三百七話 気付いた
文字数 2,115文字
取り引き先を一つ燃やしてきた。
都には無許可で。
携帯が着信を知らせている。都からだ。
「はい、一条美代です」
『・・・美代?』
「社長、どうしました?」
『貴方が今日向かった取引先、桃野社長の自宅で火事が起こったの。貴方の帰りが遅いから心配していたのよ。電話に出られるってことは無事なのね?』
「はい」
『・・・連絡も寄こさずに、こんな時間までなにをしていたの?』
「少し寄り道を」
『どこに?』
「内緒です」
『・・・そう』
都に内緒にしていることなんて、殆どない。それは都も知っている。
『夕食は?』
「食べて帰ります」
『そう。じゃあ、美味しいものをゆっくり楽しんでね。帰る時は気を付けるのよ』
「はい。ありがとうございます。では・・・」
いつもなら都から電話を切るのを待つのに、今日は俺から切った。そのまま仕事用の携帯を見つめていると、プライベート用の携帯にメッセージが入った。淳蔵からだ。
『どしたよ?』
俺はちょっと笑ってしまった。
『帰ったら話す』
『なんで内緒なんだ?』
『なんで電話の内容知ってんだよ』
『美代の帰りが遅いからってオロオロしてる都を宥めてたんだよ。仕事用もプライベート用も携帯の電源切ってたら心配するだろうが』
『ごめんて。機嫌悪くなってた?』
『いや、全然。でも不思議そうにはしてた』
『話を聞いたら機嫌悪くなるかも』
『マジか』
『マジ。俺が悪いわけではない、と思う』
『まあゆっくり飯食ってこいよ』
『おう、じゃあな』
俺はなにを食べるか考えた。海に近い場所に居るから海鮮がいいかな。なんだか一人だけ食べているみたいで罪悪感があるけど。駅前まで車を走らせる。今から賑わう時間だ。コインパーキングに車を停め、この場所限定の空気を吸った。良い心地だ。周りの視線が鬱陶しいが、無視して商店街を歩く。良さそうな居酒屋を見つけたので中に入り、カウンター席に座った。
「お通しです」
「どうも」
「おにいさん、えらい別嬪やねえ」
女性に使うべき誉め言葉だが、黙って受け入れる。
「ありがとうございます。海鮮丼と、オススメの日本酒を」
「はいはい。この辺じゃ見ん顔やねえ。どこから来たのん?」
「〇〇の方から、仕事で」
「あら、お疲れ様。ゆっくりしていってね」
店主の女はそれだけ言うと、調理を始めた。お通しは甘海老の胡麻和えだ。なかなか珍しくて美味しい。海鮮丼と日本酒が出てきた。ほんのりと酢が効いた白米と、力強い旨味を感じる海の幸。香り豊かな山葵。醤油の塩分が疲れた身体に染みる。日本酒でほろよい気分になる。
桃野一族とは長い付き合いだ。四度代替わりをしていて、俺は二代目、三代目、四代目と面識がある。といっても二代目は一度会っただけなので、俺は今日までその顔を忘れていた。
四代目、桃野忍。三十代後半の男だ。桃野の会社で仕事の話をして、忍に見送られて会社を出ようとした時だった。
「えっ!? う、嘘・・・!!」
突然、女の声が響いた。
「美代、さん? 美代さんなんですか?」
清楚な装いの若い女は、まるで信じられないものを見るような目で俺に近付いてきた。
「藍、どうした? 美代さん、突然失礼しました。僕の妹の藍です」
「や、やっぱり、美代、なんだ・・・」
「藍! 失礼だぞ! どうしたというんだ!」
忍が小さな、それでいて鋭い声で叱責する。
「お兄ちゃん、だってこの人、美代さんなんでしょう? お爺様の、地下室の、美代さんなんでしょう?」
藍の声は少しの怯えを孕んでいた。それを聞いた忍が、じわじわと、なにかが染み込んだように目を見開く。
「・・・美代さん?」
忍が言う。
「あの、先程から、どうされたんですか?」
「あの、あの、貴方は、美代さんは、お幾つでしたっけ?」
「三十です」
「嘘よ!!」
藍が叫ぶ。ずっと黙って様子を見ていた受付嬢達がざわつき始めた。
「美代さん、僕は、僕は恐ろしいことに気付いてしまいました。貴方は、先代と、先々代に、会っていますよね?」
「ええ。何度か」
「僕が会社を継いだのは十年前。先代は三十年、ここで働いていた。先々代はそれよりも前だ。貴方、一体今幾つなんですか?」
おや、珍しい。親切な白い悪魔が施したまやかしが解けてしまったらしい。
「美代さん、お願いします! お爺様に、お爺様に会ってください!」
藍が泣き始めた。泣いている女は鬱陶しくて嫌いだ。
「君達、少し外してくれ」
忍は受付嬢達にそう言った。受付嬢達が退散すると、真剣な眼差しで俺に向き直る。
「美代さん・・・」
「なんでしょう」
「どうして気付かなかったのか、いや、そんなことはどうでもいい。先々代は、祖父は、立派な人でした。それが、貴方のせいで・・・」
「あの、なにかの勘違いでは?」
「そんなはずありません。証拠もあります。祖父に会ってください。会ってくだされば、僕も、藍も、貴方のことは気付かなかったことにします」
「お会いするのは構いませんが、やはりなにかの勘違いだと思いますが・・・」
「言質を、取りましたよ」
面倒なことになった。
「美代さん、僕の車で祖父の居る家まで案内します」
「僕も車で来ておりますので、着いて行く形なら」
「なんでも構いません。藍、お前も車に乗りなさい」
「は、はい・・・」
