二百八十三話 区別
文字数 2,899文字
「あの、凄く今更なんですけど、皆さんに、お話したいことがあります」
文香はゆっくりと、頭を下げた。
「不法侵入して、すみませんでした」
そう謝罪して、頭を上げる。
「こんな、どうしようもない私を、都様は、励まして、自信を、つけてくれました。『小説を出版する』という夢まで、叶えてくださいました」
お、椿の地雷を踏んだかな?
「本を読むことは、私にとって、息を吸うこと、なんです。小説を書くことは、息を吐くこと。文字無しでは、私は生きていけません。そんな贅沢なこと、言ってられなくて、テント生活なんてしていたのに、都様は、不法侵入者の私に優しくしてくれたどころか、私の書きかけの小説を読んで、好き、と、言ってくださいました。書き上げるまでは館で暮らしていいと言って、応援してくださいました。七月になったら、都様のお知り合いの修道院で働きながら、暮らします。桜子さんの親友が居ると聞いていますので、その方とも、仲良くなれたらなと、思っています。あ、あの、すみません、ちょっと、要領を得なくて」
「大丈夫。ゆっくり話していいんだよ」
俺が言うと、淳蔵と直治も頷く。
「私、私、自分に自信が無くて、自分のことが嫌いで、でも、ここでの暮らしで、少しだけ自信がついて、少しだけ好きになれました。自分のこと。都様にも、皆さんにも、感謝しています。本当に、ありがとうございます。も、もう少しの間、お世話になりますが、よ、よろしくお願いしますっ」
文香は再び、頭を下げた。ぱたぱた、と足音が談話室に近付いてきたので、俺達は揃って入り口を見る。
「あっ! 都様!」
「ごきげんよう。親睦は深まったかしら?」
「は、はいっ」
「それは良かった。直治、桜子さん知らない? お遣いに行ってほしいんだけど、携帯に電話をかけても繋がらないの」
「ジャスミンの散歩に行ってるから、多分おちょくられてるな」
「ああ、もう・・・」
「都、俺が行こうか?」
「淳蔵は駄目。直治、そういうことだから、あとでちょっと桜子さん借りるわよ」
「わかりました」
「文香さん、お仕事のことで少し話があるから、今から部屋に来てくれる?」
「あ、は、はい! あの、淳蔵様、美代様、直治様、失礼します!」
文香は雛鳥が親鳥を追いかけるように、都を追いかけて談話室を出ていった。
「あの、」
モップを両手で持った椿が、歪な笑みを浮かべている。
「なんですか、今の話は・・・」
「なんだろう? 直治は知ってる?」
「知らない。淳蔵は知ってるか?」
「えっ、俺? ・・・はあ、わかったよ」
淳蔵は至極面倒臭いという顔をした。
「都は困った人を見ると助けずにはいられない性質でな。文香を特別扱いしているわけじゃない。ああいうのはこの家ではよくあることだ。で、文香の書いた本は欲しいが文香自身は一条家で働かせるのは難しいと判断して、本を手に入れるまでは一条家で面倒を見て、本が手に入ったら修道院に行かせるってわけだ。修道院の名前は言っちゃいけないことになってるから教えられねえが、あそこは一人で生活をするのが難しい女性も受け入れて、共同生活をしてる。文香もなにかしらの仕事を与えられて、まあ、うまくやってくだろ」
「違いますッ!! 私が聞いてるのはそこじゃありませんッ!!」
椿は顔を真っ赤にして大きな声を上げた。
「水無瀬の書いた本を出版するってッ!!」
「ああ、印刷部数が十冊かららしいから、十冊作るんだと。一冊は都に、一冊は文香に、残りの八冊は都の知り合いの店に置かせてくれるらしいぜ」
「それって社長が水無瀬の出版の面倒を見たってことですよね!?」
「そうなるな」
カランコロンッ、と音を立ててモップが転がった。椿が投げ出したからだ。
「失礼しますッ!!」
掃除用具をそのまま、椿は談話室を出ていく。
「・・・で、あの投げ出したモップ、俺が片付けるのかよ」
そう言って、直治は腕を組み、背凭れに身体を預けた。
「せめて惚れてる男の前では可愛く振舞えないもんかね?」
「直情的だねえ」
「これ以上の面倒はご免だぜ、ったく・・・」
淳蔵の願いは叶わず、面倒事は起こった。その日の夕食の席に文香が参加しなかった。都と文香の間で『夕食には参加すること』と決められているのにだ。都は不機嫌で、椿と裕美子は上機嫌。桜子はいつもなら食事はゆっくりと味わい、後片付けも手伝うのに、今日は胃に押し込むように素早く食べると、かちゃかちゃと音を立てながら食器を重ねてキッチンに運び、そのままどこかへ行ってしまった。食事のマナーに厳しい都の前でそんなことをするものだから、俺達は緊張して食事を味わうどころではなかった。しかし、都はそんな桜子を一瞥することもなく、いつも通りに食事をして、いつも通りに部屋に帰っていった。
