百七十二話 灰色の禽獣

文字数 1,910文字

こんこん。


「どうぞ」

『失礼します』


事務室に来たのは都だった。俺は小休止で読んでいた小説に栞を挟む。


「直治、あの、」


『ね』の音は喉から出なかった。都は俺が持っている小説を見て固まっている。


「あ、あ、」

「どうした?」

「な、なんでもないっ!」

「あ? おい待て待て」


廊下に出た都を追いかける形で俺も事務室を出る。逃げようとしたので壁に手をついて道を塞いだ。


「なんだその反応。用があるから来たんだろ?」


都は顔を真っ赤にして横に振る。こんな面白い反応をされたら、虐めたくなる。


「んー? 可愛いお嬢さん。おじさんに話してごらん」


客にするようなとびっきりの笑顔で言う。


「あぅ、あぅ、あ、あ、あの小説、ど、どこで・・・」

「どこって、書斎だよ」

「う、嘘ォ・・・」

「俺が都に嘘吐くか?」


都はぷるぷると顔を横に振った。


「あ、あの小説、読んだの、直治だけ? 淳蔵と美代は?」

「淳蔵のオススメ。美代が読み終わったから俺が読んでる」

「あうー・・・」


へなちょこな鳴き声をあげて都が座り込む。俺は視線を合わせるようにしゃがんだ。


「・・・なんだその反応は」

「うぅ、うぅ、あの、あのね・・・」


都はぽそぽそとした声で言った。


「その、小説、わ、私が書いたの・・・」

「えっ!?」

「・・・直治達が来る前、メイドとの相性が悪くて、一人の時間が多かった時期があったから、その、現実逃避に、ちょっと」


一瞬、哀れだ、という感情が沸き起こる。同時に、俺がもっと早く生まれていればという後悔も。


「書き上げた時、ちょっと興奮しちゃって、知り合いの出版社に頼んで、一冊だけ作ってもらったの。でも、冷静になってくるにつれて凄く恥ずかしくなって、私の部屋の箪笥の一番奥に隠しておいたはずなのに・・・」

「あー・・・。十中八九、ジャスミンの仕業だろうな」


都は顔を両手で覆った。


「ジャスミンの馬鹿ぁ・・・」

「・・・今でいう『伝奇ホラー』ってヤツか? 幻想的で俺は好きだよ」


都は、ぱっ、と顔を上げ、羞恥で赤くなっている顔をこれ以上ない程真っ赤に染める。


「『日傘に蝉時雨が跳ね返る夏』ってところから始まるのが、」

「わああああ! 馬鹿馬鹿! 言うなー!」


都はじたばたと慌てながら立ち上がった。


「私の前でこの話題禁止!! 淳蔵と美代にも伝えておきなさい!!」

「はい」


ドタドタと足音を立てて去っていく姿をにやにやしながら見つめて、俺は仕事に戻った。暫くしてから、休憩時間を調節して、一番早く談話室に行き、小説を読んで淳蔵と美代を待つ。淳蔵が現れて、ラックから雑誌を取り出してソファーに座る。


「おー、弟よ。一番乗りとは珍しい」

「ちょっとな」


淳蔵が雑誌を広げてから暫くすると、ノートパソコンを抱えた美代がやってくる。


「美代、待ってたぞ」

「俺を? なに?」


俺は小説をテーブルの上に置いた。


「お前ら、これ読んだよな?」

「読んだもなにも、俺が勧めたヤツだろ」

「『灰色の禽獣』、『月草はじめ』、だよね?」


美代がタイトルと作者名を読み上げる。


「俺、これを書いた作者に会ったぞ」

「ええ? どこで?」

「俺の事務室に用事で訪ねてきて、俺がこれを読んでいるのを見ると顔を真っ赤にして、用事が頭の中からすっ飛んでいったのか、ドタドタ足音を立てながら逃げていった」

『は?』


二人の声が重なる。


「・・・ん? えっ? これ、まさか、」

「都だよ」


二人は見つめ合って静止したあと、小説を取ろうとテーブルの上を叩くように手を伸ばした。その寸前で俺が取り上げる。


「俺がまだ読んでる途中だ馬鹿共」

「うるせえ寄こせクソボケ!」

「ふざけんなテメェ俺に寄こせ!」

「一回読んだだろばーか。俺が読み終わったら勝手に取り合え」


二人は睨み合った。


「それとな、都はこのことをかーなーりー恥ずかしがってる。都の前でこの小説の話は禁止だ。わかったか?」

「・・・わかりましたよ」

「ッチ、見せびらかしやがって。とっとと読め」

「この世に一冊しかない貴重品だからな。誰にも邪魔されないところでゆっくり読むよ。じゃあな」


俺は談話室をあとにした。

夜。

自室で都が書いた小説を読む。明日の早朝のランニングを睡眠時間にあてるつもりで夜更かしした。


『人を人たらしめるものは、理性、知性、品性、である。この三つの内のどれか一つを欠いた者は、人ではなく『禽獣』だ。今回の事件の黒幕は、長い人生の中でこの三つ全てを失ってしまった。彼の毛皮は、汚濁を纏い、襤褸布のような灰色に染まっていた。私にはそう見えたよ』


主人公の台詞で、物語は終わった。


「人を人たらしめるもの、ね・・・」


俺達は一体なんなんだろう。

引き出しに小説を入れ、鍵をかけ、ベッドに寝転ぶ。都の孤独を思うと、なかなか寝付けなかった。
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