二百話 空が割れている
文字数 2,419文字
眠りから覚めたのは、誰かに身体をがくがくと揺らされたせいだった。
「おわッ、なん、」
ジャスミンが、『白い男』が何某かの激しい感情で顔を歪めながら、俺の胸元を掴んで揺さぶっている。俺の目が覚めたのを確認すると、強引にベッドから引き摺り下ろして部屋から連れ出し、転げ落ちそうになるのも構わず階段を降りていく。俺はバランスを取るので必死だった。ジャスミンが羽虫を払い除けるように手を振ると、玄関の大きなドアが音を立てずに素早く開く。俺は靴を履くのも許されないまま外に連れ出された。
「あっ」
庭のベンチに都が座って空を見上げている。ジャスミンは俺を放り投げると、ぎりぎりと音が鳴る程歯軋りをしながら俺を睨み付け、都を指差した。俺は困惑しながら、都に近付いた。
都の瞳は、七色に光っていた。
まるで万華鏡のようにきらきらと色をかえ、山の星空の輝きを双眸に落としている。瞬き一つせず、ゆっくりと腕を上げて空を指差すと、都は薄く口を開いた。
「淳蔵」
抑揚の無い声。都の瞳に心を奪われて、俺は声を発することができない。
「空が割れてる」
都の指差した方を見ると、夜空に小さな穴が開いてヒビが入っていた。ステンドグラスのように神秘的で、砂時計のように光の粒が落ちていく。
「私が割ったの」
俺は都の方へ振り返った。都は、虚ろの中にほんの少しだけ期待を滲ませた顔をしていた。
「あそこからなら、『外』に出られる」
「だ・・・、」
駄目だ、そんなこと。
「駄目だッ!!」
今まで生きてきた中で、一番、大きな声が出た。都は吃驚して瞬くと、瞳の色が元に戻った。俺は都の手を掴んだ。
「い、痛い」
苛立ちがわいてくる。手を無理やり引っ張って立たせると、肩を掴んで顔を覗き込んだ。
「ずっとここに居るんだよッ!!」
「あ、淳蔵、」
「俺と、ずっと一緒に、ここで・・・!」
俺はそこまで言って、言葉が出なくなった。
「ごめんなさい」
都は、今にも泣きだしそうな顔で、唇だけは笑みの形を描いて、言った。俺は力いっぱい都を抱きしめた。都もこれ以上ない程、強く抱きしめ返してくる。
「疲れちゃった・・・。頭、痛い・・・」
「薬飲んで、俺の部屋で一緒に寝よう」
そっと、身体を放す。都は疲労と頭痛からか顔が赤くなっていた。手を繋いで歩き、部屋に戻る。都に薬を飲ませたあと、俺は風呂場で軽く足を洗う。先にベッドに寝転んでいた都は、小さく丸まって寝息を立てていた。俺は身体を添わせる形で抱きしめて、目を閉じた。
翌朝。
腕の中の都が起き上がる感覚で目が覚めた。
「どこ行くんだよ・・・」
「ジャスミンの朝ご飯」
「・・・戻って来いよ?」
「はあい」
都は俺の頬にキスを落とし、部屋を出ていった。暫くすると戻ってきて、俺が腕を広げて出迎えると、嬉しそうに笑って腕の中におさまった。
「んー、俺の可愛いふわふわちゃん・・・」
「馬鹿・・・」
都ははにかんで、俺の胸板に顔を押し付けてくる。朝食までの短い間だが、満ち足りた時間を過ごした。
昼過ぎ、談話室。
俺は話すかどうか迷ったあと、結局話すことに決め、雑誌を読まず美代と直治を待った。二人が揃ってから、話を始める。
「だ、脱走!?」
美代が声を荒げる。
「落ち着け。悪いがこう表現するしかない。ジャスミンの作った世界に穴を開けるだなんてな」
美代は苛立ち、直治は拳を強く握りしめた。
「穴はどうなった?」
直治が問う。
「確認したけど、無くなってたよ。直治、お前から千代に言っとけ」
「・・・わかった」
「それから、」
美代と直治が怒るのをわかっていながら、俺は言った。
「都にこのことは聞くな」
案の定、二人は俺を睨み付ける。美代は狂犬のように牙を剥いていた。俺は首を横に振った。
「全てを知る必要は無いだろ」
「知りたいと思うのは俺の勝手だ」
「ご尤も。だから『命令』じゃなくて『忠告』だよ」
「テメェに命令される筋合いはねえよッ」
美代が語気を強める。
「落ち着け、美代」
