四百七話 鈍色の金魚

文字数 2,665文字

「あっ・・・」

「おう、都」


部屋を出たところで、上階から降りてきた都と鉢合わせた。


「あっ、ああー、あの・・・」

「ん?」

「身内だからこそ言える忌憚なきご意見をくださる?」

「なんのこっちゃ」

「はい。美代と直治にも渡しておいて」


都が持っていた紙袋を手渡してきた。中には一冊の本。


『鈍色の金魚』 作者 月草はじめ


ぴょこぴょこと兎が跳ねるように都は逃げていった。


「俺が一番乗りか? やったぜ」


自室に戻り、本を開く。


『夏祭りの金魚掬いの屋台を見ると憂鬱な気分になる。私は赤くない金魚が好きだった。他の子供にも『ポイ』で弄り回されて疲弊した金魚を掬い上げて家に連れて帰るのが好きだった。道中、小さな袋の中で金魚達はなにを考えたのだろう。私は一匹たりとも一晩越させてやることができなかった。二つ隣の家のお嬢さんは幼い頃に金魚掬いの屋台から持ち帰った赤い金魚を今でも飼育していて、立派に成長した金魚の尾鰭は祖母の着物の裾のように美しいのだ。お嬢さんの金魚こそが、あれこそが、私が金魚達に与えたかった救済なのだと思った』


「もう好きなんですけど」


『お嬢さんに問うてみた。金魚の世話はさぞ手間がかかるでしょうと。お嬢さんは答えた。いいえ、そんなに。それからこう続けた。毎日決まった時間にカルキを抜いた水を入れ替えてやって、毎日決まった時間に餌をやって、毎日決まった時間に消灯して寝かせるだけです。私が判を押したような生活をしているからこの子達もそうなの。あら、つまらなさそうと思ったでしょう。これが案外楽しいのよ。何時になれば何します、それまでは何しようかしら、と、毎日そんなことを考えて過ごすんです。何もしないをする時もあるわ。貴方もやってごらんなさい。私はお嬢さんはなんと贅沢な人なのだろうと思った。それができれば苦労はしない。時間を好きに使えるのは責任のない金持ちだ。つまり金持ちの子息や子女だ。母から貰った小遣いを、幾らだ、幾らだと考えながら菓子だの玩具だの買っている自分が情けなくなり、馬鹿馬鹿しくなり、悔しくなった』


夢中で読む。


『金魚は品種改良された鮒だ。鮒は丈夫だ。もう鮒でいいや、と考え、川から鮒を獲って来て『まきこ』と名付けた。読んでいた小説に出てくる気の強い女の名前だ。おい、まきこ、鮒はどんな食い方をしても美味いそうじゃあないか。死んだら食ってやるぞ。弔ってやらないぞ。まきこは口をぱくぱく開閉して、私に文句を言ったように見えて、私は満足してその日は眠りに就いた』


読み進める。


『彼女は名を真貴子といった。他の女学生達とは違う、華やかでない容姿と、絶望という名の閉塞感に満たされた学園生活と家族関係。私はこの鈍色の金魚を、真貴子を、救済したくなった』


年齢も性別も不明の『私』が、飛び降り自殺をしようとしていた真貴子と出会い、真貴子を救済しようとする話、らしい。真貴子の両親は不仲で、母親は真貴子が医者になることを義務付けて過度の勉強をさせ、父親は娘が親より学歴が良いなんて生意気だという理由で勉強を阻止しようとする。真貴子は成績が良いと母親に褒められ父に暴力を振るわれ、成績が悪いと母親に暴力を振るわれ父親に褒められる日々を送っていた。中央値の成績は許されない。複雑な家庭環境に薄っすらとだが気付いている学友達からは腫れもの扱いされ、教師達も見て見ない振り。


「ヘヴィーだな、おい・・・」


『母がね、言うんです。お父さんには感謝してるのよって。母の父は母を恐怖と束縛で躾けていたんですって。母は自由に生きられなかったんですって。だから、父から解放してくれて、結婚してくれた父に感謝しているんですって。私も結婚すれば、開放されますか。私にそう問うた真貴子には答えがわかっていたのだろう。真貴子は解放されない。だから私は真貴子の両の肩をがっしりと掴み、両の目を真っ直ぐに見て、言った。君に必要なのは解放ではない。救済だよ。救済、と真貴子は繰り返した。救済って、なんですか』


主人公の『私』は真貴子を救済する方法を考え、悩み、思わず『えっ!?』と声が出るような暴走をして、呆気なさすぎる結末を迎えた。滅茶苦茶後味の悪い結末だ。都にとって『救済』がなんなのか問い詰めて、最近悩んでないか、とか、ちょっと仕事を休んでみないか、とか、なにか楽しいことしないか、とか、心配になって色々言いたくなる。


「あ、時間・・・」


談話室に行く時間を過ぎている。少し迷ってから、本を持って談話室に向かった。


「おう、兄貴、一番最後とは珍しい」


美代がおどけて言う。


「じゃんけんで勝った方に都が書いた本を渡します」

「は?」

「え?」


ほぼ同時に美代と直治の声が重なり、二人は睨み合うと、無言でじゃんけんが始まった。七連続であいこ。


「ぐぎぎぎぎ・・・! 絶対負けたくない・・・!」

「絶対勝つ。絶対勝つ。絶対勝つ。絶対勝つ。絶対勝つ」


馬鹿なやり取りが終わって、直治が勝った。


「畜生ッ!!」

「淳蔵、寄越せ」

「ほい」


俺はソファーに座った。


「読んで吃驚したぞ」

「ネタバレすんな殺すぞ」

「ネタバレしねーよ殺すな。都ちゃん、ちょっとストレス溜まり過ぎなんでないの? 世界観が陰鬱過ぎて心配になったわ」

「そんなに?」

「そんなに。まあ読めって。俺は結構好きだけどこれは人には勧められねえなァ・・・」


直治が読み始める。


「淳蔵、どれくらいで読み終わったんだ?」

「五時間くらい?」

「五時間も堪能しやがって・・・」

「どういう怒り方? ああ、そうそう。都が『身内ならではの忌憚なき意見が欲しい』って言ってたぞ」

「そっかあ。読み終わったらちゃんと意見を伝えなくちゃ」

「俺は都に意見を伝えてくるわ。それじゃ」

「おう」


直治は無言だった。

都の部屋のドアをノックする。

こんこん。


『どうぞ』

「失礼します」


都は俺の顔を見ると少しだけ緊張した。


「本の感想を」

「はい・・・」

「めっちゃ好き」

「えっ! 本当?」

「ほんとほんと。ただちょっと心配になっちゃった。都、ストレス溜まってないか?」


都が笑う。


「書いてストレス発散したからあんなオチなんだよ。後味が悪いとか気分が悪くなったとかは褒め言葉になっちゃうね」

「不可解を勢いで流し込ませるスタイルは間違いなく太宰だったぜ」

「そんなに褒めなくても・・・」

「僕は都さんの文学は嫌いなんです」

「そんなことを言ったって、こうして来てるんだから、やっぱり好きなんだよな。なあ、やっぱり好きなんだよな。嫌いなら、来なけりゃいいじゃねえか」

「・・・ンフッ」

「フフフッ」

「じゃ、また」

「うん。またね」
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