七十一話 ぐーちゃん1
文字数 2,654文字
慌ただしい八月が過ぎていった。俺は洗濯を担当しているので、大勢の客の洗濯物を必死に乾燥付き洗濯機で回して畳んで部屋に運んで仕舞ってを繰り返した。雅の送迎は、友達とプールに行くだとか、花火大会を見に行くだとか、ガキらしい内容で駆り出されることが何度かあった程度。それ以外の時間は勉強にあてている。俺は談話室で雑誌を読みたいが客に絡まれると面倒なので、自室でぼーっとすることが多かった。
九月下旬、漸く静か過ぎる毎日が戻ってくる。
「なあ、ずっと疑問に思ってたんだけどさ」
勉強中の雅がトイレに行った隙を見計らって、美代が話し始める。
「なんで淳蔵が美人で『淳蔵ちゃん』で、俺が可愛いで『美代君』で、直治が格好良いで『直治さん』なんだろうな?」
「知るかよ」
「淳蔵が格好良いで俺が美人で直治が可愛いだと思うんだけど」
「はあ?」
直治が片眉を吊り上げた。
「あー、直治は可愛い担当だよなァ」
「だろ? なんでだろうな」
「ふざけんな俺はどう見たって格好良いだろうが」
もう二十年以上の付き合いになるのに、謎は絶えない。馬鹿馬鹿しい話も絶えない。じゃれあうような喧嘩も、下らない笑いも。美代と直治はムカつく存在にはかわりないのに、こいつらが居ないと始まらない。
「ただいまー」
「雅、遅いぞ」
「女の子は大変なの!」
「あー、はいはい。俺が悪かったよ」
雅が椅子に座る。そのまま勉強を再開せず、肘をついて手の平に顎を乗せ、ぺらぺらと喋り始めた。
「ねー、皆ってお気に入りのおもちゃってあった?」
『ない』
俺達の声が重なった。
「なんだぁ、つまんないの」
「生憎俺達はお前と違って親に可愛がられてなかったんでね」
「そ、そういうことを言いたいんじゃないよ。でも、ごめんなさい」
「で、なんで急にそんな話に?」
「廊下で都さんとすれ違ったからちょっとお喋りしたの。都さんが『そろそろ引っ越し先に持っていくものの整理をしておいた方がいいわよ』って言うから、八歳の誕生日にお母さんが買ってくれた大きなテディベアをどうしようかと思って、ここに置いておいてもいいか都さんに聞いたの。そしたら『いいよ』って言ってくれて、その話の流れで、『都さんはお気に入りのぬいぐるみとかおもちゃってありますか?』って聞いたのよ。そしたら、都さん、ぼーっとし始めて、ぐらぐら揺れ始めたの。私、誰か呼んだ方がいいかと思ったんだんだけど取り敢えず都さんを支えたの。都さん、突然『ぐーちゃん!』って叫んで走って行っちゃって・・・」
「『ぐーちゃん』?」
俺達は顔を見合わせる。誰もわからなかったらしく、首を横に振った。
「淳蔵、ちょっと様子見てこい」
「おう」
俺は雑誌を畳み、都の部屋に行く。部屋の中からどっすんばったんと聞こえてきた。
こんこん。
『ど、どうぞぉ!』
ドアを開ける。中は台風が来たかのように荒れていた。
「おおう、都、また探しものか?」
「そ、そうなの。すごく大切にしていたものなの! なんで今まで忘れていたんだろう・・・」
「手伝おうか?」
「だ、駄目駄目! 恥ずかしいから! 出て行って! 誰にも邪魔しないように伝えて!」
「わかったわかった。夕食はちゃんと食べに来るんだぞ」
「見つかったら行くから!」
こりゃ来ないな。俺は談話室に戻り、事の次第を伝える。
「うーん、千代君に食事を持って行かせるか?」
「あんだけ部屋を荒らしてたら、恥ずかしがってドアを開けるかどうか・・・。いや、ドアが開かねえかもしんねえなァ」
「そんなに荒らしてるのか・・・」
「あのぉ、私、都さんに余計なことしちゃった?」
「いや、前も言っただろ。たまにああいうことするんだって。気にするな」
「うーん。わかった」
「さ、勉強に集中しろ」
「はあい」
その日の夜。俺は不思議な夢を見た。
真っ赤な空、薄い雲、波の音、俺の顔を覗き込む美代と直治。
「お、起きたぞ」
「・・・んあ?」
俺は上体を起こして辺りを見る。左手には、ずっと続く砂地。右手には、ずっと続く赤い海。
「なんだここ・・・?」
「わからない。多分、ジャスミンの仕業だ」
「俺も美代も目覚めたらここに居た」
「あっ!? クソッ、髪に砂がついてやがる!!」
