百八十六話 苛つかせるな

文字数 2,908文字

談話室に直治が来た。


「おー、直治。メイド達どうよ」

「順調だ。かえって怖い。美波は淳蔵に惚れてるぞ」

「また俺かよ!」

「兄貴はおっさんとメイドの受けが良いからな」

「良かったな。休憩時間になると千代に淳蔵のことばかり聞いているらしいぞ」

「ったく鬱陶しい」

「で、じゅえり君は?」

「・・・都がちょっと、」


そこまで言って、首を捻る。


「じゅえりが『両親からの電話に出てほしい』と言って泣きついてきたから、仕方なく電話に出た。『給料の前借りをしたい』と言い出した」

「えっ」

「うわっ」

「試用期間中でまだ正社員ではないので給料の前借りはできないし、正社員になったとしても前借りについては社長に相談しなくてはいけないと伝えた。そうしたら『社長にかわれ』と言い出した。断ったら『直接会いに行って話をする』と喚き始めた。そんなことしたらじゅえりをクビにするし、警察を呼ぶと答えた。で・・・」


ふーっ、と直治は息を吐いた。


「いつの間にか都が後ろに居て、俺が気付いた瞬間、電話を取り上げられた。そのままじゅえりの手を引いて事務室を出ていっちまった。追いかけようとしたんだが、何故かドアが開かなくて、ジャスミンが馬鹿にしたように『わん!』と一鳴きしやがった」

「ンの馬鹿犬」

「それで?」

「三時間も閉じ込められたよ。携帯もパソコンも外部に繋がらない。窓も開かねえ。仕事もできねえ。都がじゅえりを連れて戻ってきて、やっと解放された。じゅえりはグズグズに泣いていて、都は何故か牛乳塗れだった。都は俺に携帯を返したあと、『じゅえりさんは今日は休ませなさい』と言って事務室を出ていった。じゅえりは口止めされていてなにも喋らない。以上」

「また厄介事かよ」

「クソが・・・」


二人分の足音が談話室に近付いてくる。


「やっほー」


都とじゅえりだ。都はいつも座る淳蔵の隣ではなく、一番奥の上座に座る。じゅえりは都の隣に座った。俺は思わず苛ついてしまった。淳蔵も直治も怪訝そうな顔をする。じゅえりは俺達の視線を受けて、居心地が悪そうにしていた。都が一枚の紙とペンを取り出し、微笑む。


「ねえ、『名前』。思い付いたものでいいからどんどん言って」

『え?』


三人の声が重なる。


「名前よ、名前。太郎とか花子とかあるでしょ?」

「あー、菫、とか?」


都が紙に『すみれ』とひらがなで書く。


「翠」


『みどり』と書く。


「柚」


『ゆず』と書く。俺達が思い付いた名前を言うと、都はどんどん紙に書いていった。淳蔵は他人の顔と名前が一致せず、覚えられない悪癖があるので、捻り出すのに苦労していた。


「んー、こんなものかしら」

「つ、疲れた・・・。なんの遊びなんだよ?」

「さあね?」


都がじゅえりに紙を渡す。じゅえりは真剣に紙を見つめた。


「か、え、で」


一言一言、噛み締めるように言う。


「花言葉は、『調和』、『美しい変化』、『大切な思い出』、『遠慮』、『約束』ね」

「美しい変化」


じゅえりが、何故かなにかから救われたような目で都を見つめた。都は慈愛の視線で見つめ返す。


「決まりね。じゃ、仕事に戻って」

「都様! ありがとうございます!」

「勘違いだけはしないでね」

「はい! 失礼します!」


深く深くお辞儀をして、じゅえりは談話室を出ていった。


「都様。花言葉に明るいのは乙女として大変素晴らしいことですが、今のやりとりは一体なんなんです?」


淳蔵は都に冗談を言う時、ぐいぐい強めにいく。俺や直治には逆立ちしてもできないことなのでちょっと悔しい。


「新しい名前」

「んん?」

「とんでもない名前でしょ、あの子達。だから改名の面倒を見てあげることにしたの」

「なんでまた・・・。ジャスミンか?」

「ううん、私の判断。この前、ちょっとお喋りして、色々とね」


ダンッ!

