百三十一話 まだ足りない

文字数 2,508文字

美代は金曜日、俺と直治の部屋に交互に来て、同衾して帰っていく生活がすっかり当たり前のことになっていた。都の部屋に行っても泣かなくなったらしいので、一応、落ち着いてはいるんだろう。直治が言った通り『脱皮』できたのかどうかはわからないが。


「あーつーぞーうー!」

「わかったわかったちょっと待てって」


今日は昼間に商談に行ってきたからなのか、疲れて眠いらしい。俺はせっつかれながら髪の手入れを終える。


「はいはい美代君、兄ちゃんが来ましたよっと」

「んー・・・」


幼児退行でもしたかのように甘えてくる。


「この前、直治に怒られた・・・」

「んー? なんで?」

「『直治の優しさにつけこんで迷惑かけてるよな』って言ったら、『謝ったりしたら殺すぞ』って・・・」

「あらぁ」

「淳蔵は、俺のことどう思う・・・?」


許しを乞うような上目遣い。怒りは熱だ。脳みそは蛋白質だ。蛋白質は熱を通すと固まってしまう。美代の脳は復讐という熱を通して、なにかしらの形でどこかが固まってしまった。もう元に戻ることはない。謂わば『歪み』である。こいつはどうかしちまってる。そんな美代を許してやりたいと思う俺もどうかしちまってる。


「えっ・・・」


額から唇を放すと、美代は顔を真っ赤にしていた。


「言っとくけど俺は都一筋だし、そーいう趣味はないからな」

「っつ、じゃ、じゃあなんでっ」

「愛してるからだよ、アホ」


美代は顔をくしゃくしゃにすると、俺に抱き着いて頭をぐりぐりと押し付けた。


「馬鹿ッ! 目が覚めちまったよッ!」

「そーかよ馬鹿美代」

「うーっ、なんか喋れッ!」

「はいはい」


昔の話は散々し尽くした。なにを喋るか。


「もうじき春になるだろ」

「・・・うん」

「俺、桜フレーバーの商品好きなんだよな。食いモンでも雑貨でもなんでも」

「へえ」

「俺が気に入ってるプリンがそろそろ出る時期だから、買いに行かないとなあ」

「どんな商品なんだ?」

「『さくらミルクプリン』って名前のヤツ。プリンはピンク色でほんのり桜の香りがするんだよ。味はさくらんぼっぽいか? 上に乗ってるクリームが美味くてな。生クリームに『桜花シロップ』ってのが混ざってるらしい。プチプチした食感のホワイトチョコチップと、ふわっと香る桜花ソースも乗ってて、兎に角香りが良いんだ。あれならリットル単位で食えるね」

「フフッ、そんなに?」

「そんなにだよ。ネット通販で桜花ソース仕入れて、千代にもプリンを食ってもらってあれこれ工夫してもらって再現しようとしたんだけど、どうにもあの味と香りにならなくてな。企業努力って凄いんだなァ」

「今度俺にも食わせろ」

「お前甘いモン好きじゃないだろうが」

「いいから!」

「わかったわかった」

「・・・あの」

「なんだ?」

「・・・耳、撫でてくれないか?」


俺は美代の耳を指で挟み、さりさりと撫でてやる。


「こうか?」

「んー、そうそう。これされると眠くなる・・・」

「どこでこんなすけべな知識仕入れてくるんですかねえ」

「直治が・・・」


てっきり都だと思っていたので、俺は苦笑した。美代の意識がとろとろと溶けていく。


「・・・あと一人」

「ん?」

「あと一人で、終わる・・・。そうしたら、二度とこんな迷惑はかけないから・・・。あと、一人・・・」


そう言って、蝶のような睫毛を閉じて眠った。


「誰だ・・・?」


祖母は寿命で死んでいるはず。都がそう言っていたんだから間違いない。

あと一人。

美代が恨んでいる相手。美代の人生を辿って考えると相手が多過ぎるが、もし一人、美代が殺したい程、恨んでいるとするならば。

美代をレイプしようとした男、か?

そんな気がしてきた。美代のなけなしの男としてのプライドをズタズタに引き裂いた男。トラウマを植え付けた男。それまで、虐待と苛めによって体力と気力を擦り減らし、反抗するという意志や思考すら失っていた美代を爆発させた男だ。

俺は美代が深く眠るのを待ち、寝息が深呼吸のようにゆっくりとしたものになってから、身体の三割程を鴉にして、美代の身体にぴったりとくっつける。背中や翼はつるつるした手触りだから俺の髪と勘違いしているのか、嬉しそうに顔を埋めている。俺はそっと部屋を出て、都の部屋に向かった。

こんこん。


『どうぞ』


部屋に入る。


「悪い、こんな時間に」

「その髪、見るたびに心臓がどきっとするわあ。また美代?」

「そう。美代が寝る前に言ってたんだよ。『あと一人』って。まだ誰か居るのか?」

「フフッ、なあに? 可愛い弟の事だから居ても立っても居られなくなって聞きに来たってこと?」

「そう」

「直治も同じ。そんなに美代が可愛いのかしら。妬いちゃう」

「一番は都だっつの。美代は二番目で直治は三番目、千代が四番目だな」

「雅さんは?」

「・・・ぎりぎり五番に入れてやるよ」

「ウフフ」

「そんな話をしに来たんじゃないって」

「・・・美代をレイプしようとした男、よ」


都は首を少し傾げる。そして続けた。


「所在はわかっているの。ご招待もね。ただ、美代の方がまだ仕上がってなくて。やっぱり経験者の淳蔵に頼んだ方がいいかしら」

「なんだ?」

「『マスケット』って知ってるでしょ?」

「・・・ああ、歩兵銃だろ? 十六世紀から十九世紀にかけて使用されていた、ざっくり言っちまえば細長い銃だ」

「『前装式』、つまり銃身の先端から火薬と弾丸を装填するタイプのマスケットはね、『火薬さえあればなんでも銃弾にできる』のよ」

「・・・ふうーん。へえ、そう」


都がなにか企んでいることがわかって、俺は思わず舌なめずりをしてしまった。


「でね? 私の父親を殺してくれたあの銃、淳蔵が撃ったあの改造銃を作った人の弟子が・・・」


少し首を傾げたまま、頬に両手を添える。


「六百丁、用意してくれることになったの」

「六百!?」

「そ、美代のために改造した特別製よ。で、なにを撃つと思う? じゅーうーだーんー」

「うーん?」


俺が都に耳を寄せると、都はそっと、囁いた。


「ハハハッ! イカれてやがる!」

「ね、淳蔵。善は急げよ。明日からお願いしてもいい?」

「勿論」

「ありがとう。じゃあ、美代のところに戻ってあげて。おやすみ」


都は背伸びして俺の頬にキスをする。俺も都の顎を掬い上げて額にキスすると、部屋に戻った。
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