百七十四話 一触即発
文字数 2,870文字
電話越しの都の声は、いつもとかわらなかった。事務的に仕事の話をして、電話を切る。声を聞いたら我慢できなくなって、俺は客室の一号室に行った。
こんこん。
『はい』
直治だ。返事が『はい』の時は、鍵がかかっている合図。
「美代だ。入れてくれ」
『駄目だ。帰れ』
「頼む。一分でいい。入れてくれ」
少しの沈黙。
『談話室の入り口にあるソファーを片付けて、淳蔵と待ってろ。もうすぐ医者が来る』
「・・・わかった」
淳蔵の部屋に行き、呼び出す。淳蔵はほんの少しの間にげっそりとやつれていた。二人で談話室に行き、ソファーを片付ける。少しすると都を連れた直治がやってきて、ソファーを片付けた場所に車椅子を固定すると、都の斜め後ろに立った。タイミングを見透かしたようにジャスミンも談話室に入ってきて、都の横に座る。
「都」
「なあに?」
「これのどこが、都のためになるっていうの?」
「美代、ジャスミンを責めないで」
俺はなんの言葉も捻り出せなくて、苛立ちながら頭を抱えた。
「幸せであり続ける生活のなにが悪いって言うんだ」
淳蔵が言った。
「そんな姿になってまでやることじゃない」
「淳蔵、やめなさい」
「澄ました顔してんじゃねえぞ」
「黙りなさい」
「うるせえッ!!」
淳蔵は立ち上がり、ジャスミンに詰め寄ろうとする。直治が立ちはだかって阻止した。
「退け」
「座れ」
「殺すぞテメェ。退け」
「座れ」
淳蔵は息を吸い、吐き、直治を見下ろしながら、ゆっくりゆっくりと顔を上に反らし、拳を握りしめる。直治が静かに睨み返すと、二人の間の空間が、ぐにゃ、と歪んだ。
ぴんぽおん。
ぱたぱた、と足音を立てて千代が談話室の前を通り過ぎようとして、ぴた、と立ち止まった。
ぴんぽおん。
談話室と玄関へ視線を往復させ、玄関に行く。そしてすぐに談話室に戻ってきた。
「やめてください」
「邪魔すんな雌猫」
「殺し合うなら外でやってください。お医者様が来られました」
小さな足音が近付いて来て、談話室に老婆が現れる。白髪をしっかりと結わえて上品な化粧をしていた。口紅は真っ赤だが嫌味が無い。深い緑のシンプルなドレスを着て、手には大きな革の鞄を持っていた。
「あら、取り込み中?」
「いいえ、お気になさらず。先生、お久しぶりです」
都が首を捻って後ろを向き、言う。老婆は都が贔屓にしている医者ではない。少なくとも、俺は始めて見る相手だ。老婆は一触即発の淳蔵と直治の横に立つ。
「躾のなってないガキだね」
「申し訳ありません。淳蔵、座りなさい。直治も後ろに」
淳蔵は黙ってソファーに座り直し、直治も都の後ろに下がる。老婆は都の前に両膝を立てて座ると、鞄から医療器具を取り出し、都の目や耳、口の中を診る。聴診器や血圧計なども使った。
「異常無し」
次に、都の右腕と左腕を調べる。撫でたり、抓んだり、揉んだり。右足と左足でも同じことをした。それが終わると自分の顎を親指と人差し指で抓み、首を少し傾げる。
「一週間ってところかね」
そう言って、鞄に医療器具を仕舞い、立ち上がる。
「朝と晩、手足をマッサージしなさい。それぞれ三十分。食事は軽めに。元気になったら金払って」
「ありがとうございました」
老婆は来た時と同じ小さな足音で、談話室を出ていく。千代が見送りに着いていった。
「・・・一週間で良くなるん、だよね?」
「良くなるわよ。あの人、なんでも治せるから。ちょっと高くつくけどね」
都は、ふう、と息を吐いた。
