二百九十六話 優しさとは

文字数 2,788文字

「都・・・」

『直治、どうしたの?』

「怖い夢を見たんだ・・・」

『おいで』


優しいにおいがする。


「都・・・。都が居なくなる夢を見たんだ・・・」

『大丈夫よ、直治。直治の傍に居るよ』

「そうだ・・・。大丈夫だ、都は俺の傍に居る・・・」

『怖くないよ』

「怖くない・・・怖くない・・・」

『愛してるよ』

「愛してる・・・都、愛してるから・・・」


部屋が真っ暗だ。


「あ、あれ・・・?」


床で寝ている。


「仕事・・・」


起き上がった俺の身体の下には、都の服があった。それも、大量に。じわじわと記憶が蘇る。あと一時間で昼飯だと考えるとどうにも嫌な気持ちになって、カプセルに入ったジャスミンの血を飲んだ。それでも漠然とした不安が沸いてきて、仕事に集中できなくなって、ついにはじっとしていることすらつらくなった。我慢できなくなって、あまり使われていない医務室に行って、瓶に詰めてあるジャスミンの血を、何錠飲んだか、わからない。全身の血が沸騰するような感覚がしているのに、脳みそを氷で包まれたような頭痛がしていた。俺は、都の部屋に行って、美代が居て、そこで『白い男』に、ジャスミンに、服を。


「あ・・・」


都の服を。俺は礼を言って自室に持ち帰って、

そこで、幻を。いや、妄想を。


「・・・はあ、・・・はあっ、・・・あぁあああッ!!」


なにをしているんだ、俺は。

都の服を汚してしまった。

現実から逃げて、都合の良い妄想に浸って。

病を患っていた、あの時と、全く同じに。

こんこんこん。

ノックの音。


「・・・・・・・・・なんだよ」


淳蔵だった。


「飯食うか?」


首を横に振りたかった。


「じゃ、食堂に来い」

「・・・まさかとは思うが、お前が作るんじゃあないよな?」

「焦げか生の二択がいいなら作ってやってもいいけど?」

「やっぱやめる」

「温め直すくらいできるっつうの! ほら、来いよ」


淳蔵が階段を降りていく。俺は一度部屋に戻り、都の服をベッドに乗せてから、食堂に行った。

心臓が止まりそうになった。

いつもの席に、都が居る。俺を見て微笑んでいる。幻覚だ。幻覚だとわかる。


「どうした?」


淳蔵が俺の席に食事を配膳しながら言う。


「み、都が居る・・・」

「・・・どこに?」

「わ、わかってる。幻覚だ。そ、そこの、いつもの席に、都が・・・」

「直治」


淳蔵は俺に近付き、目の前に立つと、一つのカプセルを差し出した。


「これ飲め。間違っても、噛むなよ。噛まずに飲み込むんだ」


受け取った俺の手は震えている。赤いカプセル。そっと、飲み込んだ。


「まだ見えるか?」


淳蔵が身体を躱す。椅子に、都は居なかった。


「・・・居なくなった」

「そうか」

「なにを、飲ませたんだ?」

「今の状態のお前にはなにも話せない。安定したらちゃんと話すよ。また錯乱したら同じ薬をやるから心配すんな」

「・・・わかった」

「飯食え」


俺は自分の席に座った。


「兄ちゃん居た方がいいかね? 嫌ならキッチンで時間潰すけど」

「話したい」

「おう」


淳蔵は俺の正面に座った。


「・・・俺、服を、」

「そのまま持っとけ。都が帰ってきたら返せばいい」


自分勝手な、僅かな怒りが沸き起こる。『都が帰ってくる』だなんて、そんなに簡単に言わないでほしい。そしてとてつもない自己嫌悪に駆られる。淳蔵のように都を信じられない自分が、美代と『いつも通りに過ごす』と約束したのにそれを破っている自分が、どうしようもなく嫌で、嫌で、堪らなくなる。


