二百七十八話 いっそ
文字数 2,414文字
こんこん。
「どうぞ」
『失礼します』
午前十時になる少し前。文香が出勤するために事務室に来る。
「お、おはようございます」
「おはよう」
文香がタイムカードを打刻する。
「失礼します」
「おう」
事務室を出ていく。俺は仕事を中断して天井を見つめた。
「『電子化』に『文字起こし』ね・・・」
文香が来て二週間。出勤は午前十時、退勤は自由だが最低でも四時間は働くこと。仕事内容は書類をデジタルデータに変換する『電子化』と、音声を文字として記録する『文字起こし』。これを社長である都の自室でやる。退勤後は自由に過ごしてよいが夕食には必ず参加すること。休日が欲しい場合は前日までに申し出ること。俺ではなく都に、だ。
「なに企んでんだか・・・」
なんの情報も無いので推測するしかない。文香が読書好きで執筆もしていることが理由だとは思う。椿を煽るためなのか、他になにか理由があるのかはわからない。文香は仕事中も『都様に指示されました』と言って書斎の本を持っていくことがある。驚いたのは二階の書庫にも出入りしていることだ。書庫は二部屋あり、どちらも鍵がかかっている。鍵は館の主である都と、管理人である俺が管理していて、許可無く出入りすることは禁止されている。二階に事務室を持つ美代が書庫を出入りする文香を発見し、問いただすと『都様に指示されました』と答えたという。すぐに携帯のメッセージで都に確認すると『指示した』と認めたが、何故なのかは教えてくれなかったそうだ。
バンッ、と乱暴にドアが開いた。
「直治さんッ! 一体どういうことなんですかッ!」
椿が吠える。
「なんだいきなり。ノックしろ」
「社長はなにを考えているんですかッ!」
そんなの俺が知りてえよ。
「書斎の前を通りがかったら、社長と水無瀬が談笑していたんですよ!! 社長も水無瀬も仕事中ですよね!?」
「お前だって勤務中に淳蔵にぺらぺら喋りかけてんだろうがよ」
椿は顔を真っ赤にした。
「してませんそんなこと!! 言い掛かりです!! それより、なんであんな高卒女がデスクワークで私がトイレ掃除なんかしなくちゃいけないんですか!! 逆でしょ!? 私は文章作成能力に自信があります!! 私なら低学歴の人間には肉体労働であるトイレ掃除をさせて高学歴の人間には頭脳が必要な仕事をさせます!!」
「はあ・・・」
「ちょっと!! なに溜息なんか吐いてんのよッ!!」
「いい加減にしろッ!!」
俺はデスクを両手で叩いて立ち上がった。
「口を開けば学歴学歴!! ンなもん就活か見合いの時にしか使えねえんだよ!! いつまで学生気分でいやがるんだ!! ここは学校じゃなくて会社だ!! 論じるんじゃなくて働け!!」
「直治様」
いつの間にか、開きっぱなしのドアの向こうに居た桜子に制され、俺は椅子に座り直す。
「パワハラで訴えてやるッ!!」
椿は啖呵を切って事務室を出ていった。入れ替わりに桜子が入ってきてドアを閉める。
「直治様。都様から文香さんの眼鏡を作ってくるように指示されまして、今から文香さんと町まで出掛けてきます」
「なんでそうなる?」
「仕事に支障が出る程視力が、」
「違う! 都が何故文香を贔屓してるかって話だ!」
「わたくしはなにも・・・」
「クソがッ! あんなモノに情けをかけて俺を、」
そこまで言って、俺は唇を噛み締めた。
「美容院にも行ってこいとのことです」
「ハッ、お前の髪じゃないんだろ?」
「はい。文香さんです」
「都はどこだ」
「わたくしと文香さんを見送るために玄関に」
俺は再び椅子から立ち上がり、玄関へ向かった。
「あら、直治。桜子さんから聞いたかしら?」
「話がある」
「あとでね」
都は桜子を見る。
「都様、行って参ります」
「いってらっしゃい」
「あっ、あっ、い、いってまいります!」
「いってらっしゃい」
二人が出ていく。桜子はドアを閉める時、都を心配するような視線を送った。今の俺が都にとって脅威だとでも言いたそうな目付きだった。苛立ちが募る。
