三百四十一話 動物

文字数 2,503文字

夕食の席。ひろの機嫌が悪く、紫苑が食事を摂らせるのに手間取っていた。


「やのお! やー!」

「ひろ君、我儘言わないの! ほら、ひろ君の大好きなコロッケだよ?」

「いーやー!」


都が心配してひろを見つめる。


「紫苑さん、ひろ君、熱はない?」

「えっ・・・」

「小さい子はすぐに熱を出して不機嫌になるから、もしかしたらと思って」

「あ、ど、どうしましょう」

「千代さん、子供用の体温計持って来てくれる?」

「はいっ」


千代が少し小さな声で言い、医務室から体温計を取って戻ってきた。ひろの熱を測る。


「うん? 平熱ですねェ」

「えー? それって仮病ってことですかあ?」


姫子の発言に場の温度が下がる。


「都様ぁ? 子供産んだこともないのにテキトーなこと言わない方がいいと思いますよお?」

「姫子さんっ、都様に失礼なことを言うのはやめてくださいっ」

「えー? だって紫苑さあん? 熱、ないんでしょ? ひめは本当のことを言ってあげただけですよお?」

「本当のことを言うなら貴方だって、」

「紫苑君」


俺は紫苑の名を呼んで制し、首を横に振る。


「ね? 言い返せないでしょ? ねえひろくぅん、仮病は駄目だよお?」

「やの! ごはんいや! いやー!」

「ど、どうしてこんなに嫌がってるのかしら。食べるの大好きなのに・・・」

「ひろ君、どうして食べたくないの? 都ちゃんに教えて?」

「きらいっ! きらいっ!」


都がショックを受けた顔をした。もう情がわいているらしい。『どうでもいい』と言っていたくせに。畜生。


「ねえひろくぅん。煩いよお? 静かにしようねえ? ほらっ、あっちのお兄ちゃん怒ってるよおっ?」


姫子は直治を指差した。


「ママっ! ひとにゆびさしちゃいけないんでしょっ?」

「えっ、う、うん、いけないよ?」

「あのおばちゃんなんでいけないことしてるのっ!」


おばちゃん。

ひろが姫子を『おばちゃん』と呼んだ。

姫子はぽかんとしている。


「ひろやだっ! あのおばちゃんいじわる! ママのわるくちいう! あのおばちゃんわるいこなんだよ! あのおばちゃんとごはんたべたくないっ!」


俺は目を伏せ、深呼吸した。痛快で笑いそうになったからだ。この状況で笑ってはいけない。絶対に悪い結果を齎す。


「いやっ! いやっ! やあああだあああっ!!」

「ギイーッ!」


ひろは吃驚して紫苑に抱き着いた。


「ギイーッ!」


うわあ。


「ギイーッ!」


姫子はテーブルの上で握り拳を作り、顔を真っ赤にして唇を尖らせながらひろを睨み付けて鳴いている。


「ギイーッ!」

「・・・はあ」


都が溜息を吐くと、姫子は鳴くのをやめて静かに都を睨む。


「ひろ君、ごめんね。意地悪なおばちゃんとごはんを食べるのが嫌だったのね? あとでママと都ちゃんと一緒に食べようね」

「ちーちゃんとさっちゃんもいっしょ!」

「うん。じゃあちーちゃんとさっちゃんも一緒ね。ママとお部屋に戻って、ちょっとだけ待っててくれる?」

「ぜったい? やくそく?」

「うん。今までごめんね。ちょっとだけ待っててね。紫苑さん、そういうことだから」

「す、すみません、失礼します。ひろ君、ママとお部屋に行こうね」

「うん!」


紫苑がひろを抱き上げ、食堂を出ていく。


「わけわかんないっ! なんでひめのこと苛めるのっ? ひめ、おばさんじゃないもん!」


がりがり、都が髪を掻く。苛立っている時の仕草。


「ひめが可愛いからって嫉妬して虐めるのおかしいよっ! ひめにはどうしようもないじゃん! ひめの問題じゃないじゃん! 嫉妬してる側の問題じゃん!」

「そうね。マジぴえんだわ」


都が心底馬鹿にしたように鼻で笑った。全員吃驚する。まずい。爆発する前兆。


「ギイーッ!」


音も無く椅子から立ち上がり、ゆっくりと姫子へ近付くと、


「ギイーッ!」


都は姫子の髪を鷲掴みにして椅子から引き摺り下ろした。


「ギッ!?」


椅子が盛大な音を立てて倒れる。都は姫子に馬乗りになると、胸倉を掴んで、左手で頬を思いっ切り叩いた。姫子の鼻血が床を汚す。


「やめっ、」


今度は手の甲で払うように頬を叩く。手の平よりはマシかもしれないが十分に痛いだろう。


「ちょっ、」


再び手の平で。


「うあっ、」


再び手の甲で。

あまりの行動に、俺達は椅子から立ち上がって、ただ茫然と見ているしかなかった。止めようものなら確実に巻き込まれる。淳蔵と直治は駄目だ。顔を真っ青にしている。千代と桜子も駄目だ。この二人は都に絶対に逆らわないし逆らえない。


「都っ!」


俺は都に近付き、振り上げていた手首を掴んだ。


「死んじゃうよ。もうやめよう」

「直治」

「はっ、はいっ!」


都は何故か、直治の名を呼んだ。らしくなく汗だくになりながら、鋭い笑みを浮かべて直治を見る。


「人間も動物なんだなって思った、って言ったな?」

「い、言いました・・・」

「お前・・・」


はあ、はあ。都の息。


「お前、賢いな」

「はっ・・・?」

「こいつが人間に見えるかって話だよ」


恐らく『後遺症』も相まって、なにも考えられない程、興奮している。


「こういうヤツにはなにをしたって許される。そうだろ?」

「いや、」

「いや? なにが『いや』なんだよ」


直治は酷く動揺して、口を閉ざす。


「なに黙ってんだオイ」

「都っ! もうやめないか!」


俺は手首を握る力を強めた。都は目を細めて俺を見たあと、そっと、姫子の胸倉から手を離した。姫子の顔は痛々しく腫れている。今からもっと腫れ上がるだろう。嫌なにおいもした。失禁している。


「めんッどくせえ。こいつもう地下に入れとけ」


都は立ち上がり、左肩をぐるりと回し、手首を解すように手を振った。


「シャワーを浴びたら紫苑さんの部屋に行くから、千代さん、桜子さん、先に部屋に行っててね」

「はい」

「はい・・・」

「料理は運んでおいて。それじゃ」


都が去っていく。


「淳蔵、無理するな。トイレで吐いてこい。直治は最低限の下処理をしたら少し休め。千代君と桜子君は食事を運んで紫苑君の部屋に。掃除は俺がしておくから」


俺の指示通り、皆、散っていく。


「・・・あーあ」


人語を介しながらも動物的に生き続けた女の末路。最後の『人』としての瞬間は、『可愛い』と信じて疑わない顔をジャガイモのように腫れ上がらせ、失禁し、気絶して床に横たわって、終わった。
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