食事を終え、事務室に戻る。今の状態の都に話しかけるのは、怖い。仕方なく、俺は仕事を再開した。十時になると都の部屋に仕事の報告に行くので、その時になにがあったのか聞いてみよう。もしかしたら、少し機嫌が良くなっていて、なにか話してくれるかもしれない。
こんこん。
「どうぞ」
『失礼します』
事務室に来たのは桜子だった。
「どうしたの?」
「文香さんが、指を、」
「指?」
「右手の人差し指と、中指を、骨折しました」
「えっ!?」
「文香さんは『ドアに挟んだということにしてほしい』と・・・」
「・・・本当は?」
「椿さんと裕美子さんに、一本ずつ折られたようです」
絶句した。
「書斎に本を借りに行った文香さんを捕まえて客室に連れ込み、酷く罵ったあと、文香さんを二人掛かりでおさえつけて、指を折ったようです。口止めもされています。文香さんは自力で客室から出たものの、廊下で嘔吐して動けなくなってしまったところを、わたくしが発見しました。『救急車は呼ばないで』と懇願するので、わたくしが車で麓の町の病院まで連れて行きました。そのまま入院することになりました。文香さんは精神科でお薬を処方されていて、飲み合わせに注意するものもありますから、文香さんの『お薬手帳』を病院に届ける必要がありました。なので、先程は急いで食事をしていました。申し訳ありませんでした」
「謝らなくていいよ」
「あの・・・、わたくしが、都様を怒らせてしまったのです。都様は一刻も早くお薬手帳を病院に届けるよう、わたくしに言ったのですが、わたくしは夕食の席に参加しないと椿さんと裕美子さんに怪しまれると答えてしまいました。都様は『お前は人命と食肉の区別も付かないのか。一度決めたことを覆すなよ』と・・・。ですので、その・・・」
「桜子君、謝らなくていい」
「あの・・・、すみません。すみません、本当に・・・」
桜子は恐らく、初めて、都の冷たい怒りを体験したのだろう。涙は堪えているが震えている。
「他には誰に知らせた?」
「淳蔵様には、都様が電話でお話しました。淳蔵様の部屋に女性であるわたくしが出入りするのを見られたら、また面倒なことになるだろうから、と。直治様には先程お話しました。千代さんには、今から・・・」
「わかった。行っておいで」
「はい。失礼します・・・」
桜子はお辞儀をして、事務室から出ていった。
「人命と食肉、ね・・・」
文香はゆっくりと、頭を下げた。
「不法侵入して、すみませんでした」
そう謝罪して、頭を上げる。
「こんな、どうしようもない私を、都様は、励まして、自信を、つけてくれました。『小説を出版する』という夢まで、叶えてくださいました」
お、椿の地雷を踏んだかな?
「本を読むことは、私にとって、息を吸うこと、なんです。小説を書くことは、息を吐くこと。文字無しでは、私は生きていけません。そんな贅沢なこと、言ってられなくて、テント生活なんてしていたのに、都様は、不法侵入者の私に優しくしてくれたどころか、私の書きかけの小説を読んで、好き、と、言ってくださいました。書き上げるまでは館で暮らしていいと言って、応援してくださいました。七月になったら、都様のお知り合いの修道院で働きながら、暮らします。桜子さんの親友が居ると聞いていますので、その方とも、仲良くなれたらなと、思っています。あ、あの、すみません、ちょっと、要領を得なくて」
「大丈夫。ゆっくり話していいんだよ」
俺が言うと、淳蔵と直治も頷く。
「私、私、自分に自信が無くて、自分のことが嫌いで、でも、ここでの暮らしで、少しだけ自信がついて、少しだけ好きになれました。自分のこと。都様にも、皆さんにも、感謝しています。本当に、ありがとうございます。も、もう少しの間、お世話になりますが、よ、よろしくお願いしますっ」
文香は再び、頭を下げた。ぱたぱた、と足音が談話室に近付いてきたので、俺達は揃って入り口を見る。
「あっ! 都様!」
「ごきげんよう。親睦は深まったかしら?」
「は、はいっ」
「それは良かった。直治、桜子さん知らない? お遣いに行ってほしいんだけど、携帯に電話をかけても繋がらないの」
「ジャスミンの散歩に行ってるから、多分おちょくられてるな」
「ああ、もう・・・」
「都、俺が行こうか?」
「淳蔵は駄目。直治、そういうことだから、あとでちょっと桜子さん借りるわよ」
「わかりました」
「文香さん、お仕事のことで少し話があるから、今から部屋に来てくれる?」
「あ、は、はい! あの、淳蔵様、美代様、直治様、失礼します!」
文香は雛鳥が親鳥を追いかけるように、都を追いかけて談話室を出ていった。
「あの、」
モップを両手で持った椿が、歪な笑みを浮かべている。
