二百七十六話 初恋の実
文字数 2,599文字
「淳蔵様、お疲れ様です」
俺が雑誌を読みに来る時間を見計らって、椿は談話室の掃除をするようになった。こいつの顔、正面から見ると顎が少し長く見えるだけだが、横から見ると確かにシャクレている。都曰く『美醜は人の主観に寄る』ので、椿自身が自分を美しいと思うのも、俺が美しくないと思うのも、双方間違いは無い。問題はその主観を他者に押し付けるかどうかである。
「お疲れ様」
俺は雑誌を取り出し、読み始める。
「あの、淳蔵様」
「なんだ?」
「昨夜は、なにをしていたんですか?」
昨夜。
「なにって、いつも通り風呂に入って歯を磨いて髪の手入れをして、そのあとは寝たけど」
「その前はなにをしていたんですか?」
「その前? なんか新しい資格でも取るかと思って『ドローン検定』について調べてたな」
「ドローン検定?」
「そう。『無人航空機』ってヤツだな」
「その前は?」
「おい勘弁してくれよ。晩飯だよ晩飯」
「嘘吐いてませんよね?」
「あのなあ、俺がお前に嘘吐いてなんか得すんのか?」
いちいちぴたっと固まってから話すので、会話のテンポが悪いったらありゃしない。
「淳蔵様、今日も素敵な御髪ですね!」
話題転換も下手過ぎる。
「ありがとよ」
俺は昨夜の甘い熱を思い出してしまって、雑誌を少し高く持ち上げて口元を隠した。
『ああッ! すごいっ、みやこっ! 奥までとどいてるぅッ! そ、そこッ! おれの、一番、深いところぉっ! き、きもちいいッ!』
死ぬ程気持ち良くて、一回心臓が止まって、気持ち良過ぎてまた心臓が動き出す程。
「淳蔵様の髪、本当に素敵で憧れます! 普段どんなお手入れをしているんですか?」
「その日の状態によって色々」
「色々! とっても大切にお手入れされているんですね! 私、小さい頃から色素が薄くて、少し癖っ毛だからお手入れがとっても大変なんですよ。周りは『天使みたいな髪だね』って言うんですけど、もう全然嬉しくなくってえ」
「ふうん」
ぴたり。
「憧れちゃいます! 黒い髪! 淳蔵様、今度、髪のお手入れについて色々教えていただけませんか?」
「美代に聞いてくれ」
ぴたり。
「美代さんですか?」
「男と女じゃ髪質が全然違うし、色素の薄さも違うんだから俺は適任じゃないだろ。うちで一番美容に拘ってるのは美代だし、あいつ色素も薄いから話が合うと思うぞ」
ぴたり。
「はい! わかりました! そういえば淳蔵様、資格を取るのが趣味なんですよね?」
「そうだよ」
「どんな資格をお持ちなんですか?」
「色々」
「三大国家資格はお持ちなんですか?」
「持ってない」
「何故ですか?」
「国家試験に合格しても、そのあとに年単位で実務研修だの確認試験だのやらないといけないからだよ」
「何故ですか?」
「何故ですか、って、面倒だからだよ。俺は特定の職業になりたいんじゃなくて、勉強する過程が楽しいからやってるだけだ」
いい加減疲れてきたところで、美代が談話室に来た。
「美代さん、お疲れ様です」
「椿君、お疲れ様」
「掃除が終わったので失礼します」
椿が談話室を出ていく。
「家の中でストーカーされるのは久しぶりだぜ・・・」
「変な言葉なんだけど事実ってのがまたなんとも」
「なあ、なんか直治から聞いてた話というか、そこから想像したイメージとかなり違わないか? 俺だけ?」
「いや、俺も。もっと立ち回りが上手くて厄介なのかと思ってた」
「演技なら大したモンだぜ・・・」
「確かに。アレだ、勉強ができるのと良識を学べるのは全く別の能力だからさ。親がなまじ金持ちで尚且つ甘やかしてしまったのがいけないんだろうな。進学は問題無くても学校生活は上手くいかないタイプだよ。成績は良くても友達は居ない。孤独な人間」
「おー、ズバッと斬ったな」
「親切な白い悪魔が『本当の理由』を、昨晩、教えてくれてな」
美代は昨晩に抑揚を付けて言うと、片眉と口角を吊り上げた。
