百八十二話 ブルー

文字数 2,926文字

待ち望んだ日がやってきた。中畑が帰る日だ。


「み、都さん、お世話になりました・・・。あ、ありがとうございました・・・」


これで解放されるわけではない、ということは十分に理解しているようだ。今の中畑は、都になにを握られているのかわからないどころか、自分の身になにが起こったのかすら曖昧な状態だ。


「また来てね」


中畑の父親は、都と直治、千代が述べる中畑の評点を聞きながら都達が作成した書類を真剣に見つめ、中畑が作った『パパの大好きな筑前煮』を美味い美味いと喜んで食べて、俺達が運んだ荷物を車に積む間、大人しくなった自分の娘に疑問を抱くどころか、『お転婆な娘を楚々とした女性に躾け直してくれた』と都に感謝すらしていた。

中畑親子が車に乗り、発進させる。

念のため、予め設置しておいた鴉で山から出ていくまで監視する。千代は仕事に戻っていった。俺達は客室の一号室に行く。ベッドに腰掛けた都は、少し息が上がって、肌が赤くなっていた。直治が熱冷ましシートを都の額に貼る。


「着替えて寝る・・・」


都は自分で着替えようとしたが、まだ手が震えている。美代が俺の肩を軽く叩いた。意図を汲み、俺と美代は背を向ける。直治が都を着替えさせている衣擦れの音がした。


「もういいぞ」


振り返る。直治は都を抱き上げてベッドに寝かせ、布団をかけると、脱がせた服を綺麗に畳んで枕元に置いた。美代がベッドに近付いて、都の頬に優しく口付ける。


「おやすみ、愛してるよ」

「おやすみなさい・・・」


鼠を一匹、都の頬に寄せると、美代は部屋を出ていった。仕事の遅れを取り戻すために事務室で集中するらしい。直治も仕事をするためにパソコンと向き合い、俺はベッドに腰掛けて書斎から借りてきた本を開いた。


「あの馬鹿社長、これで一条家と繋がりを持ったつもりなのかしらね」

「だろうな」

「髄までしゃぶり尽くしてやる」


がちゃ、と勝手にドアが開いた。魔女のコスプレをさせられたジャスミンが部屋に入ってきて、ベッドに上体を乗せて『くぅん』と鳴く。『ぢぢ!』と美代が威嚇した。


「ねえ、そろそろ許してあげたらどうかな?」


ジャスミンはベッドから降りると、直治の脇の下に無理やり頭を突っ込んで、太腿に顎を乗せる。


「・・・わかったよ」


直治が渋々言うと、今度は俺のところに来て上目遣いで見つめた。


「都がそう言うんなら仕方ねえな」

『俺は許さないぞ』


都の耳には、未だに鼠が鳴く声にしか聞こえていない。


『都が自室で一人で過ごせるようになってからだ』

「美代はなんて?」

「『許してやる』ってさ」

『おい!!』

「・・・本当に?」

「淳蔵ちゃん、ママに嘘は吐きません」


美代が飛びかかってくる前にベッドから立ち上がり、部屋に設えてある椅子に座り直す。


「ねえ、直治。美代はなんて?」

「『都がキスしてくれるなら許してやる』って」

『おい!! お前ら都を裏切るどころか利用して、その馬鹿犬を庇うのか!? お前らあとで俺が、』

「美代、許してあげてね」


都が美代の身体を掴み、腹に何度もキスをする。


『あっ、ちょ、ゆ、許さないって言って、ふぁ、お、お前ら真剣に、』

「ね、許してくれてる?」

「『もっと』だってさ」

『淳蔵おまっ! あっあっ、こ、これ都もわかっててやってるだろ!』

「ね、美代君。許してあげてね?」

『お、俺は屈しない! 屈しないぞ! ちょ、くすぐったいから、一旦やめさせて、話を、』

「もっとキスしてほしいの?」

『ちが、お前ら笑ってんじゃねえっ! んううっ、わ、わかった、わかった! 許せばいいんだろ許せば!』

「『許してやる』ってさ」


美代は都の手の中でくにゃくにゃになっていた。都がくすくすと笑う。都の肌は大分血色が良くなっている。俺はまだ、都の肌を見るたび、ジャスミンの言うことを聞いて都を不幸にした自分を許せないでいる。