「なんですか、今の話は・・・」
「なんだろう? 直治は知ってる?」
「知らない。淳蔵は知ってるか?」
「えっ、俺? ・・・はあ、わかったよ」
淳蔵は至極面倒臭いという顔をした。
「都は困った人を見ると助けずにはいられない性質でな。文香を特別扱いしているわけじゃない。ああいうのはこの家ではよくあることだ。で、文香の書いた本は欲しいが文香自身は一条家で働かせるのは難しいと判断して、本を手に入れるまでは一条家で面倒を見て、本が手に入ったら修道院に行かせるってわけだ。修道院の名前は言っちゃいけないことになってるから教えられねえが、あそこは一人で生活をするのが難しい女性も受け入れて、共同生活をしてる。文香もなにかしらの仕事を与えられて、まあ、うまくやってくだろ」
「違いますッ!! 私が聞いてるのはそこじゃありませんッ!!」
椿は顔を真っ赤にして大きな声を上げた。
「水無瀬の書いた本を出版するってッ!!」
「ああ、印刷部数が十冊かららしいから、十冊作るんだと。一冊は都に、一冊は文香に、残りの八冊は都の知り合いの店に置かせてくれるらしいぜ」
「それって社長が水無瀬の出版の面倒を見たってことですよね!?」
「そうなるな」
カランコロンッ、と音を立ててモップが転がった。椿が投げ出したからだ。
「失礼しますッ!!」
掃除用具をそのまま、椿は談話室を出ていく。
「・・・で、あの投げ出したモップ、俺が片付けるのかよ」
そう言って、直治は腕を組み、背凭れに身体を預けた。
「せめて惚れてる男の前では可愛く振舞えないもんかね?」
「直情的だねえ」
「これ以上の面倒はご免だぜ、ったく・・・」
淳蔵の願いは叶わず、面倒事は起こった。その日の夕食の席に文香が参加しなかった。都と文香の間で『夕食には参加すること』と決められているのにだ。都は不機嫌で、椿と裕美子は上機嫌。桜子はいつもなら食事はゆっくりと味わい、後片付けも手伝うのに、今日は胃に押し込むように素早く食べると、かちゃかちゃと音を立てながら食器を重ねてキッチンに運び、そのままどこかへ行ってしまった。食事のマナーに厳しい都の前でそんなことをするものだから、俺達は緊張して食事を味わうどころではなかった。しかし、都はそんな桜子を一瞥することもなく、いつも通りに食事をして、いつも通りに部屋に帰っていった。
食事を終え、事務室に戻る。今の状態の都に話しかけるのは、怖い。仕方なく、俺は仕事を再開した。十時になると都の部屋に仕事の報告に行くので、その時になにがあったのか聞いてみよう。もしかしたら、少し機嫌が良くなっていて、なにか話してくれるかもしれない。
こんこん。
「どうぞ」
『失礼します』
事務室に来たのは桜子だった。
「どうしたの?」
「文香さんが、指を、」
「指?」
「右手の人差し指と、中指を、骨折しました」
「えっ!?」
「文香さんは『ドアに挟んだということにしてほしい』と・・・」
「・・・本当は?」
「椿さんと裕美子さんに、一本ずつ折られたようです」
絶句した。
「書斎に本を借りに行った文香さんを捕まえて客室に連れ込み、酷く罵ったあと、文香さんを二人掛かりでおさえつけて、指を折ったようです。口止めもされています。文香さんは自力で客室から出たものの、廊下で嘔吐して動けなくなってしまったところを、わたくしが発見しました。『救急車は呼ばないで』と懇願するので、わたくしが車で麓の町の病院まで連れて行きました。そのまま入院することになりました。文香さんは精神科でお薬を処方されていて、飲み合わせに注意するものもありますから、文香さんの『お薬手帳』を病院に届ける必要がありました。なので、先程は急いで食事をしていました。申し訳ありませんでした」
「謝らなくていいよ」
「あの・・・、わたくしが、都様を怒らせてしまったのです。都様は一刻も早くお薬手帳を病院に届けるよう、わたくしに言ったのですが、わたくしは夕食の席に参加しないと椿さんと裕美子さんに怪しまれると答えてしまいました。都様は『お前は人命と食肉の区別も付かないのか。一度決めたことを覆すなよ』と・・・。ですので、その・・・」
「桜子君、謝らなくていい」
「あの・・・、すみません。すみません、本当に・・・」
桜子は恐らく、初めて、都の冷たい怒りを体験したのだろう。涙は堪えているが震えている。
「他には誰に知らせた?」
「淳蔵様には、都様が電話でお話しました。淳蔵様の部屋に女性であるわたくしが出入りするのを見られたら、また面倒なことになるだろうから、と。直治様には先程お話しました。千代さんには、今から・・・」
「わかった。行っておいで」
「はい。失礼します・・・」
桜子はお辞儀をして、事務室から出ていった。
「人命と食肉、ね・・・」