「医学と神秘学のスペシャリストなの。後遺症も無く治るわよ」
にこ、と微笑む。
「ごめんなさい。もう少しだけ、我慢してね」
俺は頷いたが、淳蔵は顔を顰めて都から逸らした。
「直治」
直治は黙って車椅子のロックを外し、都を連れていった。ジャスミンも談話室を出ていき、入れ替わりに千代が入ってくる。
「お帰りになりました」
「失せろ」
「失礼します」
「おーっとっと! 千代さん、ここに居たンですかぁ!」
場にそぐわない、中畑の明るい声。
「中畑さん、どうしました?」
「どうしたって、直治さんは都さんの介護で忙しいから、私のスケジュールは千代さんが管理してるンじゃないですか。休憩が欲しいので探していたンですよ」
「わかりました。どうぞ」
千代は腕時計を見て時刻を確認し、返答する。
「廊下で都さんとすれ違いましたけど、都さん、具合どうなンですか?」
中畑はにこにこ顔で聞く。
「テメェには関係ねえ」
淳蔵が苛立ちを隠さず答えた。
「関係ありますよぉ。都さんは私の花嫁修業の指導をしてくれている方なンですから! 都さんは、私の『お母さん』みたいなモノですよ!」
俺が振り上げた足はなににも当たらなかった。淳蔵が先にテーブルを中畑の方に蹴り上げたからだ。千代が身を挺して中畑を庇い、激しい音を立ててテーブルとぶつかる。
「淳蔵さん、美代さん、都さんの命令に従ってください」
淳蔵が立ち上がり、千代の身体が少し浮く程、胸倉を掴み上げる。中畑はテーブルに吃驚したのか腰を抜かしていた。俺は一瞬で冷静になって、淳蔵を千代から引き剥がそうとしたが、千代が胸倉を掴まれた状態で、腕一本で俺の身体を強く押し返した。
「テメェ、使用人の分際でなに舐めた口利いてやがる。序列もわかんねぇのか?」
「理解しております。私がお仕えしているのは都さんです。淳蔵さんでも美代さんでも直治さんでもありません。勿論、あの犬畜生でもありませんよ」
がし、と千代が淳蔵の手首を掴む。
「美代さんは兎も角、私と淳蔵さんと直治さんは、中畑さんを迎え入れることに賛同しましたよね? 今、直治さんはその責任を取っています。私も最後まで責任を取って、都さんの命令に従い、中畑さんを教育します。淳蔵さんも責任を取ってください」
ぎりりりり、と千代が淳蔵の骨を折りかねない勢いで握る。淳蔵は顔中の血管が浮き上がって、鬼の面のようになっていた。
「やめろ、二人共」
淳蔵は瞳だけ動かして俺を見ると、千代を乱暴に放り投げて談話室を出ていった。
「美代さん、ありがとうございます」
千代は俺にお辞儀をすると、まだ腰を抜かしている中畑の前にしゃがみ込み、手を差し伸べた。
「中畑さん、立てますか?」
「は、はい・・・」
中畑が千代の手を取り、立ち上がった瞬間、千代が中畑の頬を思いっ切り引っ叩いた。中畑は再び崩れ落ちる。俺は驚いて固まってしまった。
「中畑さん、二度と都さんを『お母さん』だなんて呼んではいけませんよ。貴方が今、一条家で花嫁修業をしているのは、都さんと貴方のお父様の間で行われている『ビジネス』なのだと、都さんに説明を受けたはずです。貴方は都さんの寵愛を受けるに値しない人物なのです。わかりましたか?」
千代は再び、中畑の前にしゃがみ込み、手を差し伸べる。
「中畑さん、立てますか?」
「すみませんっ! 一人で立てます!」
中畑はじたばたと立ち上がり、走って逃げていった。
「犬畜生、ね・・・」
俺が腕を組んで苦笑すると、千代も苦笑した。
「私、都さんの感情を掻き回すあの犬が嫌いなんですよ。二人だけの秘密にしてくださいね」
