二百六十五話 箱庭

文字数 2,922文字

こんこん。


「どうぞ」

『失礼します』


部屋に入ってきたのは都だった。俺は椅子から立ち上がり、都に近付く。いつからこの関係が始まったのかは覚えていない。美代と直治にもこんなことをしているのかは知らない。聞いたことがないから。

都は俺を見上げる。

度の過ぎた悪戯の結果に自分でも吃驚してしまって、親に叱られたくなくて、ずっと緊張しながらも黙り続けているような顔。いつか叱られるとわかっているのに、もしかしたらバレないかも、なんて自分に言い聞かせて、素直に謝れない顔。

自己保身。

都は、上手に甘えることができない。都のなにが都のなにを許せないのか、俺などでは到底わからない。立場、プライド、性格、それ以外の要素。


「・・・甘えたいのか?」


少し悔しそうな顔をしながらも、黙って頷く。


「おいで」


俺は都をベッドへ導いた。抱き合うのではなく、抱きしめる。都は静かに泣き始めた。泣き声は次第に大きくなり、都は必死に噛み殺す。俺のシャツが濡れる。疲れ果てた都はそのまま寝てしまう。呼吸は浅い。すぐに起きる。俺は都の額にキスをした。『合図』だ。腕を解いて都の顔を見ないように起き上がり、脱衣所のドアをわざとらしく音を立てて開け、わざとらしく音を立てて閉める。都も、ぱたん、と音を鳴らしてドアを閉め、俺の部屋を出ていった。


「疲れてんのかなァ・・・」


ドアに背を預け、腕を組み、独り言つ。


「・・・馬鹿犬」


都が望むなら、海でも動物園でも夜景が綺麗な場所でも、いつだってどこへだって連れだして、違う空気を吸わせてやるのに、都を永遠に無垢な少女でいさせたいあの馬鹿犬がそれを許さない。そう思うと同時に『外』の穢れた世界に都を触れさせたくない自分も居る。そんな自分も許せない。


「・・・馬鹿は俺もか」


そろそろ談話室に行く時間だ。濡れたシャツを一度指で撫でてから、着替える。洗面台の鏡を見て、右手の人差し指と親指で口角を持ち上げてから、俺は部屋を出た。


「お? 俺が一番最後か?」


談話室には美代と直治、千代と桜子が居た。ジャスミンはいつも都が座る俺の隣に居る。


「ちょっと相談」


美代が言った。


「ほう」


俺は座り、ジャスミンの耳の付け根を撫でる。ふわふわで結構気持ちが良い。


「都、最近元気が無いだろ?」

「ん、そうだな・・・」

「原因、知ってるか?」

「いや?」

「『来る日』が正式に決まった、らしい」


視線がジャスミンに集まる。ジャスミンはニパッと笑った。


「いつだ」


直治が問う。


「二年後の、八月三十一日」


美代が答えた。


「・・・なにが起こるんだ?」

「『最悪の災厄』が起こる、と、都はそう言った。地震、津波、台風、火災。『ライフライン』は破壊されて、疫病が蔓延する。俺達みたいな『特殊な生きもの』以外は、99%死ぬ。残りの1%は『選ばれた者』だ。そいつらが環境に適応して徐々に進化し、新たな文明を創造し、育て、いつかまた滅ぼされる。大昔にも一度あったんだってさ。当時幅を利かせていた『恐竜』を滅ぼすために、隕石を衝突させて地球を寒冷化させたって・・・」


美代が続ける。


「恐竜の時もそうだったが、人間に味方をする者も居る。そいつらが入れ知恵をして、ハルマゲドンという名前が世に広まった。今の人間は善であり悪である。その善と悪の戦争を終わらせる、最後の戦争。世界の終末。となれば、人間に味方する者は、当然、邪魔になる。都も、その一人・・・」