「椿は裕美子と結託した、と見せかけて、本当は裕美子も利用しようとしているだけだ。新しい環境に一人で居ると心細いから、自分が一番『下』なのはプライドが許さないから、なにかあった時に慰めてもらったり責任をなすり付けたりする相手が欲しいから。椿は培ってきた『悪いことをする嗅覚』で、裕美子が適任者だと判断した。裕美子は究極の日和見主義者だ。リスクやデメリットは一切負わずに美味しい思いをしたいから、行動力のある人間に引っ付いておこぼれを貰おうとする。椿も裕美子も、こういう性格のヤツらは共通の目的が無いと、まとまらない。だから手っ取り早くわかりやすく、この家で一番偉い都を『敵』ってことにして、椿は『一条家を乗っ取ろう』なんて突拍子もないことを言い出して、裕美子がそれに乗っかった。でもな、本当は二人共気付いているんだよ。お互いにお互いを『こいつは便利な相手だ』と思ってることにね。だから二人は嫌悪しながらも仲良くするしかなくなっていく。で、ここからが本番だ。椿が突拍子もないことを言い出した『本当の理由』。それは・・・」
美代は俺を指差した。
「どっかの誰かさんに初めての恋をして、どうしても欲しくなった、と・・・」
そう言って、指を下ろした。
「初恋は実らないって言いますがねえ」
「アレは嘘だぜ。俺の初恋は都だからな」
「ハッ、そいつァ良いこと聞いたぜ。ありがとよ」
「直治がどうこうは迷彩だ。そんなことはどうでもいい。お前、なんでこのことを知らない? 昨夜はなにをしていた?」
「喧嘩してえのか? 今日は買ってやってもいいぜ」
沈黙。
「・・・なんか、昔もこんな感じで殴り合いに発展したような気がする」
破ったのは美代だった。
「やめやめ、十五歳の女の子に振り回されてると思うと悲しくなるぜ」
「喧嘩吹っ掛けて悪かったよ。ごめん」
「いいよ。お前もあの『自称天使』に苛々させられてるんだろ?」
「後ろから抱き着かれたら胸より先に顎が刺さるぞ。昼間でも背後には気を付けろよ」
「言葉のナイフでなめろうにすんなよな・・・」
二人で微妙に脱力していると、談話室に直治が来た。俺達の様子を見ると、ソファーに座るなり腕を組んで背凭れに身体を預け、天井を見てふーっと息を吐き、
「申し訳ないです・・・」
と言った。色々と察したのだろう。俺と美代が苦笑すると、直治は膝に肘をついて頭を抱えた。一番大変なのは接触する機会が多く時間も長い直治だろう。厄介なメイドを雇うたびに言いそうになる『ご愁傷様』と言う言葉を、俺は飲み込んだ。
俺が雑誌を読みに来る時間を見計らって、椿は談話室の掃除をするようになった。こいつの顔、正面から見ると顎が少し長く見えるだけだが、横から見ると確かにシャクレている。都曰く『美醜は人の主観に寄る』ので、椿自身が自分を美しいと思うのも、俺が美しくないと思うのも、双方間違いは無い。問題はその主観を他者に押し付けるかどうかである。
「お疲れ様」
俺は雑誌を取り出し、読み始める。
「あの、淳蔵様」
「なんだ?」
「昨夜は、なにをしていたんですか?」
昨夜。
「なにって、いつも通り風呂に入って歯を磨いて髪の手入れをして、そのあとは寝たけど」
「その前はなにをしていたんですか?」
「その前? なんか新しい資格でも取るかと思って『ドローン検定』について調べてたな」
「ドローン検定?」
「そう。『無人航空機』ってヤツだな」
「その前は?」
「おい勘弁してくれよ。晩飯だよ晩飯」
「嘘吐いてませんよね?」
「あのなあ、俺がお前に嘘吐いてなんか得すんのか?」
いちいちぴたっと固まってから話すので、会話のテンポが悪いったらありゃしない。
「淳蔵様、今日も素敵な御髪ですね!」
話題転換も下手過ぎる。
「ありがとよ」
俺は昨夜の甘い熱を思い出してしまって、雑誌を少し高く持ち上げて口元を隠した。
『ああッ! すごいっ、みやこっ! 奥までとどいてるぅッ! そ、そこッ! おれの、一番、深いところぉっ! き、きもちいいッ!』
死ぬ程気持ち良くて、一回心臓が止まって、気持ち良過ぎてまた心臓が動き出す程。
「淳蔵様の髪、本当に素敵で憧れます! 普段どんなお手入れをしているんですか?」
「その日の状態によって色々」
「色々! とっても大切にお手入れされているんですね! 私、小さい頃から色素が薄くて、少し癖っ毛だからお手入れがとっても大変なんですよ。周りは『天使みたいな髪だね』って言うんですけど、もう全然嬉しくなくってえ」
「ふうん」
ぴたり。
「憧れちゃいます! 黒い髪! 淳蔵様、今度、髪のお手入れについて色々教えていただけませんか?」
「美代に聞いてくれ」
ぴたり。
