家業は、二人の御兄様が継ぐのでしょう?』
金鳳花さんは、唇を噛み締めた。
『お気楽に過ごせる良い御身分ですこと』
三度、都さんの頬を叩く。金鳳花さんは泣いていた。
『君と・・・、親友に、なりたかったっ・・・!』
子供のように涙を拭う。
『さよなら!』
金鳳花さんは去っていった。都さんが深い溜息を吐く。
『ジャスミン』
どこからともなくジャスミンがやってきて、都さんに寄り添うように座る。
『努力すれば報われるっていう考え方は、才能が無い人が縋り付く最後の藁なんでしょうね』
ぽんぽん、と頭を撫でられたジャスミンが尻尾を振る。
『会議に遅れた言い訳を考えなくちゃ』
都さんが去っていく。
「一つだけ、確定していることがあるな」
美代さんが言う。
「馬鹿犬」
ジャスミンは、ニパッと笑った。
「学校・・・、か?」
「女学生ばかりだな」
「俺達、透けてるぞ」
直治さんが両手を見つめる。廊下の窓側に沿うように立っているお三方は透けていて、陽の光が廊下に落ちていた。私は直治さんの隣に立っていて、同じように透けている。
『芙蓉の君よ!』
『今日もお美しいわ』
『お近づきになりたあい』
女学生達が騒ぎ出す。廊下の右側から、学生服を着た若い都さんがやってくる。
『金鳳花様よ!』
『今日もお美しいわ』
『お近づきになりたあい』
廊下の左側から、学生服を着た金鳳花さんがやってくる。館で働いているぽわぽわした雰囲気の金鳳花さんではない。凛々しく表情を引き締め、天井から糸で吊られたように背筋を伸ばし、真っ直ぐ廊下の真ん中を歩いている。都さんもまた、お手本のような綺麗な歩き方で、真っ直ぐ廊下の真ん中を歩いている。
「・・・このままだとぶつからねえ?」
淳蔵さんが言う。予想に反して、二人はお三方の前で示し合わせたかのようにぴたりと立ち止まった。
『やあ、芙蓉君』
『こんにちは、金鳳花さん』
金鳳花さんは勝気に、都さんは穏やかに笑う。
『話がある』
『役員の会議がありますので』
『親友より大切な会議かい?』
『・・・いいでしょう』
周囲の女学生達がこそこそと耳打ち合っている。どうやら『芙蓉派』と『金鳳花派』で派閥があるらしいが、当の本人である都さんと金鳳花さんはそのことを気にしておらず、お互いを『親友』と呼び合い、仲良くしているらしい。金鳳花さんが手を差し出すと、都さんがそっと握り、二人は並んで廊下を歩きだす。羨望、嫉妬、そして、瑞々しい少女の友情への感嘆。そんな視線や溜息、囁き声が廊下に溢れた。お三方は二人に着いて行く。校庭には美しい薔薇の生垣。二人は人気の無い場所へと歩いていく。
都さんが立ち止まり、手を放すと、まだ手を繋いでいる金鳳花さんが一歩踏み出した分、少しだけ引っ張られた。金鳳花さんは立ち止り、手を放す。そして振り向きざま、都さんの頬を思いっ切り引っ叩いた。ぱぁん、と乾いた音が響く。お三方は吃驚していた。
『どうして・・・』
金鳳花さんが顔を歪める。
『どうして歌をやめたんだッ!!』
都さんは、真っ直ぐに金鳳花さんを見た。
『歌う必要が無くなったからです』
『ひつ、よう・・・?』
『私は家族の緩衝材。母親の機嫌を取るために歌っていただけなのです』
金鳳花さんは、拳をぎりぎりと握りしめる。この人の本名はなんというのだろう。ぱっちりとした目元、長い睫毛、少し太いが形の良い眉。綺麗な鼻に、口紅を塗らなくても魅惑的な唇。
館で働いている金鳳花さんは、小動物のような愛らしさに溢れていて、ただそこに立っているだけで場が穏やかになるような魅力の持ち主である。でも、『今』の金鳳花さんは、凛々しい。洗練された一匹の獣。まるで、狼を見ているみたいだ。
『歌は道具じゃないッ!!』
『貴方にとっては、ね』
『・・・どうして、君は、いつも!』
唸り、牙を剥くように、金鳳花さんが言う。目には涙が溜まっていた。