「話せよ」
「あら? 直治が話があるんじゃなかったの?」
「都ッ!」
俺は都の両腕を掴んだ。もうすぐ三月が終わる。あと十七ヵ月しかない。来年の八月の終わりには、都は。
「直治」
なにも言えない。
「痛いよ」
俺は、そっと、都の腕を放した。都は階段を登って去っていく。
こんなことをする必要がどこにあるんだ。
いつも通りに過ごす必要がどこにあるんだ。
これ以上こころを掻き乱す必要がどこにあるんだ。
昔、都が『呪い』をかけられて、四肢が完全に動かなくなった時のことを俺は思い出した。俺が口元に運ぶ食事を雛鳥のように啄み、俺が車椅子に乗せて移動させ、俺が歯を磨き、俺が風呂に入れて髪と身体を洗い、俺が排尿と排便の処理をして、俺の腕の中で眠って、俺にだけ弱った姿を晒していた。
「俺だけの・・・俺だけのものだったのにッ・・・!」
気が狂いそうだ。涙が溢れて止まらない。俺はその場に頽れる。
「あんなッ・・・あんなモノに盗られて・・・俺はッ・・・!」
いっそ、
もういっそ、
死んでしまいたい。
『直治、眠れない夜は私の部屋へおいで』
都の目の前で、愛していると言って、これで俺は永遠に都のものだと言って、俺だけを愛してほしかったと言って、首を掻っ切ってしまいたい。都の中で負の感情として生き続けて、都を縛り付けて、猛毒のように都の全てを蝕んでしまいたい。
一瞬、頭の中が真っ白になった。
すうーっと、感情が、荒れ狂う海から穏やかな凪になる。目の前にはジャスミンが居て、ニパッと笑って俺を見つめていた。俺の呼吸音が玄関ホールに響いている。
「・・・最悪だ、俺」
ジャスミンが慰めるように頬を舐める。すぐに胸が張り裂けそうな悲しみと後悔でいっぱいになる。俺はジャスミンを抱きしめた。ジャスミンは俺の身体に少しだけ体重をかけて、身体を密着させる。馬鹿犬に慰められるなんて情けない。都も、こうやって慰めてもらっているのだろうか。
「・・・最悪だ、俺は」
もう一度、繰り返して言った。
「どうぞ」
『失礼します』
午前十時になる少し前。文香が出勤するために事務室に来る。
「お、おはようございます」
「おはよう」
文香がタイムカードを打刻する。
「失礼します」
「おう」
事務室を出ていく。俺は仕事を中断して天井を見つめた。
「『電子化』に『文字起こし』ね・・・」
文香が来て二週間。出勤は午前十時、退勤は自由だが最低でも四時間は働くこと。仕事内容は書類をデジタルデータに変換する『電子化』と、音声を文字として記録する『文字起こし』。これを社長である都の自室でやる。退勤後は自由に過ごしてよいが夕食には必ず参加すること。休日が欲しい場合は前日までに申し出ること。俺ではなく都に、だ。
「なに企んでんだか・・・」
なんの情報も無いので推測するしかない。文香が読書好きで執筆もしていることが理由だとは思う。椿を煽るためなのか、他になにか理由があるのかはわからない。文香は仕事中も『都様に指示されました』と言って書斎の本を持っていくことがある。驚いたのは二階の書庫にも出入りしていることだ。書庫は二部屋あり、どちらも鍵がかかっている。鍵は館の主である都と、管理人である俺が管理していて、許可無く出入りすることは禁止されている。二階に事務室を持つ美代が書庫を出入りする文香を発見し、問いただすと『都様に指示されました』と答えたという。すぐに携帯のメッセージで都に確認すると『指示した』と認めたが、何故なのかは教えてくれなかったそうだ。
バンッ、と乱暴にドアが開いた。
「直治さんッ! 一体どういうことなんですかッ!」
椿が吠える。
「なんだいきなり。ノックしろ」
「社長はなにを考えているんですかッ!」
そんなの俺が知りてえよ。
「書斎の前を通りがかったら、社長と水無瀬が談笑していたんですよ!! 社長も水無瀬も仕事中ですよね!?」
「お前だって勤務中に淳蔵にぺらぺら喋りかけてんだろうがよ」
椿は顔を真っ赤にした。
