二百七十話 透明人間
文字数 1,742文字
昼食で英気を養い、少女の家へ行く。
「どう見ても廃屋だな」
玄関の引き戸は薄くだが開きっぱなし。窓が割れていて、中から台所が見える。家の横に面した土地も、庭なのか畑なのかわからない。ただ、人が手入れしていた痕跡はある。隣家との距離は遠く、ぽつん、と孤立している。
「俺が入る。外で待ってろ」
「はい」
引き戸に手をかける。建て付けが悪く、ガタガタギシギシと音が鳴った。空気が澱んでいて、埃の嫌なにおいがする。玄関に靴は無い。俺は土足で中に入った。台所と居間は一続きになっている。家具は一つも無い。どっかの馬鹿が肝試しでもしたのか、スプレー塗料の落書きがある。俺は少女が居るはずの部屋の障子にそっと手をかけ、ゆっくり開けるか一気に開けるか少し考えて、外す勢いで一気に開けた。
そこは、十七歳の少女の自室と呼ぶには、狭過ぎる部屋だった。
部屋というより納戸だろう。小さな窓は、たった二畳の床すら満足に照らせていない。昼過ぎのどこかぼやけた陽の光を浴びる、学生服を着た痩せた少女。『透明』ではない。少女は俺と目が合うとびくりと身を竦ませ、慌てて立ち上がった。
「おい、お前、」
俺は自分の目を疑った。少女が壁を『擦り抜けて』家の外に出ていったからだ。
「桜子っ!! 外に出たっ!!」
俺は声を上げた。小さな窓を開けて鴉で追跡しようとしたが、窓も建て付けが悪くて開けるのに少し手間取った。一羽出し、上空に飛ばす。桜子にも少女は見えているらしく、追いかけている。鴉はそのまま桜子に追従させ、俺は家の外に出て桜子を追いかけた。
と、少女が突然立ち止まった。
側溝の蓋、『グレーチング』に透ける手を突っ込んでいる。少女が手を引き抜くと、数日前の雨が流れ込んで作ったのであろう汚泥が握られていた。桜子は慌てて立ち止まろうとした。少女は桜子の胸元目掛けて泥を投げ、桜子はそれを躱せず、ぐっちょりと胸元が汚れてしまった。少女はそれを指差し、笑う。声は無い。俺は桜子の肩に乗る。桜子は呆然としていた。少女はそんな桜子を見て、下品に手を叩いて笑い始める。
『桜子、怪我してないか?』
「・・・ぎが、」
桜子はぷるぷると震え出した。
「し、下着が、」
黒い瞳が急激に青にかわり、桜子は都に『綺麗だ』と評判の顔を怒りで歪める。
「都、様に、頂いた、大切な、下着が、」
少女も桜子を見て『まずい』と思ったのか、笑うのをやめる。
「みやござまにいだだいだ、だいぜづな、じだぎがぁッ!!」
バチバチバチバチッ!!
「うわッ!?」
走って追いかけていた俺は、吃驚して一瞬立ち止まってしまった。桜子の肩に乗せていた鴉は電撃で落ちて動けない。桜子は怯える少女にずんずんと近付き、迷いもせずにフルスイングのビンタを叩き込んだ。物凄い破裂音。少女は地面に倒れ込む。漸く追いついた俺は興奮した獣のような息を繰り返す桜子の肩を掴んで、少女から引き剥がした。
「お、おい、冷静になれって」
桜子はギロリと俺を睨む。
「冷静です」
「手加減し、」
「しました」
「こいつからも話を、」
「今から聞きます」
「お、おーう・・・」
ゆっくりと、俺は桜子の肩から手を放した。少女は倒れたまま、悔しそうな顔をして、大粒の涙を流している。俺はどうするべきか色々と考えたが、
『正体は十七の小娘です』
『敏い子ですから』
『人間と同じように扱えば良いでしょう』
とアンナが言っていたことを考慮して、少女の前にしゃがみ込み、手を差し出した。
「立てるか?」
少女は俺の手を見ると、ぴたりと泣き止んだ。どこか呆けたような、驚いているような顔をしている。そして泥だらけの手を伸ばし、自分の手に泥が付いていることを思い出したのか、手を引っ込めた。俺は手を差し出し続けた。少女は一人で立ち上がった。
「最近、町で悪さしてるのはお前か?」
俺の問いに、少女は頷く。
「どうして悪さをしたんだ?」
「淳蔵様」
「落ち着け桜子」
俺は腕を組み、桜子を見た。
「経緯も調べずに結果だけ持って帰るのは『解決した』とは言えないだろ」
「・・・はい」
桜子は渋々と言った様子で頷いた。
「さて、」
俺は少女に向き直る。
「どうして悪さをしたんだ?」
再び問う。少女は下を向いて目を閉じたあと、俺を見上げ、頷き、家があった方向へと歩き出した。俺と桜子は少女のあとを着いて行った。
