二百四十八話 鏡を割った

文字数 2,897文字

足元には濃霧。頭上は曇天の空。その空から巨大なステンドグラスがゆっくりと降り注ぎ、割れ、散り、足元の霧の中に消えてゆく。


「お前は馬鹿な女だよ」


都の祖母が、硝子のテーブルに肘をつき、頬に添えるように手の平で顎を支え、もう片方の手でグラスを持ちながら中身を転がす。黒く濁った液体が揺らめいている。対面に姿勢良く座っている都の表情には、薄っすらと拒絶が浮かんでいた。


「蝶が美しく見えるのは翅があるからだ」


瞬きをすると、都の祖母は、都の祖母と同じ着物を着た偽物の都にかわる。偽物の都は、背凭れに身体を預けた。


「お前のその御大層な翅を毟っちまえば、だあれも見向きしなくなる」


淳蔵が長い足を組み、グラスを傾けて液体を飲む。俺の身体は、俺達の身体は、動かない、動けない。唯一動くのは視線だけ。左を見ると淳蔵と美代が、右を見ると千代と桜子が居る。


「悲しいかい? 築き上げた全てを奪われる気分は、どう?」


美代が首を傾け、妖しく笑う。そして、グラスを視線の高さまで持ち上げて、液体越しに都を見る。その目には、愚か者を嘲笑するいやらしさがあった。


「お前は支配者であり、断罪者であり、狂言回しでもあった」


俺が都の顔にグラスの中身をぶちまける。都は身動きしないどころか、瞬きすらしなかった。前髪に絡んだ雫が毛先に集まり、ぽた、ぽた、と落ちる。


「それも、もう、おしまい」


千代が都の額にグラスを投げつけた。都の額から血が流れて、黒く濁った液体と混ざり合いながら、白いブラウスに染み込んでゆく。


「お前の力と知恵は人間の域を出ない。無駄なことはおやめなさい」


桜子がテーブルの上に両肘をつき、指を組み、その上に顎を乗せる。俺達にこの夢を見せているジャスミンは、『白い男』は、腕を組んで、黙って成り行きを見守っていた。


「なんとか言ったらどうなの?」


偽物の都が、都を睨む。

ぴし。

都の身体から奇妙な音が鳴った。

ぴし、ぴしぴし。

偽物の都が驚き、椅子から立ち上がる。

ぴしっ、ぱりん。

都の身体に、ヒビが走っていた。


「とうとう鏡を、割りましたね」


にやり、都が笑う。その途端、ばりんっばりんっと激しい音を立てて都の身体が崩壊した。破片は空から降り注ぐステンドグラスのように細かく割れ、散りながら濃霧の中に落ち、そこから広がるように赤い百合が咲き乱れる。百合が地平線の彼方にまで届くと、あっという間に空を覆い尽くしてステンドグラスが消え、赤い花弁が甘い香りと共にはらはらと降り注いだ。

一瞬の出来事だった。

崩壊しゆく都の身体の中から白い腕が飛び出して、偽物の都の顔を鷲掴みにした。一糸纏わぬ姿の都が、まるで『脱皮』したかのように現れたのだ。偽物の都は、そのまま後頭部から地面に叩きつけられる。

ふわり。

俺が愛してやまない、さらさらで艶があるのに、どうしても外側に少し跳ねてしまう都の髪。たてがみのように長い髪が、美しい曲線を描いて揺れる。都は牙を見せて笑いながら偽物の都の上に馬乗りになり、少しだけ顔を覗き込んだ。


「力量を見誤ったな」


都は偽物の都の顔から手を放し、ゆっくりと、胸倉を掴む。


「後ろ盾に守られた気になっているのか、反撃されるとは微塵も思っていないのか、攻撃は自分だけの特権だと思っているのか。なんにせよ、お前、俺のこと舐めてんだろ?」


都は見せびらかすように握り拳を作ると、自分と同じ顔をした存在の顔の中央に、拳を迷うことなく振り下ろした。形容し難い音が鳴る。都が顔にめり込んだ拳を引き抜くと、偽物の都の鼻は歪んで折れ、前歯が無くなっていた。


