七十三話 ぐーちゃん3
文字数 2,230文字
『ぐーちゃん、歌の練習付き合ってくれる?』
「今日はなにを聞かせてくれるんだい?」
『Amazing Grace』
「恥ずかしがり屋さん。いつもみたいに海を見て歌っておくれ」
『えへへ、失礼します』
蛇が幻影の都と会話する。都は真っ直ぐに背筋を伸ばして腹の前で手を組み、歌い始めた。俺達は言葉もなく聞き入った。少し低い都の声。透明で極彩色で、力強くて繊細だ。歌い終わった都が振り返り、綺麗なお辞儀をする。
『ご清聴ありがとうございました』
都の幻影がすうっと消えた。
「・・・天使の歌声だな」
淳蔵が言う。美代は頬を赤らめてぽーっとしていた。
「ぐーちゃん、本当に消えてしまうんですか?」
俺が問う。
「もう私は必要無いからね」
「そんな・・・。都が悲しみます。俺も、親友のドアノブが消えた時は悲しかったので」
蛇は目を見開いた。
「なんだい、それは」
「俺、統合失調症という病気だったんです。有りもしないモノが見えたり聞こえたり、妄想に憑りつかれてできもしないことをできると言ってのけたり、自分は他人から関心を寄せられていると本気で思ったりする病気です。俺は自室のドアノブを唯一無二の親友だと思っていました」
「ほほお、成程」
「ドアノブとぐーちゃんを比べるのは失礼極まりないことを承知で言いますが、都が悲しみます。きっと」
「そうだな、でも、ううん・・・」
ぐーちゃんはバネのように身体をクルクルと巻いた。
「これくらいは、いいか」
と言って、バネのように飛び出した。
「二階の一番東にある部屋、今は物置になっているだろう? あそこの白い棚の、一番左上。都の好きな水色の大きな箱が置いてある。その中を見てごらん」
「二階の一番東、白い棚の一番左上、水色の大きな箱、ですね」
「では、私は消えるよ。良い人生だったよ。あれ? 蛇生、うーん、グリフォン生か? まあ、いいや。では、アデュー」
ぱち、と目が覚めた。慌てて部屋を出る。寝巻の淳蔵と美代も部屋から出てきた。
「おい、夢見たか?」
「グリフォンの夢見たか?」
「お前らも夢見たか?」
三人同時に喋ったので『夢』という単語以外殆ど聞き取れなかった。俺達は一番東の物置になっている部屋に入る。部屋の一番奥、白い棚の一番左上、都の好きな水色の大きな箱。淳蔵がそれを取って埃を手で払う。
「開けるぞ」
蓋を開けた。不器用な人間が作ったのが一目でわかる出来の、不細工なグリフォンのぬいぐるみ。雄々しい見た目と穏やかな内面を持つ夢のグリフォンとは似ても似つかない。
「これかァ」
「何十年前のものかは知らないけれど、大切にされているのはわかるな。綺麗だ」
「早く都に持っていこう」
都の部屋からどたばた暴れる音は聞こえない。
こんこん。
『・・・どうぞ』
ドアが開かない。
「みーやこー! ドア、開かねーぞー!」
『ちょっと待って』
ドンガラガッシャン! と大きな音がして、俺達は身を竦ませる。ガチャ、とドアが開いて、物凄くやつれた都が出てきた。ドアの隙間から見える部屋の中は解体工事でもしたかのような有り様だ。
「なに・・・?」
「探しものって、これか?」
淳蔵が箱を渡す。都は首をこてんと傾げてから箱を開けた。
「・・・え? ・・・えっ!? 嘘!! こ、これっ、どこでっ!!」
「お、当たりか?」
「これっ!! これ探してたの!! どこ、どこにっ!!」
「二階の東の部屋」
「・・・っあー。なんでェ?」
都はずるずると崩れ落ちた。美代が慌てて支える。
「都、今日はもう寝ていいから、明日からゆっくり部屋の片付けしような」
「はい・・・。見つけてくれて、ありがとうございます・・・」
「礼は良いから」