直治が制した。
とんとん。
俺達は音の主を見る。
「ごきげんよう」
都が談話室の入り口で腕を組んで背を凭れさせていた。爪先で床を叩いて出した音らしく、再び、とんとん、と靴が音を鳴らす。
「お話よろしいかしら?」
返答を待たず談話室の中に入り、いつも座る俺の隣ではなく、一番奥のソファーに座る。
「都、脱走しようとしたって、」
「そんなことしないよ」
「じゃあなんで、」
「教えない」
美代の言葉を遮って都が言う。美代は納得いかない様子だったが、それでも口を閉じた。俺は昨夜の出来事を許可も無く勝手に話したことで少しバツが悪くなったが、都はそんなことは気にしていない様子で、片手で口元を覆い、その下になにか笑いを隠していた。
「ねえ、来週、新しいメイドが来るね」
直治が一瞬視線を逸らしたのを、俺は見逃さなかった。
「いつも通りに、ね? あとは適当に泳がせておいてね」
都がソファーから立ち上がる。
「都、なに隠してんのさ?」
「悪巧みを教える馬鹿は居ないでしょ」
そう言って、談話室を去っていった。
「・・・直治」
「口止めされております」
「・・・はあ。そーですか」
かちゃかちゃ、と足音を立てて『犬の』ジャスミンが現れ、尻尾をぶんぶん振りながらその場でくるくる回ったあと、挑発するように美代の目の前に座った。というか挑発しているのだろう。
「ハハッ、ジャスミン。こういうことすると都に怒られるからやらないんだけど、初めて使わせてもらうわ」
美代は中指を立てた。にっこり笑顔で。それまでニパニパと笑っていたジャスミンは上目遣いになって『ぶぅん』と鼻を鳴らしたあと立ち上がり、大きな身体をゆさゆさと揺らしながら談話室を出ていった。
「ムカつく馬鹿犬だ」
直治が言う。
犬。
犬ねえ。
昨日、俺を起こしに来た時は、犬の姿を保つ余裕すら無かったということだろうか。都は空を割ってなにがしたかったんだろう。もし、空の穴からなんらかの方法で出ていったとしても、俺は鴉になって追いかける。そんな想像をして、馬鹿馬鹿しくなって、やめた。
「おわッ、なん、」
ジャスミンが、『白い男』が何某かの激しい感情で顔を歪めながら、俺の胸元を掴んで揺さぶっている。俺の目が覚めたのを確認すると、強引にベッドから引き摺り下ろして部屋から連れ出し、転げ落ちそうになるのも構わず階段を降りていく。俺はバランスを取るので必死だった。ジャスミンが羽虫を払い除けるように手を振ると、玄関の大きなドアが音を立てずに素早く開く。俺は靴を履くのも許されないまま外に連れ出された。
「あっ」
庭のベンチに都が座って空を見上げている。ジャスミンは俺を放り投げると、ぎりぎりと音が鳴る程歯軋りをしながら俺を睨み付け、都を指差した。俺は困惑しながら、都に近付いた。
都の瞳は、七色に光っていた。
まるで万華鏡のようにきらきらと色をかえ、山の星空の輝きを双眸に落としている。瞬き一つせず、ゆっくりと腕を上げて空を指差すと、都は薄く口を開いた。
「淳蔵」
抑揚の無い声。都の瞳に心を奪われて、俺は声を発することができない。
「空が割れてる」
都の指差した方を見ると、夜空に小さな穴が開いてヒビが入っていた。ステンドグラスのように神秘的で、砂時計のように光の粒が落ちていく。
「私が割ったの」
俺は都の方へ振り返った。都は、虚ろの中にほんの少しだけ期待を滲ませた顔をしていた。
「あそこからなら、『外』に出られる」
「だ・・・、」
駄目だ、そんなこと。
「駄目だッ!!」
今まで生きてきた中で、一番、大きな声が出た。都は吃驚して瞬くと、瞳の色が元に戻った。俺は都の手を掴んだ。
「い、痛い」
苛立ちがわいてくる。手を無理やり引っ張って立たせると、肩を掴んで顔を覗き込んだ。
「ずっとここに居るんだよッ!!」
「あ、淳蔵、」
「俺と、ずっと一緒に、ここで・・・!」
俺はそこまで言って、言葉が出なくなった。
「ごめんなさい」
