二百五十五話 天使のクリーム

文字数 2,799文字

「お? 千代だ」

「おッ? 淳蔵さんだァ」


夜、甘いものを齧りながら酒を飲みたくなったのでキッチンに来たら、千代がなにか作っていた。


「なにしてんだ?」

「『クレーム・ダンジュ』というチーズケーキの下拵えですぅ。『天使のクリーム』とも呼ばれるお菓子なんですよォ」


千代がチェシャ猫のように笑う。俺もにやりと笑った。


「それはさぞ美味かろうな」

「材料はクリームチーズに生クリームにヨーグルトと、都さんのお好きなものばかりなんですぅ。都さんの笑顔とお褒めの言葉が待ち遠しくって、もーう堪りませんねェ!」

「お前も都に骨抜きにされてんなァ」


俺はキッチンの隅に置いてある菓子類が入った籠を漁る。パウンドケーキを見つけた。シェリー酒をグラスに注ぎ、飲み始める。


「直治のヤツ、大分参ってるな」

「都さんもまずいと思ったのか、瞳さんより先に絞めることにしたそうですよォ」

「それ、直治は知ってんのか?」

「いいえ、まだ。知っているのは私と桜子さんだけですぅ」

「いいのか? 口を滑らせて」

「はァい! 淳蔵さんは口が堅いので!」

「おいおいおい、ご主人様の都に忠誠を誓いたまえよ黒猫ちゃん」


キッチンに足音が近付いてくるので、俺と千代は口を噤んだ。噂をすればなんとやら。水差しを持った美影がキッチンの中を覗き込み、少し驚いた顔をした。


「あ、電気がついてると思ったら人が居た」

「美影さん、こんばんはァ」

「こんばんは。すみません、水を汲み忘れちゃいました」


そう言って、水を汲む。


「あのー、千代さん?」

「はい?」

「もしかして、残業ですか?」

「いえ! 趣味のお菓子作りの時間ですぅ!」

「じゃあ、プライベートな時間なんですね? あのー、私、仕事のことで相談に乗ってほしいことがあるんですけどー」


俺が酒を飲んでいるのも、千代が手元を動かし続けているのも、そもそも『千代のプライベートな時間』だと認識しているのに仕事の話をするのも、それを千代が了承していないのも、美影には関係の無いことなのか、にこにこしながら喋り出した。


「瞳さん、なんとかなりませんか? 私、おっとりした性格だから、気の強い瞳さんとは上手くいかないみたいなんです」

「うーん、『なんとか』って、具体的にどうしてほしいんですか?」

「えー? 具体的?」

「休日を調節して一緒に働く日を減らしてほしいとか、なるべく仕事を別々にして、報告、連絡、相談で共有する時間を減らしてほしいとか」

「あの、そうじゃないです。なんか、私はそんなつもりじゃないのに、私のやることに悪意を感じてるみたいだから、やめてほしいんですよ、そういうのー」

「具体的には?」

「え? だからー、なんでかわかんないけど、多分、瞳さんの被害妄想だと思うんですけど、私のこと嫌ってるみたいだから、そういうの仕事に持ち込まないでほしいんですよー」


千代は大きなボウルを冷蔵庫に入れると、冷凍の苺とブルーベリーを取り出し、計量している。


「具体的には?」


美影は何故か、俺に助けを求めるような視線を寄こした。


「えー・・・。あの、昨日、厄介なお客様が来た時に、メイドは皆、キッチンに居たじゃないですか。あの時に、千代さんも見てたと思うんですけど・・・」

「美影さんが都さんを『おばさん』と呼んだ話ですか?」

「え? そんなこと言ってないと思います」


千代は苺とブルーベリーをそれぞれ小鍋に入れ、計量した砂糖を満遍なく振りかけると、弱火で煮ながら木のヘラでゆっくりと掻き混ぜる。


「瞳さんが『都様はおいくつなんですか?』と私に聞いて、私は『永遠の十五歳です』と答えました。それを聞いた瞳さんは『企業秘密なんですね』と言いました。ここまでは覚えていますか?」

「はい」

「美影さんは私と瞳さんの会話を聞いて、『それってつまりおばさんってことですよね。若作りするってことはおばさんってことですよ』と言いました。覚えていますか?」

「あー・・・。はい」

「『コンビニの年齢確認の話』は、覚えていますか?」

「はい」

「瞳さんが怒っていた理由、わかりますか?」

「私が瞳さんより年上で後輩だからですよね? 年上のおばさんがおばさんどうこう言っててウケる、こいつ後輩のくせに生意気、みたいなことですよね?」

「違います。もう一度言いますね。美影さんは『若作りをするってことはおばさんってことですよ』と瞳さんに言いました。それに対して瞳さんは『コンビニの年齢確認の話』という具体例を持ち出して、『美影さんだって若作りしているじゃないか。人のこと偉そうに言えないじゃないか』と、怒ったんです」

「え? いや、若作りなんてしてないんですけど。『お酒を買ったら毎回年齢確認される』って言っただけで若作りになるんですか?」

「美影さんの言い方を聞いている限りでは、私はそう感じましたよ」

「あー、そうですか。すみません、なんか自慢しちゃったみたいになっちゃって。あのー、私が『若作りするってことはおばさんだってことだ』って言った時に、『それって体験談ですか?』って失礼なこと言ってましたよね、瞳さん。それはどうなんですか?」

「美影さんが普段から瞳さんに『私の方が経験豊富だからわかります』と言って指示を聞かないからそういうこと言われちゃうんですよ」

「えー? でも、経験豊富なのは本当なので。私は瞳さんと違って大学を出てるし、結婚したこともあるからメイドに必要な家事のスキルもあるし、接客業もここが初めてじゃないので接客業のつらさも知ってますよ?」

「経験豊富なのなら、自分が働く会社の社長のことを『おばさん』呼ばわりしたり、それを多くの社員が居る場で発言しちゃいけないってことは、わかりませんか?」

「あの、話逸らさないでもらえますか?」

「逸らしてませんよ?」

「・・・あのー、もしかして怒ってますか?」

「はい」


沈黙。コトコトと果物が煮える音と、甘いにおいが静かに広がる。


「・・・あの、すみませんでした」

「はい」

「すみません。失礼します」

「はい」


美影はキッチンを出ていった。


「・・・すッげえなァ」

「すッごいでしょ」

「あんなのに言い寄られたらそりゃ参るわ。話を聞いた感じじゃ結婚してたみたいだけど、あいつの旦那は何者なんだよ?」

「キャバ嬢時代の『太客』ですよォ」

「は? あいつの言ってた『接客業』ってキャバ嬢のことなの?」

「はい。本人は隠してますけどねェ。高校生の時にしたファミレスのバイトの経験と、三十を超えてから職を転々としていた時の経験をカムフラージュにして『接客業の経験がある』と言っているみたいですぅ」

「おもしれー『ハムスター』だなァ。もっと聞きたいけどもう遅いな。明日聞かせてくれよ」

「ではお昼に、美代様も交えて天使のクリームでも頬張りながらどうです?」

「そうしよう」

「グラスは片付けておきますねェ!」

「ありがとよ、おやすみ」

「おやすみなさいませェ!」


千代の言葉に甘え、俺はキッチンをあとにした。
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