『私は、誰よりも早い時間から歌い始めて、誰よりも遅い時間まで歌い続けているのに、いつもいつも、一番は君だ! 歌だけじゃない! 勉学に運動だって! おまけに生徒会長だと!? ふざけるのも大概にしろ!!』
金鳳花さんが手を振り上げる。淳蔵さんは金鳳花さんの手を掴もうとした。美代さんは二人の間に割って入り、直治さんが都さんの襟を掴んで引き離そうとしたが、透けているので干渉できない。金鳳花さんが都さんを再び叩く。
『どうして歌をやめたんだッ!! 答えろよッ!!』
『母が死んだからです』
『な・・・、』
金鳳花さんが目を見開き、硬直する。
『父に殺されて、ね。父は逃げ出して行方不明です』
『そ、そんな・・・』
『ご心配なく。相続については元々決まっておりますし、進学についても問題はありません』
都さんは叩かれて乱れてしまった髪を撫でつける。
『どうして、そんなに、冷静なんだ・・・』
『死んで清々しておりますので』
『じょ、冗談でもそんなこと、』
『金鳳花さん、私の母はね、『オペラ歌手になりたい』という夢を見て啖呵を切って一条家を飛び出して、挫折して戻ってきた人なの。御婆様の温情で我が家で暮らしていた人なのよ。それだけじゃない。御婆様の目を盗んで出掛けた先で知り合った父と結婚したいがために、勝手に妊娠してそれを武器にして、御婆様に結婚を認めさせるような女だったのよ』
都さんは鼻で笑い、続ける。
『父は不愉快な人間だった。口癖は『十五歳になったらお父さんと結婚しようね』だったわ。どういう意味か、わかる?』
『十五歳って、君の誕生日は、先月じゃ・・・』
『強姦しようとしたのよ』
金鳳花さんは顔を真っ青にして、両手で口元をおさえる。
『ねえ、金鳳花さん。母が父から私を庇ってくれたのは、私の進学について揉めた時が初めてなの。一条家の十六代目の当主は私ですから、私には教養が必要です。だから高校には進学しなくてはいけない。でもね、父はそれに反対したの。何故だと思う?』
金鳳花さんは首を横に振る。
『父は『女に学なんて必要無い』って言っていたわ。でも、本当はね、御婆様が亡くなったあと、まだ幼い私にかわって一条家の実権を握っている母を殺して、私を犯して、脅して、奴隷にして、邪魔者を排除したら、金を吸い尽くして面白可笑しく暮らすつもりだったのよ。進学の手続きなんてしたら、面倒なことになるでしょう?』
都さんは無表情で、両手を広げる。
『父は母を縊り殺した。私はその現場を見てしまった。予定が狂い、感情が昂った父は、私も縊り殺そうとしたわ。でもね、苦しみ悶える私を見て、思い出したのよ。強姦しようと企てていたことをね』
両手を、ゆっくりと降ろした。
『母は私を庇い切れなかった。それは、お腹を痛めて産んだ我が子より、股を開いた男を選んだということなのよ』
『そ、そんなっ、』
『御婆様という抑止力を失って七年。私がどんな思いをしてきたか、貴方に理解することはできない』
金鳳花さんは沈黙する。
『歌う必要が無くなった理由は、理解できたかしら?』
そっと、頷いた。
『金鳳花さんは歌の学校に行くんでしたね。家業は、二人の御兄様が継ぐのでしょう?』
金鳳花さんは、唇を噛み締めた。
『お気楽に過ごせる良い御身分ですこと』
三度、都さんの頬を叩く。金鳳花さんは泣いていた。
『君と・・・、親友に、なりたかったっ・・・!』
子供のように涙を拭う。
『さよなら!』
金鳳花さんは去っていった。都さんが深い溜息を吐く。
『ジャスミン』
どこからともなくジャスミンがやってきて、都さんに寄り添うように座る。
『努力すれば報われるっていう考え方は、才能が無い人が縋り付く最後の藁なんでしょうね』
ぽんぽん、と頭を撫でられたジャスミンが尻尾を振る。
『会議に遅れた言い訳を考えなくちゃ』
都さんが去っていく。
「一つだけ、確定していることがあるな」
美代さんが言う。
「馬鹿犬」
ジャスミンは、ニパッと笑った。