都は、今にも泣きだしそうな顔で、唇だけは笑みの形を描いて、言った。俺は力いっぱい都を抱きしめた。都もこれ以上ない程、強く抱きしめ返してくる。
「疲れちゃった・・・。頭、痛い・・・」
「薬飲んで、俺の部屋で一緒に寝よう」
そっと、身体を放す。都は疲労と頭痛からか顔が赤くなっていた。手を繋いで歩き、部屋に戻る。都に薬を飲ませたあと、俺は風呂場で軽く足を洗う。先にベッドに寝転んでいた都は、小さく丸まって寝息を立てていた。俺は身体を添わせる形で抱きしめて、目を閉じた。
翌朝。
腕の中の都が起き上がる感覚で目が覚めた。
「どこ行くんだよ・・・」
「ジャスミンの朝ご飯」
「・・・戻って来いよ?」
「はあい」
都は俺の頬にキスを落とし、部屋を出ていった。暫くすると戻ってきて、俺が腕を広げて出迎えると、嬉しそうに笑って腕の中におさまった。
「んー、俺の可愛いふわふわちゃん・・・」
「馬鹿・・・」
都ははにかんで、俺の胸板に顔を押し付けてくる。朝食までの短い間だが、満ち足りた時間を過ごした。
昼過ぎ、談話室。
俺は話すかどうか迷ったあと、結局話すことに決め、雑誌を読まず美代と直治を待った。二人が揃ってから、話を始める。
「だ、脱走!?」
美代が声を荒げる。
「落ち着け。悪いがこう表現するしかない。ジャスミンの作った世界に穴を開けるだなんてな」
美代は苛立ち、直治は拳を強く握りしめた。
「穴はどうなった?」
直治が問う。
「確認したけど、無くなってたよ。直治、お前から千代に言っとけ」
「・・・わかった」
「それから、」
美代と直治が怒るのをわかっていながら、俺は言った。
「都にこのことは聞くな」
案の定、二人は俺を睨み付ける。美代は狂犬のように牙を剥いていた。俺は首を横に振った。
「全てを知る必要は無いだろ」
「知りたいと思うのは俺の勝手だ」
「ご尤も。だから『命令』じゃなくて『忠告』だよ」
「テメェに命令される筋合いはねえよッ」
美代が語気を強める。
「落ち着け、美代」
直治が制した。
とんとん。
俺達は音の主を見る。
「ごきげんよう」
都が談話室の入り口で腕を組んで背を凭れさせていた。爪先で床を叩いて出した音らしく、再び、とんとん、と靴が音を鳴らす。
「お話よろしいかしら?」
返答を待たず談話室の中に入り、いつも座る俺の隣ではなく、一番奥のソファーに座る。
「都、脱走しようとしたって、」
「そんなことしないよ」
「じゃあなんで、」
「教えない」
美代の言葉を遮って都が言う。美代は納得いかない様子だったが、それでも口を閉じた。俺は昨夜の出来事を許可も無く勝手に話したことで少しバツが悪くなったが、都はそんなことは気にしていない様子で、片手で口元を覆い、その下になにか笑いを隠していた。
「ねえ、来週、新しいメイドが来るね」
直治が一瞬視線を逸らしたのを、俺は見逃さなかった。
「いつも通りに、ね? あとは適当に泳がせておいてね」
都がソファーから立ち上がる。
「都、なに隠してんのさ?」
「悪巧みを教える馬鹿は居ないでしょ」
そう言って、談話室を去っていった。
「・・・直治」
「口止めされております」
「・・・はあ。そーですか」
かちゃかちゃ、と足音を立てて『犬の』ジャスミンが現れ、尻尾をぶんぶん振りながらその場でくるくる回ったあと、挑発するように美代の目の前に座った。というか挑発しているのだろう。
「ハハッ、ジャスミン。こういうことすると都に怒られるからやらないんだけど、初めて使わせてもらうわ」
美代は中指を立てた。にっこり笑顔で。それまでニパニパと笑っていたジャスミンは上目遣いになって『ぶぅん』と鼻を鳴らしたあと立ち上がり、大きな身体をゆさゆさと揺らしながら談話室を出ていった。
「ムカつく馬鹿犬だ」
直治が言う。
犬。
犬ねえ。
昨日、俺を起こしに来た時は、犬の姿を保つ余裕すら無かったということだろうか。都は空を割ってなにがしたかったんだろう。もし、空の穴からなんらかの方法で出ていったとしても、俺は鴉になって追いかける。そんな想像をして、馬鹿馬鹿しくなって、やめた。