美代は少しだけ、唇を噛み締めた。


「都に『怖い夢』を見せたヤツは、都に取り引きを持ち掛けていた。ジャスミンが都のために作ったこの世界で俺達を生かし続けるかわりに、都は戦士として戦い、戦いの勝敗に関係無く、命を差し出せと・・・」


『お前らと徒党を組んで戦うつもりはない。お前らの支援は要らないしお前らに援助もしない。己を立ち行かせるのは己だけだ』

『ばッ、馬鹿がッ!! 正気か!? 全員死ぬぞッ!! お前一人の命でお前の望む通りにしてやると言っているのに、無下にするのかッ!?』


「・・・都は、たった一人で戦うことを選んだ」


直治は苛立って深い溜息を吐き、千代はただ沈黙し、桜子は顔を顰めた。一番取り乱して暴れそうな美代は、落ち着き払っている。


「一条都という存在は、人間を擁護する派閥から見れば人間を喰らう怪物。破滅を推進する派閥から見れば人間を自称する要注意人物。どちらにしろ厄介だ。一条都の『軍勢』であると考えられている俺達もな」


美代は右手を顔の前に翳し、指輪を見た。


「『怖い夢』を見せたヤツは、人間擁護派だったんだ」


右手はそのまま首に滑り、チョーカーを撫でる。


「直治に取り引きを持ち掛けてきたヤツもそうらしい」


右手は、膝の上に戻った。


「地球は小さな箱庭だ。恐竜の時は飽きて作りかえられた。人間は箱庭の作り手である神や魔王、天使や悪魔に干渉し、領域を侵し、あまつさえ飼い慣らそうと考えている。中には、自分がそういった存在だと信じてやまない者も居る。端的に言えば怒りを買ったんだよ」


美代の右手が強く握りしめられる。


「擁護派にも推進派にも、都は目障りな存在。だから消す。ハルマゲドンの混乱に乗じて」


ほんの少しだけ、美代が笑みを浮かべる。


「『勝算はある』・・・。ってさ」

「それで納得できるとでも?」


直治が立ち上がり、美代を見下ろす。


「納得できねえのは俺だよッ!!」


突然、美代が絶叫して立ち上がったので、威圧していた直治ですら吃驚していた。


「俺と約束したんだッ!! させたんだッ!! たとえ、たとえなにがあっても、都の邪魔はしないってッ!! だから、だから戦いが終わったら、また一緒に、皆で、ここで暮らしていこうってッ!!」


美代はぼろぼろ泣き始めた。


「都は震える手で俺の手を握りしめて『絶対に生きて帰ってくる』って言ったんだよッ!! それじゃ足りないかッ!? これ以上どうしろってんだよッ!! 都を信じろッ!! 都の選択が一度でも間違ってたことがあるかッ!?」


直治は悔しそうな顔をする。都が選択を間違えたことなんて、何度もある。それは美代も、直治もわかっているはずだ。けれど、直治はなにも言い返さなかった。


「淳蔵も直治も千代も桜子も、この話は都の前では一切するなッ!! 都の覚悟が揺らいじまうだろッ!! 俺が『はいそうですねわかりました』っつって都の話を聞いてたと思うのかッ!? 何度もぶつかったよッ!! 酷いことも言ったッ!! それでも都は泣くのを堪えて、震える手で俺の手を握ってきたんだよッ!! これ以上どうしろっていうんだよッ!? 数の暴力で都の覚悟を押し潰すのかッ!? どうなんだよッ!!」


俺は何故か、妙に冷静だった。

都が俺に甘えてきたのは、美代とぶつかったからだ。そして、美代が俺達とぶつかることがわかっていたからだ。大好きな美代とぶつかるのがつらくて、美代にこんなことを言わせてしまう自分が情けなくて、もうどうしようもなくて、でも誰にも言えなくて。

俺は今、現実から逃げていく自分の背中を見ている。


「美代」

「・・・なんだよ」

「一番初めに『相談』って言ったよな。なんだよ、相談って」


美代はソファーに座り直した。


「・・・都と仲直りのデートがしたい」

「デ、デート?」

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