八月が終わった。

九月中旬になると、都の手から震えが消えて、長時間行動しても熱を出さなくなった。食事の席にも参加して、宿泊客が来た日はいつも通りの接客をしている。今日は常連の森田夫妻と、新規の青木夫妻が来ていた。俺達も客用の笑顔を浮かべて対応する。


「えっ!? 手足が動かなくなった!?」


森田夫人の言葉に、都が苦笑する。


「お医者様によると『働き過ぎ』とのことでした。それで二週間も寝込んでしまいまして」

「あらぁ。都さん、大変でしたね」

「お気遣いいただきありがとうございます。多くのお客様に予約の変更やキャンセルをお願いすることになってしまって、森田さんにも青木さんにもご迷惑をおかけしました」

「いえいえ、そんな・・・」


青木の旦那が顎髭を撫でる。


「そういえば、中畑製薬のご令嬢が『花嫁修業』をここでしていたと聞きましたが、まさかそれが原因、ですか?」


客には気取られない程度にだが、俺達はぴくりと反応してしまった。


「いえいえ、彼女は関係ありませんよ」

「なら良かった。彼女、あまり良い噂を聞きませんから」

「活発過ぎる人ではありましたけれど、そこまで言われる程なんですか?」

「ええ、まあ。良いのかなあ、こんなこと言っちゃっても・・・」


青木の旦那が青木夫人を見ると、青木夫人は苦笑しながら頷いた。


「大学の『ミス・コンテスト』ってあるでしょう? それに何故か、彼女が優勝しちゃいましてね。アレって容姿も重要視されるでしょう? いや、失礼極まりないんですが、あの顔で優勝するのはちょっと、無理があるというか不可能というか・・・」


青木夫人が手をひらひらと振る。


「彼女が優勝したあと、大学に苦情が殺到して、翌年のミスコンは『お面』を着用することになったんですよ。その次の年にミスコンが中止、次の年に廃止、となりましてね。親の中畑社長がお金を積んだって噂が出回ってるんですよ。大学を卒業したのだって親のお金じゃないかって言われてましてね? なんでも彼女、碌に講義にも出ず昼夜問わず飲み歩いていたそうですから」

「あら、初耳です」

「悪さをする嗅覚が優れているんでしょうね。相手を選んで悪事を働きますから、一条さんは知らないのかもしれません。でも、まあ、人生、そう上手くはいかないものです。彼女、今は『マタニティーブルー』に陥ってるらしいですから」


マタニティーブルー。妊娠中や出産後に生じる、一時的な情緒不安定な状態。


「妊娠したんですか?」

「おや、知らないんですか? 確か、花嫁修業の成果を見せるために婚約者のご両親と同居を始めて、それから一ヵ月くらいかしら。月の障りがこないので検査してみたら妊娠していた、と。相当荒れているそうですよ? 全く、婚約者の方も、あんな娘のどこが良いんだか・・・」

「ハハ、失礼。うちのは昔、彼女に失礼なことを言われましてね。嫌っているんですよ」


談笑は続き、時間になるとチェックアウトして宿泊客が帰っていく。俺は自室に戻った都に話を聞くため、都の部屋に行った。

こんこん。


『どうぞ』


部屋に入る。美代も直治も居た。


「妊娠のこと聞きに来たんでしょ」

「まさか・・・」

「如何に寛容な私といえど、そんなことをしたらジャスミンでも許さないわよ。子供に罪は無いからね」

「なんだ、吃驚した」

「DNA鑑定ができるまでの間、震えて眠るといいわね」


少し伸びた髪を耳にかけて、都は笑った。
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