二百五十九話 同じ台詞

文字数 2,756文字

都の顔を見た直治は、開口一番『すみません』と言った。

食材の荒らされようは酷かった。俺達兄弟がじゃがいも好きだからと常備してある芋は、料理によって使い分ける品種に関係なく全て鍋にブチ込んだらしい。玉葱と人参も無い。肉は牛肉も豚肉も鶏肉も無いし、都が週に一度、ジャスミンに焼いてやる犬用のステーキ肉も無くなっていた。人間が間違えて食べないように『犬用ステーキ肉』と大きな字で書かれたラベルがパックの表面に貼られているのに、読まなかったのか、読んでも理解できなかったのか、謎だ。カレーのルゥも無い。

ジャスミンの歯磨き用の林檎も無くなっている。千代のパイシートと、千代と桜子が共有で使っているバターやシナモン等の調味料もかなり減っている。オーブンを開けてみると、焦げ気味のアップルパイが三つ出てきた。

一番頭が痛くなったのはワインだ。客用の高いワインの空き瓶が、ゴミの分別をする気すらないのか、分別するという考えすらないのか、キッチンにある燃えるゴミのゴミ箱の中に捨てられていた。


「うーん・・・」


都が唸る。直治は今にも吐きそうな程、顔を青くして、疲れた表情をしながらも背筋を真っ直ぐ伸ばして、椅子に座っている。


「ワインはまだあるから気にしなくていいわ」

「あの、都様、あのワイン、確か七万円、ですよね?」

「そう。七万円。でももういいから。本人に弁償って言ってもわからないだろうし」


都に質問した瞳が、苦い顔をする。


「淳蔵、千代さん、桜子さん、三人で買い物に行ってきてくれる? 食材の補充と、今日のお昼御飯と晩御飯を買ってきて。お弁当でもお惣菜でもジャンクフードでも、なんでもいいわよ。三人で相談して好きなものを買ってきてね」


『はい』と返事が重なる。


「じゃ、行ってらっしゃい」


淳蔵と千代と桜子がキッチンを出ていく。


「瞳さん、今日はもうお仕事を終わりにしていいわ。淳蔵達が戻ってきたら声をかけるから、自室で寛いで待っていてね」

「はい。失礼します」


瞳もキッチンを出ていく。都はテーブルに肘をつき、手の平に顎を乗せ、カレーの入った寸胴鍋を見た。


「アレ、どうすっかなぁ・・・」


都は全然怒っていないのに、直治はつらそうに顔を歪める。


「美代、アレ、何リットルの鍋?」

「10リットルだね」

「何人分?」

「俺が作る時は四十人分で作るけど・・・」


あの寸胴鍋は書き入れ時の八月に、宿泊客の要望に応えてカレーを提供するためのものだ。安価で提供しているのでどの客層でも気軽に注文できることと、程よい辛さと素朴な見た目のカレーが『古き良きレトロな雰囲気を感じる』こと、そんなカレーを旅先の食堂や宿泊する部屋で食べるのが楽しいらしく、そこそこ売れる。利益は度外視の商品なのは企業秘密だ。


「一日三食食べても二週間かかるかぁ」

「ええ? 食べる気なの?」

「勿体ないからね」

「やめときなよ。ちょっと焦げてるし、犬用の肉も入ってるし、カレーというより闇鍋だし」

「都ちゃんは悪食だからいけますよ、多分・・・」


直治が喉を、ぐぐ、と鳴らした。


「俺が食べます」

「駄目」

「俺が責任を持って食べます」

「責任? 直治はなにも悪くないでしょ」

「全部俺が悪いんです」


直治は追い詰められていた。自分自身に。


「履歴書に添付された写真を見た時にわかっていました。なにかの『障害』を抱えていることは。面接をした時に、俺に邪な感情を抱いたこともわかっていました。それを踏まえて対処するべきだったのに、『ほんの少しの間の我慢だから』と、そこで考えることをやめて、他の方に迷惑をかけてしまいました。申し訳ありません」

「直治、やめなさい」


都はじっと、直治を見つめる。直治は居心地が悪そうに視線を逸らし、俯いた。


「美影さんの希望通り、試用期間が終わり次第、解雇して一条家から追い出すからね」

「喰わないんだ?」

「『仕込み』の間に直治が潰れちゃうでしょ」


がたん、と音を鳴らして椅子から立ち上がった直治の身体が、ぴくりとも動かなくなる。都の瞳がトルマリン色にかわっていて、少し怒った顔で直治を見上げていた。


「今、土下座しようとしたでしょ」


都が髪を掻き上げる。


「直治に失望して言ってるんじゃないよ。これ以上、直治が美影さんと接触するのは、悪い結果にしか繋がらないと判断しただけ。それに、今回のことがなくても、瞳さんより先に絞める予定だったしね」

「それ、ちゃんと直治に言った?」

「言ってないよ。一週間前になったら言おうと思ってた。だって直治、」


ぱち、と都が瞬くと、瞳が黒に戻る。


「もっとボロボロになりそうだったし」


直治がゆっくりと息を吸い、ゆっくりと息を吐く。そして、そのまま立ち尽くした。


「私に言ったね。『過去の自分を見ているようでつらい』って。『経験』したことのある直治にしかわからないつらさなんだよね。だから、それが残酷な選択だとわかっていながらも、一条直治は白石美影に優しくしてあげようと思った。なにもわからないのなら、なにもわからないままで、終わらせてあげようと思った。自分に向けられる好意も敵意も全部受け止めて、自分一人が我慢すればいいと思った。仕事だと割り切って、さっさと終わらせて、いつか忘れようと思った。そうでしょ?」


直治はなにも言わない。なにも言えないのかもしれない。


「直治は、わかりあえない存在に、無償で感情を注いだんだよ。無駄で無意味で無利益だ。寧ろ損だよ、そんなこと。でも、どうしてもそうせずにはいられなかった。感情は、制御できるものではないからね。直治のその感情に、なんて名前を付ける? 同情? 憐憫? その根源に、或いは終着点にあるのは『贖罪』なんでしょう?」


都と直治は、互いに見つめ合う。


「俺、俺は、都のことを、裏切っているような気がして、」


都が首を横に振る。それでも直治は続けた。


「こんなに幸せなのに、時々、両親のことを思い出す。思い出したくないのに、ふとした瞬間、なんの脈絡も無く、両親と暮らしていた時のことを思い出して、俺なんかが、幸せになっていいのかと思ってしまう。俺は、それでも、都のことが好きで好きで堪らないんだ。だから、あいつを見て、昔の俺を思い出して、俺は、どうすればいいのか・・・」

「続ければいいよ」

「え?」

「贖罪を続ければいい」


都は、にこ、と笑った。


「やりたい時だけやればいいし、やりたくなくなったら途中で放り出せばいいよ」

「そ、そんな、こと・・・」

「直治の問題だからね、私はこんな風にしか言えない。でもね、直治。私は直治のことが好きだよ。昔も、今も、これから先も、きっとね」


直治の肩から、力が抜ける。


「さて、直治」


都が直治の目を真っ直ぐに見た。


「『あんなモノに情けをかけて俺を苛つかせるな』」


都がにやりと笑って言った台詞は、直治が都を責める時に言う台詞だった。
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