携帯している櫛を取り出し、髪を傷付けないように丁寧に砂を落とす。
「あっ、おい!」
直治が指差した。女学生が俺達に背を向け、海に向かって立っていた。少し距離を取り、顔を見る。
「都だ」
美代が言う。若い頃の都だ。俺が肩にそっと手を置こうとしたが、透けて掴めなかった。都はゆっくりと、滑るように海の上を歩きだす。俺達は顔を見合わせ、都のあとを着いて行く。
「だあッ! クソッ! 俺達は濡れるのかよ!」
靴に赤い海水が入ってきて、靴下をぐしゃぐしゃに濡らした。それでも、本能が都を追いかけろと言っている。海は少しずつ深くなっていった。俺は自分の髪を持つのがつらくなった。
「美代! 直治! ちょっと俺の後ろに来て髪持ってくれ!」
「いいのか?」
「海水なんかで濡らしたら綺麗にするのに死ぬほど時間がかかるだろ! いいから!」
二人が俺の髪を持つ。ざぶ、ざぶ、俺達が海を掻き分ける音と、さざ波の音だけが聞こえる。
「もう一時間くらい歩いてないか?」
「都! みーやーこー! クソッ、やっぱ聞こえねえか・・・」
「あ、おい! 島が見えたぞ!」
濃い緑の木が生えた島が見えた。都はそこに向かっている。そこからまた体感一時間。都は島に上陸した。
「はあっ、はあっ、はあーっ・・・。二時間くらい歩かされたか?」
美代がいつも髪の毛を引っかけている左耳に髪をかけ直す。
「クソッ、腹までビショビショだよ・・・。シャツがピンク色になってやがる・・・」
俺の白いシャツは赤い海水を吸ってピンク色に染まっていた。
「都、俺達のこと見えてるか? みーやーこー、おーい」
直治は都の顔の前で手を振っていた。
「おい」
「あ?」
「泣いてるぞ」
直治の声に、俺と美代が吃驚して都の顔を見る。いつの間にか、都は泣いていた。美代がハンカチを取り出して頬に触れようとするが、それも透けてしまう。
どすん。
小島が揺れた。
「な、なんだ?」
どすん、どすん。
地震ではない。まるで、なにかの足音のように、規則的に揺れ、その揺れは大きくなる。
どすん、どすん。
木々を掻き分け砂地に現れたのは、大きな鷲の頭だった。胴体と四肢は色が違い、大きな翼も生えている。尻尾には緑の大蛇がうねっていた。
『ぐーちゃん!』
都は駆け出し、奇妙な生き物の太腿に抱き着いた。
「グ、グリフォン・・・?」
直治が言うと、都の幻影が消えた。
「こんばんは」
尻尾の蛇が、喋った。
九月下旬、漸く静か過ぎる毎日が戻ってくる。
「なあ、ずっと疑問に思ってたんだけどさ」
勉強中の雅がトイレに行った隙を見計らって、美代が話し始める。
「なんで淳蔵が美人で『淳蔵ちゃん』で、俺が可愛いで『美代君』で、直治が格好良いで『直治さん』なんだろうな?」
「知るかよ」
「淳蔵が格好良いで俺が美人で直治が可愛いだと思うんだけど」
「はあ?」
直治が片眉を吊り上げた。
「あー、直治は可愛い担当だよなァ」
「だろ? なんでだろうな」
「ふざけんな俺はどう見たって格好良いだろうが」
もう二十年以上の付き合いになるのに、謎は絶えない。馬鹿馬鹿しい話も絶えない。じゃれあうような喧嘩も、下らない笑いも。美代と直治はムカつく存在にはかわりないのに、こいつらが居ないと始まらない。
「ただいまー」
「雅、遅いぞ」
「女の子は大変なの!」
「あー、はいはい。俺が悪かったよ」
雅が椅子に座る。そのまま勉強を再開せず、肘をついて手の平に顎を乗せ、ぺらぺらと喋り始めた。
「ねー、皆ってお気に入りのおもちゃってあった?」
『ない』
俺達の声が重なった。
「なんだぁ、つまんないの」
「生憎俺達はお前と違って親に可愛がられてなかったんでね」
「そ、そういうことを言いたいんじゃないよ。でも、ごめんなさい」
「で、なんで急にそんな話に?」
「廊下で都さんとすれ違ったからちょっとお喋りしたの。都さんが『そろそろ引っ越し先に持っていくものの整理をしておいた方がいいわよ』って言うから、八歳の誕生日にお母さんが買ってくれた大きなテディベアをどうしようかと思って、ここに置いておいてもいいか都さんに聞いたの。そしたら『いいよ』って言ってくれて、その話の流れで、『都さんはお気に入りのぬいぐるみとかおもちゃってありますか?』って聞いたのよ。そしたら、都さん、ぼーっとし始めて、ぐらぐら揺れ始めたの。私、誰か呼んだ方がいいかと思ったんだんだけど取り敢えず都さんを支えたの。都さん、突然『ぐーちゃん!』って叫んで走って行っちゃって・・・」
