百十五話 エノク語

文字数 2,179文字

冬になった。早朝、外は薄暗い。


「お、雪か」


この辺りでは珍しい雪だ。一年に一度降るかどうか。昨日の天気予報では雪だなんて言っていなかった気がする。俺はランニングのため、館の外に出た。コートを着た都が噴水の縁に腰掛けて空を見上げていた。


「こら、寒いのになにしてる」

「あ、直治。おはよう。珍しく雪が降ってるから見てた」


俺は都の前に跪き、手をとった。冷たい。ぎゅっと握りしめたり擦ったりして温めてやる。


「ありがとう。直治は優しいね」

「都にだけだ」


都が立ち上がったので、俺も立ち上がる。抱き着いてきたので抱きしめ返した。


「一緒に歩くか?」

「うん」


手を繋ぎ、二人で歩き出す。お互いの息が白い。


「今日、白木が来るでしょ」

「来るな」

「愛想良くしなくていいわよ。普通のお客様じゃないんだし」


元よりそのつもり、というのは黙っておいた。


「都」

「ん?」

「キスしないか」


都が立ち止まる。俺達は互いの身体を撫でながら唇で啄み合い、舌を絡めた。

その日、白木が本格的に動き始めた。都と白木が接触することは無かったが、白木は接触を望んでいた。千代が、都は仕事で忙しいこと、翌日の朝から昼の間に時間をとって白木の話を聞くつもりであることを伝えると、白木は素直に了承した。そのあと、白木は千代に内部の情報を聞き出そうとした。二階と三階は家族と従業員の居住なので立ち入り禁止であること、一階にあるキッチンは許可をとれば使えること、書斎の本は館外への持ち出しは禁止だが自由に読んでいいこと、なにか問題が起こったら一階にある事務室に居る俺に連絡することなど、千代は答える。その他のことは都の許可がないと答えられないと言うと、これも素直に了承して部屋に帰っていった。

客の居る部屋に鼠を出すわけにはいかないので、完璧な監視は諦めて、窓の外から淳蔵の鴉で覗く。白木は部屋を調べている。どうやら盗聴器や隠しカメラがないか調べているらしい。それらが無いことを確認すると、深く息を吐いてネクタイを緩め、その後は持ってきた本を読んで過ごしていた。

翌朝。


「おはようございます。素敵な夢は見られましたか?」


談話室のソファーに、いつも通りの配置で座る。


「穏やかで不思議な夢でした」

「あら、素敵な夢だったんですね」

「ええ。私はもうじき定年です。その定年後の夢でしたよ。私は亡き両親が残してくれた家に住んでいるんですけれど、それを減築して、住み心地の良い小さな家にするんです。その分、庭を広くして、池を掘って、飼ってみたかった錦鯉を三匹飼う。私が池を覗き込んでいると、この間話した妙な男の顔が水面に映りました」

「白い布の男ですか?」

「そうです。男は、神秘的で綺麗な男でした。艶のある長い髪は白く、凛々しい眉毛も白い。涼しい目元に筋の通った鼻、薄い唇。だというのに男だとはっきりわかる彫りをしている。肌は透き通るように白く、そちらの淳蔵さんよりも背は高かった。程良く筋肉がついていて、まるで彫刻が動いているようでしたよ。私が水面の男に驚いて隣を見ると、男は人懐っこくにっこり笑って手を振りました。私は何故か、男に茶を出そうと思いましてね。男を家の中に招き入れて、茶を淹れて出しました。男は綺麗な所作で茶を飲むと、ゆっくりと二度、頷いていました」


白木はそこまで言うと、呼吸を整えた。


「いやあ、お恥ずかしい話なんですが、私は執筆が趣味でね、定年後は小説家を目指そうと思っているんですよ。そのために、庭が見える部屋で、ああでもないこうでもないと言いながら小説を書いていました。すると、男がそれを後ろから興味深そうに覗き込んでくるんです。私は特に気にせず執筆を続けていました。出来上がった短編小説を男に読ませると、男は、以前お話したように、詩を歌うようになにか言いました。これが全く聞き取れないのです。私が首を横に振って、原稿用紙と万年筆を渡すと、男はそれを受け取って紙にこう書きました」


白木はスーツのポケットから小さな手帳とペンを取り出し、謎の言語を書き綴る。


「見たことのない言葉だったので、何度もなぞって覚えました」

「エノク語ですね」

「は、エノク語?」

「天使の言語ですよ」


都が言う。白木はぽかんと呆けた。


「『SEE YOU LATER』、ですね」

「『また会おう』・・・、ですか」


都が頷くと、白木の視線が鋭くなった。


「何故、エノク語だと?」

「夢を操る魔女ですから、商売相手の天使や悪魔の言語くらい嗜んでおりますよ」

「冗談・・・ですかな・・・?」

「どうかしら? 調べてみれば冗談かどうかわかるのでは?」


白木は腕を組み、深く息を吐いたあと、にこりと笑った。


「貴方を知れば知るほど、貴方に対する興味がわきます」

「好奇心は猫を殺しますよ」

「ハハッ、でしょうね」


白木は、ぱん、と膝を叩いた。


「また来ます」

「またのお越しをお待ちしております」


チェックアウトし、帰って行く。

かちゃかちゃ。

ジャスミンがやってきた。


「都」

「なあに?」


俺は口してはいけないのかもしれない疑問を、口にした。


「ジャスミンは、何者なんだ・・・?」


淳蔵も美代も焦った表情をする。


「犬でしょ?」


ジャスミンは俺の前に座り、きゅるんと首を傾げた。


「・・・そうだったな」


俺はジャスミンの頭を撫でてやった。ジャスミンは尻尾をブンブン振って俺の顔をぺろぺろ舐めると、どこかに行ってしまった。
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