俺はサムズアップをしてみせる。千代は深くお辞儀して、仕事に戻っていった。
こんこん。
『はい』
直治だ。返事が『はい』の時は、鍵がかかっている合図。
「美代だ。入れてくれ」
『駄目だ。帰れ』
「頼む。一分でいい。入れてくれ」
少しの沈黙。
『談話室の入り口にあるソファーを片付けて、淳蔵と待ってろ。もうすぐ医者が来る』
「・・・わかった」
淳蔵の部屋に行き、呼び出す。淳蔵はほんの少しの間にげっそりとやつれていた。二人で談話室に行き、ソファーを片付ける。少しすると都を連れた直治がやってきて、ソファーを片付けた場所に車椅子を固定すると、都の斜め後ろに立った。タイミングを見透かしたようにジャスミンも談話室に入ってきて、都の横に座る。
「都」
「なあに?」
「これのどこが、都のためになるっていうの?」
「美代、ジャスミンを責めないで」
俺はなんの言葉も捻り出せなくて、苛立ちながら頭を抱えた。
「幸せであり続ける生活のなにが悪いって言うんだ」
淳蔵が言った。
「そんな姿になってまでやることじゃない」
「淳蔵、やめなさい」
「澄ました顔してんじゃねえぞ」
「黙りなさい」
「うるせえッ!!」
淳蔵は立ち上がり、ジャスミンに詰め寄ろうとする。直治が立ちはだかって阻止した。
「退け」
「座れ」
「殺すぞテメェ。退け」
「座れ」
淳蔵は息を吸い、吐き、直治を見下ろしながら、ゆっくりゆっくりと顔を上に反らし、拳を握りしめる。直治が静かに睨み返すと、二人の間の空間が、ぐにゃ、と歪んだ。
ぴんぽおん。
ぱたぱた、と足音を立てて千代が談話室の前を通り過ぎようとして、ぴた、と立ち止まった。
ぴんぽおん。
談話室と玄関へ視線を往復させ、玄関に行く。そしてすぐに談話室に戻ってきた。
「やめてください」
「邪魔すんな雌猫」
「殺し合うなら外でやってください。お医者様が来られました」
小さな足音が近付いて来て、談話室に老婆が現れる。白髪をしっかりと結わえて上品な化粧をしていた。口紅は真っ赤だが嫌味が無い。深い緑のシンプルなドレスを着て、手には大きな革の鞄を持っていた。
「あら、取り込み中?」
「いいえ、お気になさらず。先生、お久しぶりです」
都が首を捻って後ろを向き、言う。老婆は都が贔屓にしている医者ではない。少なくとも、俺は始めて見る相手だ。老婆は一触即発の淳蔵と直治の横に立つ。
「躾のなってないガキだね」
「申し訳ありません。淳蔵、座りなさい。直治も後ろに」
淳蔵は黙ってソファーに座り直し、直治も都の後ろに下がる。老婆は都の前に両膝を立てて座ると、鞄から医療器具を取り出し、都の目や耳、口の中を診る。聴診器や血圧計なども使った。
「異常無し」
次に、都の右腕と左腕を調べる。撫でたり、抓んだり、揉んだり。右足と左足でも同じことをした。それが終わると自分の顎を親指と人差し指で抓み、首を少し傾げる。
「一週間ってところかね」
そう言って、鞄に医療器具を仕舞い、立ち上がる。
「朝と晩、手足をマッサージしなさい。それぞれ三十分。食事は軽めに。元気になったら金払って」
「ありがとうございました」
老婆は来た時と同じ小さな足音で、談話室を出ていく。千代が見送りに着いていった。
「・・・一週間で良くなるん、だよね?」
「良くなるわよ。あの人、なんでも治せるから。ちょっと高くつくけどね」
都は、ふう、と息を吐いた。
「医学と神秘学のスペシャリストなの。後遺症も無く治るわよ」
にこ、と微笑む。
「ごめんなさい。もう少しだけ、我慢してね」