「してませんそんなこと!! 言い掛かりです!! それより、なんであんな高卒女がデスクワークで私がトイレ掃除なんかしなくちゃいけないんですか!! 逆でしょ!? 私は文章作成能力に自信があります!! 私なら低学歴の人間には肉体労働であるトイレ掃除をさせて高学歴の人間には頭脳が必要な仕事をさせます!!」
「はあ・・・」
「ちょっと!! なに溜息なんか吐いてんのよッ!!」
「いい加減にしろッ!!」
俺はデスクを両手で叩いて立ち上がった。
「口を開けば学歴学歴!! ンなもん就活か見合いの時にしか使えねえんだよ!! いつまで学生気分でいやがるんだ!! ここは学校じゃなくて会社だ!! 論じるんじゃなくて働け!!」
「直治様」
いつの間にか、開きっぱなしのドアの向こうに居た桜子に制され、俺は椅子に座り直す。
「パワハラで訴えてやるッ!!」
椿は啖呵を切って事務室を出ていった。入れ替わりに桜子が入ってきてドアを閉める。
「直治様。都様から文香さんの眼鏡を作ってくるように指示されまして、今から文香さんと町まで出掛けてきます」
「なんでそうなる?」
「仕事に支障が出る程視力が、」
「違う! 都が何故文香を贔屓してるかって話だ!」
「わたくしはなにも・・・」
「クソがッ! あんなモノに情けをかけて俺を、」
そこまで言って、俺は唇を噛み締めた。
「美容院にも行ってこいとのことです」
「ハッ、お前の髪じゃないんだろ?」
「はい。文香さんです」
「都はどこだ」
「わたくしと文香さんを見送るために玄関に」
俺は再び椅子から立ち上がり、玄関へ向かった。
「あら、直治。桜子さんから聞いたかしら?」
「話がある」
「あとでね」
都は桜子を見る。
「都様、行って参ります」
「いってらっしゃい」
「あっ、あっ、い、いってまいります!」
「いってらっしゃい」
二人が出ていく。桜子はドアを閉める時、都を心配するような視線を送った。今の俺が都にとって脅威だとでも言いたそうな目付きだった。苛立ちが募る。
「話せよ」
「あら? 直治が話があるんじゃなかったの?」
「都ッ!」
俺は都の両腕を掴んだ。もうすぐ三月が終わる。あと十七ヵ月しかない。来年の八月の終わりには、都は。
「直治」
なにも言えない。
「痛いよ」
俺は、そっと、都の腕を放した。都は階段を登って去っていく。
こんなことをする必要がどこにあるんだ。
いつも通りに過ごす必要がどこにあるんだ。
これ以上こころを掻き乱す必要がどこにあるんだ。
昔、都が『呪い』をかけられて、四肢が完全に動かなくなった時のことを俺は思い出した。俺が口元に運ぶ食事を雛鳥のように啄み、俺が車椅子に乗せて移動させ、俺が歯を磨き、俺が風呂に入れて髪と身体を洗い、俺が排尿と排便の処理をして、俺の腕の中で眠って、俺にだけ弱った姿を晒していた。
「俺だけの・・・俺だけのものだったのにッ・・・!」
気が狂いそうだ。涙が溢れて止まらない。俺はその場に頽れる。
「あんなッ・・・あんなモノに盗られて・・・俺はッ・・・!」
いっそ、
もういっそ、
死んでしまいたい。
『直治、眠れない夜は私の部屋へおいで』
都の目の前で、愛していると言って、これで俺は永遠に都のものだと言って、俺だけを愛してほしかったと言って、首を掻っ切ってしまいたい。都の中で負の感情として生き続けて、都を縛り付けて、猛毒のように都の全てを蝕んでしまいたい。
一瞬、頭の中が真っ白になった。
すうーっと、感情が、荒れ狂う海から穏やかな凪になる。目の前にはジャスミンが居て、ニパッと笑って俺を見つめていた。俺の呼吸音が玄関ホールに響いている。
「・・・最悪だ、俺」
ジャスミンが慰めるように頬を舐める。すぐに胸が張り裂けそうな悲しみと後悔でいっぱいになる。俺はジャスミンを抱きしめた。ジャスミンは俺の身体に少しだけ体重をかけて、身体を密着させる。馬鹿犬に慰められるなんて情けない。都も、こうやって慰めてもらっているのだろうか。
「・・・最悪だ、俺は」
もう一度、繰り返して言った。