「どう見ても廃屋だな」
玄関の引き戸は薄くだが開きっぱなし。窓が割れていて、中から台所が見える。家の横に面した土地も、庭なのか畑なのかわからない。ただ、人が手入れしていた痕跡はある。隣家との距離は遠く、ぽつん、と孤立している。
「俺が入る。外で待ってろ」
「はい」
引き戸に手をかける。建て付けが悪く、ガタガタギシギシと音が鳴った。空気が澱んでいて、埃の嫌なにおいがする。玄関に靴は無い。俺は土足で中に入った。台所と居間は一続きになっている。家具は一つも無い。どっかの馬鹿が肝試しでもしたのか、スプレー塗料の落書きがある。俺は少女が居るはずの部屋の障子にそっと手をかけ、ゆっくり開けるか一気に開けるか少し考えて、外す勢いで一気に開けた。
そこは、十七歳の少女の自室と呼ぶには、狭過ぎる部屋だった。
部屋というより納戸だろう。小さな窓は、たった二畳の床すら満足に照らせていない。昼過ぎのどこかぼやけた陽の光を浴びる、学生服を着た痩せた少女。『透明』ではない。少女は俺と目が合うとびくりと身を竦ませ、慌てて立ち上がった。
「おい、お前、」
俺は自分の目を疑った。少女が壁を『擦り抜けて』家の外に出ていったからだ。
「桜子っ!! 外に出たっ!!」
俺は声を上げた。小さな窓を開けて鴉で追跡しようとしたが、窓も建て付けが悪くて開けるのに少し手間取った。一羽出し、上空に飛ばす。桜子にも少女は見えているらしく、追いかけている。鴉はそのまま桜子に追従させ、俺は家の外に出て桜子を追いかけた。
と、少女が突然立ち止まった。
側溝の蓋、『グレーチング』に透ける手を突っ込んでいる。少女が手を引き抜くと、数日前の雨が流れ込んで作ったのであろう汚泥が握られていた。桜子は慌てて立ち止まろうとした。少女は桜子の胸元目掛けて泥を投げ、桜子はそれを躱せず、ぐっちょりと胸元が汚れてしまった。少女はそれを指差し、笑う。声は無い。俺は桜子の肩に乗る。桜子は呆然としていた。少女はそんな桜子を見て、下品に手を叩いて笑い始める。
『桜子、怪我してないか?』
「・・・ぎが、」
桜子はぷるぷると震え出した。
「し、下着が、」
黒い瞳が急激に青にかわり、桜子は都に『綺麗だ』と評判の顔を怒りで歪める。
「都、様に、頂いた、大切な、下着が、」
少女も桜子を見て『まずい』と思ったのか、笑うのをやめる。
「みやござまにいだだいだ、だいぜづな、じだぎがぁッ!!」
バチバチバチバチッ!!
「うわッ!?」
走って追いかけていた俺は、吃驚して一瞬立ち止まってしまった。桜子の肩に乗せていた鴉は電撃で落ちて動けない。桜子は怯える少女にずんずんと近付き、迷いもせずにフルスイングのビンタを叩き込んだ。物凄い破裂音。少女は地面に倒れ込む。漸く追いついた俺は興奮した獣のような息を繰り返す桜子の肩を掴んで、少女から引き剥がした。
「お、おい、冷静になれって」
桜子はギロリと俺を睨む。
「冷静です」
「手加減し、」
「しました」
「こいつからも話を、」
「今から聞きます」
「お、おーう・・・」
ゆっくりと、俺は桜子の肩から手を放した。少女は倒れたまま、悔しそうな顔をして、大粒の涙を流している。俺はどうするべきか色々と考えたが、
『正体は十七の小娘です』
『敏い子ですから』
『人間と同じように扱えば良いでしょう』
とアンナが言っていたことを考慮して、少女の前にしゃがみ込み、手を差し出した。
「立てるか?」
少女は俺の手を見ると、ぴたりと泣き止んだ。どこか呆けたような、驚いているような顔をしている。そして泥だらけの手を伸ばし、自分の手に泥が付いていることを思い出したのか、手を引っ込めた。俺は手を差し出し続けた。少女は一人で立ち上がった。
「最近、町で悪さしてるのはお前か?」
俺の問いに、少女は頷く。
「どうして悪さをしたんだ?」
「淳蔵様」
「落ち着け桜子」
俺は腕を組み、桜子を見た。
「経緯も調べずに結果だけ持って帰るのは『解決した』とは言えないだろ」
「・・・はい」
桜子は渋々と言った様子で頷いた。
「さて、」
俺は少女に向き直る。
「どうして悪さをしたんだ?」
再び問う。少女は下を向いて目を閉じたあと、俺を見上げ、頷き、家があった方向へと歩き出した。俺と桜子は少女のあとを着いて行った。