直治が拳でテーブルを叩いた。俺も淳蔵も、都も吃驚している。


「都」

「は、はい」

「三時間俺を部屋に閉じ込めたことを『ちょっと』と言ったのは、許そう」

「はい・・・」

「あんな、モンに、情けを、かけて、俺を、苛つかせるなッ!!」


ドゴンッ!!

直治はテーブルを蹴り上げて、荒い足取りで談話室を出ていった。


「やっべー・・・」

「『やっべー』じゃないですよ、都様。直治さん、目ェぎらぎらだったじゃないですか」

「じゅえり君となにを話したの?」

「じゅえりさんのご両親から、お給料の前借りをしたいって電話がかかってきたって話、直治に聞いた?」

「さっき聞いた」


都は溜息を吐いた。


「『一』言うと『十』返ってくるから、ちょんと突いたらぺらぺら喋るのなんの。でね、電話の対応をしながらじゅえりさんをキッチンに連れていって、コップに牛乳を注いで持たせて、私の服にかけさせたのよ。無理やりね」

「は?」

「また自分をないがしろにして・・・」

「前借りはできないけれど、どうしてもと言うのなら、働いた分を日給に換算してお支払いします。そのかわりクビです。って伝えたの。大喜びしてたわ。急に態度をかえて、『ありがとうございます。流石、一条家です』だって。で、喜んでいるところ申し訳ないのですけれど、じゅえりさんは『うっかり』で私に牛乳をかけて、私の洋服と下着を汚しました。全て一点物ですので、クリーニング代のお支払いではなく、弁償していただきます。と伝えたの。そしたら急に静かになってね。金額を伝えたらまた大騒ぎよ」


都は肩を竦めた。


「一括でのお支払い以外認めませんが、じゅえりさんが一条家で働いて少しずつ返すと言うのならそちらでも構いません。じゅえりさんと相談して決めてください、って言ってじゅえりさんに電話を渡したの。あっちはスピーカーにしなくても聞こえる音量で喋ってるから内容が筒抜けなのよね。『このクソガキ! 返済するまで死んでも帰ってくるな! もし死んで帰ってきたら小便かけてやる!』だってさ。じゅえりさん、泣き崩れちゃって。泣き止ませたあとに少し、あ、いや、たっぷりと話をしたのよ」


小学四年生の秋に、初経がきた。お風呂で身体を洗っていたら、父親が『アソコの洗い方教えたる!』と言ってお風呂に入ってきて、膣に指を入れられて激しい痛みを感じた。母親に相談したけれど、『パパがそんなことするわけないでしょ。全部あんたの被害妄想。血が出てるのはあんたが生理だから』と言われて、目が、覚めた。兄のじゅきあも、弟も妹も、あの男とあの女の血を受け継いでいるのかと思うと吐き気がして、愛情が消えて無くなった。全てを捨てて逃げたい。どこか遠くへ。でも、逃げ出したあと、もし追いつかれたら、なにをされるのか想像しただけで身体が震えて、走れなかったんです。


「・・・私、助けてあげるって言ったの」


俺は頭を抱えた。


「その話、直治にした?」

「今からする」

「駄目。俺と淳蔵も同席させないと駄目。直治は筋肉の塊だから、ブチギレたら二人掛かりじゃないと敵わないよ」

「・・・ごめんね」


淳蔵が溜息を吐いた。まだ怒っているであろう直治が居る事務室に行く。話を聞いた直治は、顔を真っ赤にして都の胸倉を掴み上げた。


「どうしてッ! いつもッ! そうッ! 俺を苛つかせるんだッ!」


二人掛かりでなんとか引き剥がす。


「・・・ごめんね」


直治は都を睨みつけたまま、なにも言わなかった。
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