「美代さんですか?」
「男と女じゃ髪質が全然違うし、色素の薄さも違うんだから俺は適任じゃないだろ。うちで一番美容に拘ってるのは美代だし、あいつ色素も薄いから話が合うと思うぞ」
ぴたり。
「はい! わかりました! そういえば淳蔵様、資格を取るのが趣味なんですよね?」
「そうだよ」
「どんな資格をお持ちなんですか?」
「色々」
「三大国家資格はお持ちなんですか?」
「持ってない」
「何故ですか?」
「国家試験に合格しても、そのあとに年単位で実務研修だの確認試験だのやらないといけないからだよ」
「何故ですか?」
「何故ですか、って、面倒だからだよ。俺は特定の職業になりたいんじゃなくて、勉強する過程が楽しいからやってるだけだ」
いい加減疲れてきたところで、美代が談話室に来た。
「美代さん、お疲れ様です」
「椿君、お疲れ様」
「掃除が終わったので失礼します」
椿が談話室を出ていく。
「家の中でストーカーされるのは久しぶりだぜ・・・」
「変な言葉なんだけど事実ってのがまたなんとも」
「なあ、なんか直治から聞いてた話というか、そこから想像したイメージとかなり違わないか? 俺だけ?」
「いや、俺も。もっと立ち回りが上手くて厄介なのかと思ってた」
「演技なら大したモンだぜ・・・」
「確かに。アレだ、勉強ができるのと良識を学べるのは全く別の能力だからさ。親がなまじ金持ちで尚且つ甘やかしてしまったのがいけないんだろうな。進学は問題無くても学校生活は上手くいかないタイプだよ。成績は良くても友達は居ない。孤独な人間」
「おー、ズバッと斬ったな」
「親切な白い悪魔が『本当の理由』を、昨晩、教えてくれてな」
美代は昨晩に抑揚を付けて言うと、片眉と口角を吊り上げた。
「椿は裕美子と結託した、と見せかけて、本当は裕美子も利用しようとしているだけだ。新しい環境に一人で居ると心細いから、自分が一番『下』なのはプライドが許さないから、なにかあった時に慰めてもらったり責任をなすり付けたりする相手が欲しいから。椿は培ってきた『悪いことをする嗅覚』で、裕美子が適任者だと判断した。裕美子は究極の日和見主義者だ。リスクやデメリットは一切負わずに美味しい思いをしたいから、行動力のある人間に引っ付いておこぼれを貰おうとする。椿も裕美子も、こういう性格のヤツらは共通の目的が無いと、まとまらない。だから手っ取り早くわかりやすく、この家で一番偉い都を『敵』ってことにして、椿は『一条家を乗っ取ろう』なんて突拍子もないことを言い出して、裕美子がそれに乗っかった。でもな、本当は二人共気付いているんだよ。お互いにお互いを『こいつは便利な相手だ』と思ってることにね。だから二人は嫌悪しながらも仲良くするしかなくなっていく。で、ここからが本番だ。椿が突拍子もないことを言い出した『本当の理由』。それは・・・」
美代は俺を指差した。
「どっかの誰かさんに初めての恋をして、どうしても欲しくなった、と・・・」
そう言って、指を下ろした。
「初恋は実らないって言いますがねえ」
「アレは嘘だぜ。俺の初恋は都だからな」
「ハッ、そいつァ良いこと聞いたぜ。ありがとよ」
「直治がどうこうは迷彩だ。そんなことはどうでもいい。お前、なんでこのことを知らない? 昨夜はなにをしていた?」
「喧嘩してえのか? 今日は買ってやってもいいぜ」
沈黙。
「・・・なんか、昔もこんな感じで殴り合いに発展したような気がする」
破ったのは美代だった。
「やめやめ、十五歳の女の子に振り回されてると思うと悲しくなるぜ」
「喧嘩吹っ掛けて悪かったよ。ごめん」
「いいよ。お前もあの『自称天使』に苛々させられてるんだろ?」
「後ろから抱き着かれたら胸より先に顎が刺さるぞ。昼間でも背後には気を付けろよ」
「言葉のナイフでなめろうにすんなよな・・・」
二人で微妙に脱力していると、談話室に直治が来た。俺達の様子を見ると、ソファーに座るなり腕を組んで背凭れに身体を預け、天井を見てふーっと息を吐き、
「申し訳ないです・・・」
と言った。色々と察したのだろう。俺と美代が苦笑すると、直治は膝に肘をついて頭を抱えた。一番大変なのは接触する機会が多く時間も長い直治だろう。厄介なメイドを雇うたびに言いそうになる『ご愁傷様』と言う言葉を、俺は飲み込んだ。