「お前らと徒党を組んで戦うつもりはない。お前らの支援は要らないしお前らに援助もしない。己を立ち行かせるのは己だけだ」

「ばッ、馬鹿がッ!! 正気か!? 全員死ぬぞッ!! お前一人の命でお前の望む通りにしてやると言っているのに、無下にするのかッ!?」

「お店の奥に居る怖いオニーサンにそう伝えな」


都は再び、偽物の都の顔に拳を振り下ろす。血と、粘った体液が飛び散る。何度も何度も殴打された偽物の都は、最早それが都の顔であったことすら判別できない程に顔の形を変えていた。

ぱち。

瞬きをすると、肉塊となった偽物の都の顔が、傷の無い淳蔵の顔にかわる。


「都っ! やめてくれ!」


淳蔵が都に向かって手を伸ばす。都はその手に噛み付き、牙で指を切断すると、捨てるように吐き出した。淳蔵が絶叫し、指の無くなった手を震わせる。


「可愛い息子の顔になれば殴られないと思ったか?」


都は宝物のように扱っていた淳蔵の前髪を乱暴に掴み、再び顔の中央に拳を振り下ろす。


「都っ! やめて! 俺に酷いことしないでっ!」


美代が可愛い顔を歪めてせがむ。都は再び顔の中央に拳を振り下ろす。


「都っ! 俺の声が聞こえないのか!?」


俺が責めるように、まるで正気を取り戻させるように言っても、都は顔の中央に拳を振り下ろす。


「都さんっ! 私達親友ですよねっ!? 女の子の顔は殴らないですよねっ!?」


千代が媚び諂っても、都は顔の中央に拳を振り下ろす。


「都様っ! やめてくださいっ!! なんでもしますからっ!!」


桜子が泣き叫んでも、都は顔の中央に拳を振り下ろす。

偽物の都は、誰に姿をかえても、なにを言っても、都に殴られて顔の形がかわっていった。裸の都の白い肌は、返り血で真っ赤に濡れて、やがて血が滴り始める。そうして、何度目か、祖母の両の眼球を、都が親指を喰い込ませて潰した。絶叫しながら四肢を暴れさせる祖母の顔を、再び抉るように殴る。赤い百合に包まれた美しい世界に、グロテスクな死のにおいが充満する。


「さあ、招かれざるお客様」


都は血と脂に塗れた身体で立ち上がり、笑って両手を広げた。


「取り引きは不成立です。お客様の援助は不要です。こちらからも援助は致しません。一条家が保有する土地への立ち入りを禁じます。一条淳蔵、一条美代、一条直治、櫻田千代、黒木桜子への接触を禁じます。ご理解いただけましたら、どうぞ、お帰りください」


そこで目が覚めた。

俺は慌てて部屋を飛び出る。淳蔵と美代、千代と桜子も飛び出してきて、都の部屋に続く階段を登る。こんこん、と淳蔵がノックをすると、カチャ、と開錠された音がした。そっとドアを開けると、ジャスミンがちょっと眠そうな目で、オテとオカワリを繰り返していた。上機嫌らしい。

寝室に行く。

都は窓を開けて、夜の風を吸っていた。月と星の光を浴びて艶めく、たてがみのような長い髪。夕食の時に見た都の髪は、肩に届かない短さで、動くたびに毛先がふわふわ揺れていた。


「どうしたの? 『怖い夢』でも見た?」


都は微笑む。


「・・・ううん、なんでもないよ」


美代は優しい声でそう言うと、桜子を見る。二人はなにか知っているらしい。美代が部屋を出ていく。桜子はお辞儀をしてから、美代のあとに続いた。


「貴方達も、部屋に戻りなさい」

「・・・失礼しました。おやすみなさい」


淳蔵に連れられて、俺と千代も部屋を出る。


「・・・いずれ、教えてもらえる日が来るだろ」


淳蔵はそう言って、自分の部屋に帰っていった。


「直治さん、おやすみなさい」

「・・・おやすみ」


俺と千代も、自分の部屋に帰った。
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