こうして俺は、桃野家に行くことになった。
都には無許可で。
携帯が着信を知らせている。都からだ。
「はい、一条美代です」
『・・・美代?』
「社長、どうしました?」
『貴方が今日向かった取引先、桃野社長の自宅で火事が起こったの。貴方の帰りが遅いから心配していたのよ。電話に出られるってことは無事なのね?』
「はい」
『・・・連絡も寄こさずに、こんな時間までなにをしていたの?』
「少し寄り道を」
『どこに?』
「内緒です」
『・・・そう』
都に内緒にしていることなんて、殆どない。それは都も知っている。
『夕食は?』
「食べて帰ります」
『そう。じゃあ、美味しいものをゆっくり楽しんでね。帰る時は気を付けるのよ』
「はい。ありがとうございます。では・・・」
いつもなら都から電話を切るのを待つのに、今日は俺から切った。そのまま仕事用の携帯を見つめていると、プライベート用の携帯にメッセージが入った。淳蔵からだ。
『どしたよ?』
俺はちょっと笑ってしまった。
『帰ったら話す』
『なんで内緒なんだ?』
『なんで電話の内容知ってんだよ』
『美代の帰りが遅いからってオロオロしてる都を宥めてたんだよ。仕事用もプライベート用も携帯の電源切ってたら心配するだろうが』
『ごめんて。機嫌悪くなってた?』
『いや、全然。でも不思議そうにはしてた』
『話を聞いたら機嫌悪くなるかも』
『マジか』
『マジ。俺が悪いわけではない、と思う』
『まあゆっくり飯食ってこいよ』
『おう、じゃあな』
俺はなにを食べるか考えた。海に近い場所に居るから海鮮がいいかな。なんだか一人だけ食べているみたいで罪悪感があるけど。駅前まで車を走らせる。今から賑わう時間だ。コインパーキングに車を停め、この場所限定の空気を吸った。良い心地だ。周りの視線が鬱陶しいが、無視して商店街を歩く。良さそうな居酒屋を見つけたので中に入り、カウンター席に座った。
「お通しです」
「どうも」
「おにいさん、えらい別嬪やねえ」
女性に使うべき誉め言葉だが、黙って受け入れる。
「ありがとうございます。海鮮丼と、オススメの日本酒を」
「はいはい。この辺じゃ見ん顔やねえ。どこから来たのん?」
「〇〇の方から、仕事で」
「あら、お疲れ様。ゆっくりしていってね」
店主の女はそれだけ言うと、調理を始めた。お通しは甘海老の胡麻和えだ。なかなか珍しくて美味しい。海鮮丼と日本酒が出てきた。ほんのりと酢が効いた白米と、力強い旨味を感じる海の幸。香り豊かな山葵。醤油の塩分が疲れた身体に染みる。日本酒でほろよい気分になる。
桃野一族とは長い付き合いだ。四度代替わりをしていて、俺は二代目、三代目、四代目と面識がある。といっても二代目は一度会っただけなので、俺は今日までその顔を忘れていた。
四代目、桃野忍。三十代後半の男だ。桃野の会社で仕事の話をして、忍に見送られて会社を出ようとした時だった。
「えっ!? う、嘘・・・!!」
突然、女の声が響いた。
「美代、さん? 美代さんなんですか?」
清楚な装いの若い女は、まるで信じられないものを見るような目で俺に近付いてきた。
「藍、どうした? 美代さん、突然失礼しました。僕の妹の藍です」
「や、やっぱり、美代、なんだ・・・」
「藍! 失礼だぞ! どうしたというんだ!」
忍が小さな、それでいて鋭い声で叱責する。
「お兄ちゃん、だってこの人、美代さんなんでしょう? お爺様の、地下室の、美代さんなんでしょう?」
藍の声は少しの怯えを孕んでいた。それを聞いた忍が、じわじわと、なにかが染み込んだように目を見開く。
「・・・美代さん?」
忍が言う。
「あの、先程から、どうされたんですか?」
「あの、あの、貴方は、美代さんは、お幾つでしたっけ?」
「三十です」
「嘘よ!!」
藍が叫ぶ。ずっと黙って様子を見ていた受付嬢達がざわつき始めた。
「美代さん、僕は、僕は恐ろしいことに気付いてしまいました。貴方は、先代と、先々代に、会っていますよね?」
「ええ。何度か」
「僕が会社を継いだのは十年前。先代は三十年、ここで働いていた。先々代はそれよりも前だ。貴方、一体今幾つなんですか?」
おや、珍しい。親切な白い悪魔が施したまやかしが解けてしまったらしい。
「美代さん、お願いします! お爺様に、お爺様に会ってください!」
藍が泣き始めた。泣いている女は鬱陶しくて嫌いだ。
「君達、少し外してくれ」
忍は受付嬢達にそう言った。受付嬢達が退散すると、真剣な眼差しで俺に向き直る。
「美代さん・・・」
「なんでしょう」
「どうして気付かなかったのか、いや、そんなことはどうでもいい。先々代は、祖父は、立派な人でした。それが、貴方のせいで・・・」
「あの、なにかの勘違いでは?」
「そんなはずありません。証拠もあります。祖父に会ってください。会ってくだされば、僕も、藍も、貴方のことは気付かなかったことにします」
「お会いするのは構いませんが、やはりなにかの勘違いだと思いますが・・・」
「言質を、取りましたよ」
面倒なことになった。
「美代さん、僕の車で祖父の居る家まで案内します」
「僕も車で来ておりますので、着いて行く形なら」
「なんでも構いません。藍、お前も車に乗りなさい」
「は、はい・・・」
こうして俺は、桃野家に行くことになった。