「明日は休め。社長命令だ」

「先手を打つなよ。それに・・・。部屋に一人で居たら、また・・・」

「んじゃ俺の部屋に来いよ。寝ようがゲームしようがお喋りしようがなんでもいい」

「・・・そうする」

「なんなら今夜は一緒に寝るか?」

「・・・そうする」


淳蔵は静かに微笑み、二度、頷いた。

食事を終える。

淳蔵が後片付けをしてくれると言うので、俺は一旦自室に戻った。暗い部屋、ベッドの上に山積みになっている都の服を見て、再び自己嫌悪に駆られる。電気を点け、俺は一枚一枚、服を丁寧に畳んで枕元に並べた。

俺の中の、本当の悪魔が囁く。

悪いことだとはわかっていても、俺は迷うことも抗うこともなく都のブラウスに手を伸ばした。ベッドの上で広げる。黒いロングスカートも手に取り、ブラウスの下に広げた。厚みの無い都が出来上がった。覆い被さり、見つめる。

耐えられない。もうこれ以上は耐えられない。

もう現実に戻ってこられなくてもいい。

あともう一度だけ、都の夢を見られたら。

こんこんこん。

ノックの音。


「うっ・・・」


淳蔵だった。


「寝る準備したら俺の部屋に来い」


それだけ言って自室に戻っていく。俺は仕方なく風呂に入って寝巻きに着替え、歯を磨いた。部屋を出る前に、窓の外でなにかがきらりと光るのが見えた。淳蔵の鴉だ。アメジスト色の瞳と数秒見つめ合ったあと、俺はなんの反応もせずに自室を出て、淳蔵の部屋に行った。ドアは、開いていた。ベッドには枕が二つある。俺は黙って一つを掴み、壁を見つめて横になる。

髪を手入れする音。

淳蔵が部屋の灯りを落とした。そして俺に背中をくっつけて、そのまま動かなくなった。都とも美代とも違う、奇妙な安心感。俺はようやっと、緊張の糸が解けて、身体から力が抜けた。疲れた。頭が痛い。眠い。眠れそうだ。

そういえば。

俺は昔、淳蔵が苦手だった。羨ましいくらい長身で、手足も長くて、美しい顔をしている。なのに、いつもどこか人を見下すような顔をしていて、飄々とした掴みどころのない男なのかと思ったら、嫌なことはハッキリ嫌だと言う筋の通った男だった。無思慮に優しさをバラ撒くようなことは一切しない男だった。今でもそれはかわらない。かわったのは俺の方だ。


「兄さん」

「んー?」

「ごめんなさい」

「いいよ」


俺の優しさは打算のあるものだ。都に優しくするのも、都に優しくされたいからだ。周りは俺を『優しい』と評価するが、間違っている。本当に優しいのは、淳蔵だ。無思慮に優しさをバラ撒くということは、良くも悪くも相手に干渉するということ。最後まで面倒を見切れないのに中途半端な気持ちで相手に労力を割くということだ。野良猫に餌をやっているのとなにも違わない。

淳蔵は俺とは違う。一度決めた相手には、例え淳蔵自身がその相手を嫌いになってしまっても、優しくし続けるだろう。見返りが無くても、拒絶されても、馬鹿にされても、身を削って優しくし続ける。

今の俺に接しているように。

散々八つ当たりした俺に、迷惑をかけた俺に、淳蔵は優しくしてくれている。そう思うと堪らなくなった。今から俺は、恥ずかしいことを言う。


「おお、なんだ急に」

「抱き枕。愛してる」

「え、お、おう・・・」

「俺のこと、嫌いになるなよ・・・」


俺はなんとか声を絞り出して、言い切った。


「ちゃんと飯食って夜寝てくれたら、嫌いにならねえよ」

「・・・おやすみ」

「おやすみ、直治」


もう一度『愛してる』と言うか迷って、恥ずかしいので、やめた。
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