「っていうか寝るところあるの? ベッドの上までグチャグチャにしてない?」
「グチャグチャです・・・」
「あー、誰の部屋に泊めるかじゃんけんで決めようぜ」
俺達は無言で拳を振る。淳蔵、グー、美代、パー、俺、グー。美代が勝ち誇った笑みを浮かべた。淳蔵が悔しそうにキツく拳を握りしめる。俺もちょっと悔しかった。よたよた歩く都を美代が支えて階段を降りて行く。
「ッチ、取られちまった」
「部屋、どれくらい荒れてるんだろうな」
「ちょっと覗いてみるか」
俺と淳蔵は部屋に入る。
「うわァ・・・」
俺は言葉を失った。
「・・・これ、片付けるのに何日かかると思う?」
「・・・一ヵ月くらいか?」
「風呂とトイレ見てこい」
「おう」
風呂とトイレは綺麗だった。
「こっちは大丈夫だ」
「寝室は駄目だ。ベッドの上に置いた物が天井まで届いてる」
「はあ!?」
「あーあ、暫く俺達と遊んでくれないんじゃねえの?」
「ッチ。手伝うって言っても都の性格上、断るだろうな・・・」
その夜はそれで解散した。
都の部屋が元通りになるまで、三週間かかった。淳蔵に誘われたので、夜、都の部屋で酒を飲む。
「都、そろそろ肉、喰いたいか?」
「ううん。まだ大丈夫」
「無理するなよ」
「うん」
「で、都さん。片付けるのに三週間かかる程、部屋をしっちゃかめっちゃかにしてまで探してたあのぬいぐるみ、なんなんです?」
淳蔵が指差す先には、仕事用のノートパソコンの横に、水色のクッションに乗せられたぐーちゃんのぬいぐるみ。
「『ぐーちゃん』って名前なの。お母さんに作ってもらった思い出の品」
「どんな思い出?」
「恥ずかしいから秘密!」
酒の入ったグラスを持ちながら、都が少女のように笑う。そのアンバランスな光景にグッとくる。
「・・・ま、誰にでも秘密はあるわなァ」
俺は酒を煽る。からん、と氷が鳴った。それ以上、誰も追及しなかった。
「今日はなにを聞かせてくれるんだい?」
『Amazing Grace』
「恥ずかしがり屋さん。いつもみたいに海を見て歌っておくれ」
『えへへ、失礼します』
蛇が幻影の都と会話する。都は真っ直ぐに背筋を伸ばして腹の前で手を組み、歌い始めた。俺達は言葉もなく聞き入った。少し低い都の声。透明で極彩色で、力強くて繊細だ。歌い終わった都が振り返り、綺麗なお辞儀をする。
『ご清聴ありがとうございました』
都の幻影がすうっと消えた。
「・・・天使の歌声だな」
淳蔵が言う。美代は頬を赤らめてぽーっとしていた。
「ぐーちゃん、本当に消えてしまうんですか?」
俺が問う。
「もう私は必要無いからね」
「そんな・・・。都が悲しみます。俺も、親友のドアノブが消えた時は悲しかったので」
蛇は目を見開いた。
「なんだい、それは」
「俺、統合失調症という病気だったんです。有りもしないモノが見えたり聞こえたり、妄想に憑りつかれてできもしないことをできると言ってのけたり、自分は他人から関心を寄せられていると本気で思ったりする病気です。俺は自室のドアノブを唯一無二の親友だと思っていました」
「ほほお、成程」
「ドアノブとぐーちゃんを比べるのは失礼極まりないことを承知で言いますが、都が悲しみます。きっと」
「そうだな、でも、ううん・・・」
ぐーちゃんはバネのように身体をクルクルと巻いた。
「これくらいは、いいか」
と言って、バネのように飛び出した。
「二階の一番東にある部屋、今は物置になっているだろう? あそこの白い棚の、一番左上。都の好きな水色の大きな箱が置いてある。その中を見てごらん」
「二階の一番東、白い棚の一番左上、水色の大きな箱、ですね」
「では、私は消えるよ。良い人生だったよ。あれ? 蛇生、うーん、グリフォン生か? まあ、いいや。では、アデュー」