俺は頷いたが、淳蔵は顔を顰めて都から逸らした。
「直治」
直治は黙って車椅子のロックを外し、都を連れていった。ジャスミンも談話室を出ていき、入れ替わりに千代が入ってくる。
「お帰りになりました」
「失せろ」
「失礼します」
「おーっとっと! 千代さん、ここに居たンですかぁ!」
場にそぐわない、中畑の明るい声。
「中畑さん、どうしました?」
「どうしたって、直治さんは都さんの介護で忙しいから、私のスケジュールは千代さんが管理してるンじゃないですか。休憩が欲しいので探していたンですよ」
「わかりました。どうぞ」
千代は腕時計を見て時刻を確認し、返答する。
「廊下で都さんとすれ違いましたけど、都さん、具合どうなンですか?」
中畑はにこにこ顔で聞く。
「テメェには関係ねえ」
淳蔵が苛立ちを隠さず答えた。
「関係ありますよぉ。都さんは私の花嫁修業の指導をしてくれている方なンですから! 都さんは、私の『お母さん』みたいなモノですよ!」
俺が振り上げた足はなににも当たらなかった。淳蔵が先にテーブルを中畑の方に蹴り上げたからだ。千代が身を挺して中畑を庇い、激しい音を立ててテーブルとぶつかる。
「淳蔵さん、美代さん、都さんの命令に従ってください」
淳蔵が立ち上がり、千代の身体が少し浮く程、胸倉を掴み上げる。中畑はテーブルに吃驚したのか腰を抜かしていた。俺は一瞬で冷静になって、淳蔵を千代から引き剥がそうとしたが、千代が胸倉を掴まれた状態で、腕一本で俺の身体を強く押し返した。
「テメェ、使用人の分際でなに舐めた口利いてやがる。序列もわかんねぇのか?」
「理解しております。私がお仕えしているのは都さんです。淳蔵さんでも美代さんでも直治さんでもありません。勿論、あの犬畜生でもありませんよ」
がし、と千代が淳蔵の手首を掴む。
「美代さんは兎も角、私と淳蔵さんと直治さんは、中畑さんを迎え入れることに賛同しましたよね? 今、直治さんはその責任を取っています。私も最後まで責任を取って、都さんの命令に従い、中畑さんを教育します。淳蔵さんも責任を取ってください」
ぎりりりり、と千代が淳蔵の骨を折りかねない勢いで握る。淳蔵は顔中の血管が浮き上がって、鬼の面のようになっていた。
「やめろ、二人共」
淳蔵は瞳だけ動かして俺を見ると、千代を乱暴に放り投げて談話室を出ていった。
「美代さん、ありがとうございます」
千代は俺にお辞儀をすると、まだ腰を抜かしている中畑の前にしゃがみ込み、手を差し伸べた。
「中畑さん、立てますか?」
「は、はい・・・」
中畑が千代の手を取り、立ち上がった瞬間、千代が中畑の頬を思いっ切り引っ叩いた。中畑は再び崩れ落ちる。俺は驚いて固まってしまった。
「中畑さん、二度と都さんを『お母さん』だなんて呼んではいけませんよ。貴方が今、一条家で花嫁修業をしているのは、都さんと貴方のお父様の間で行われている『ビジネス』なのだと、都さんに説明を受けたはずです。貴方は都さんの寵愛を受けるに値しない人物なのです。わかりましたか?」
千代は再び、中畑の前にしゃがみ込み、手を差し伸べる。
「中畑さん、立てますか?」
「すみませんっ! 一人で立てます!」
中畑はじたばたと立ち上がり、走って逃げていった。
「犬畜生、ね・・・」
俺が腕を組んで苦笑すると、千代も苦笑した。
「私、都さんの感情を掻き回すあの犬が嫌いなんですよ。二人だけの秘密にしてくださいね」
俺はサムズアップをしてみせる。千代は深くお辞儀して、仕事に戻っていった。