「『ぐーちゃん』?」
俺達は顔を見合わせる。誰もわからなかったらしく、首を横に振った。
「淳蔵、ちょっと様子見てこい」
「おう」
俺は雑誌を畳み、都の部屋に行く。部屋の中からどっすんばったんと聞こえてきた。
こんこん。
『ど、どうぞぉ!』
ドアを開ける。中は台風が来たかのように荒れていた。
「おおう、都、また探しものか?」
「そ、そうなの。すごく大切にしていたものなの! なんで今まで忘れていたんだろう・・・」
「手伝おうか?」
「だ、駄目駄目! 恥ずかしいから! 出て行って! 誰にも邪魔しないように伝えて!」
「わかったわかった。夕食はちゃんと食べに来るんだぞ」
「見つかったら行くから!」
こりゃ来ないな。俺は談話室に戻り、事の次第を伝える。
「うーん、千代君に食事を持って行かせるか?」
「あんだけ部屋を荒らしてたら、恥ずかしがってドアを開けるかどうか・・・。いや、ドアが開かねえかもしんねえなァ」
「そんなに荒らしてるのか・・・」
「あのぉ、私、都さんに余計なことしちゃった?」
「いや、前も言っただろ。たまにああいうことするんだって。気にするな」
「うーん。わかった」
「さ、勉強に集中しろ」
「はあい」
その日の夜。俺は不思議な夢を見た。
真っ赤な空、薄い雲、波の音、俺の顔を覗き込む美代と直治。
「お、起きたぞ」
「・・・んあ?」
俺は上体を起こして辺りを見る。左手には、ずっと続く砂地。右手には、ずっと続く赤い海。
「なんだここ・・・?」
「わからない。多分、ジャスミンの仕業だ」
「俺も美代も目覚めたらここに居た」
「あっ!? クソッ、髪に砂がついてやがる!!」
携帯している櫛を取り出し、髪を傷付けないように丁寧に砂を落とす。
「あっ、おい!」
直治が指差した。女学生が俺達に背を向け、海に向かって立っていた。少し距離を取り、顔を見る。
「都だ」
美代が言う。若い頃の都だ。俺が肩にそっと手を置こうとしたが、透けて掴めなかった。都はゆっくりと、滑るように海の上を歩きだす。俺達は顔を見合わせ、都のあとを着いて行く。
「だあッ! クソッ! 俺達は濡れるのかよ!」
靴に赤い海水が入ってきて、靴下をぐしゃぐしゃに濡らした。それでも、本能が都を追いかけろと言っている。海は少しずつ深くなっていった。俺は自分の髪を持つのがつらくなった。
「美代! 直治! ちょっと俺の後ろに来て髪持ってくれ!」
「いいのか?」
「海水なんかで濡らしたら綺麗にするのに死ぬほど時間がかかるだろ! いいから!」
二人が俺の髪を持つ。ざぶ、ざぶ、俺達が海を掻き分ける音と、さざ波の音だけが聞こえる。
「もう一時間くらい歩いてないか?」
「都! みーやーこー! クソッ、やっぱ聞こえねえか・・・」
「あ、おい! 島が見えたぞ!」
濃い緑の木が生えた島が見えた。都はそこに向かっている。そこからまた体感一時間。都は島に上陸した。
「はあっ、はあっ、はあーっ・・・。二時間くらい歩かされたか?」
美代がいつも髪の毛を引っかけている左耳に髪をかけ直す。
「クソッ、腹までビショビショだよ・・・。シャツがピンク色になってやがる・・・」
俺の白いシャツは赤い海水を吸ってピンク色に染まっていた。
「都、俺達のこと見えてるか? みーやーこー、おーい」
直治は都の顔の前で手を振っていた。
「おい」
「あ?」
「泣いてるぞ」
直治の声に、俺と美代が吃驚して都の顔を見る。いつの間にか、都は泣いていた。美代がハンカチを取り出して頬に触れようとするが、それも透けてしまう。
どすん。
小島が揺れた。
「な、なんだ?」
どすん、どすん。
地震ではない。まるで、なにかの足音のように、規則的に揺れ、その揺れは大きくなる。
どすん、どすん。
木々を掻き分け砂地に現れたのは、大きな鷲の頭だった。胴体と四肢は色が違い、大きな翼も生えている。尻尾には緑の大蛇がうねっていた。
『ぐーちゃん!』
都は駆け出し、奇妙な生き物の太腿に抱き着いた。
「グ、グリフォン・・・?」
直治が言うと、都の幻影が消えた。
「こんばんは」
尻尾の蛇が、喋った。