ぱち、と目が覚めた。慌てて部屋を出る。寝巻の淳蔵と美代も部屋から出てきた。
「おい、夢見たか?」
「グリフォンの夢見たか?」
「お前らも夢見たか?」
三人同時に喋ったので『夢』という単語以外殆ど聞き取れなかった。俺達は一番東の物置になっている部屋に入る。部屋の一番奥、白い棚の一番左上、都の好きな水色の大きな箱。淳蔵がそれを取って埃を手で払う。
「開けるぞ」
蓋を開けた。不器用な人間が作ったのが一目でわかる出来の、不細工なグリフォンのぬいぐるみ。雄々しい見た目と穏やかな内面を持つ夢のグリフォンとは似ても似つかない。
「これかァ」
「何十年前のものかは知らないけれど、大切にされているのはわかるな。綺麗だ」
「早く都に持っていこう」
都の部屋からどたばた暴れる音は聞こえない。
こんこん。
『・・・どうぞ』
ドアが開かない。
「みーやこー! ドア、開かねーぞー!」
『ちょっと待って』
ドンガラガッシャン! と大きな音がして、俺達は身を竦ませる。ガチャ、とドアが開いて、物凄くやつれた都が出てきた。ドアの隙間から見える部屋の中は解体工事でもしたかのような有り様だ。
「なに・・・?」
「探しものって、これか?」
淳蔵が箱を渡す。都は首をこてんと傾げてから箱を開けた。
「・・・え? ・・・えっ!? 嘘!! こ、これっ、どこでっ!!」
「お、当たりか?」
「これっ!! これ探してたの!! どこ、どこにっ!!」
「二階の東の部屋」
「・・・っあー。なんでェ?」
都はずるずると崩れ落ちた。美代が慌てて支える。
「都、今日はもう寝ていいから、明日からゆっくり部屋の片付けしような」
「はい・・・。見つけてくれて、ありがとうございます・・・」
「礼は良いから」
「っていうか寝るところあるの? ベッドの上までグチャグチャにしてない?」
「グチャグチャです・・・」
「あー、誰の部屋に泊めるかじゃんけんで決めようぜ」
俺達は無言で拳を振る。淳蔵、グー、美代、パー、俺、グー。美代が勝ち誇った笑みを浮かべた。淳蔵が悔しそうにキツく拳を握りしめる。俺もちょっと悔しかった。よたよた歩く都を美代が支えて階段を降りて行く。
「ッチ、取られちまった」
「部屋、どれくらい荒れてるんだろうな」
「ちょっと覗いてみるか」
俺と淳蔵は部屋に入る。
「うわァ・・・」
俺は言葉を失った。
「・・・これ、片付けるのに何日かかると思う?」
「・・・一ヵ月くらいか?」
「風呂とトイレ見てこい」
「おう」
風呂とトイレは綺麗だった。
「こっちは大丈夫だ」
「寝室は駄目だ。ベッドの上に置いた物が天井まで届いてる」
「はあ!?」
「あーあ、暫く俺達と遊んでくれないんじゃねえの?」
「ッチ。手伝うって言っても都の性格上、断るだろうな・・・」
その夜はそれで解散した。
都の部屋が元通りになるまで、三週間かかった。淳蔵に誘われたので、夜、都の部屋で酒を飲む。
「都、そろそろ肉、喰いたいか?」
「ううん。まだ大丈夫」
「無理するなよ」
「うん」
「で、都さん。片付けるのに三週間かかる程、部屋をしっちゃかめっちゃかにしてまで探してたあのぬいぐるみ、なんなんです?」
淳蔵が指差す先には、仕事用のノートパソコンの横に、水色のクッションに乗せられたぐーちゃんのぬいぐるみ。
「『ぐーちゃん』って名前なの。お母さんに作ってもらった思い出の品」
「どんな思い出?」
「恥ずかしいから秘密!」
酒の入ったグラスを持ちながら、都が少女のように笑う。そのアンバランスな光景にグッとくる。
「・・・ま、誰にでも秘密はあるわなァ」
俺は酒を煽る。からん、と氷が鳴った。それ以上、誰も追及しなかった。