二百三十三話 恋の変化

文字数 2,077文字

休日、トレーニングルームに行くと、桜子がサンドバッグをボコボコにしていた。


「あら、直治様」

「よう」


ふうーっ、と桜子が息を吐く。


「休憩に話はどうだ?」

「是非。少しお待ちください」

「おう」


桜子はウォーターサーバーから水を汲み、首にタオルをかけて汗を拭くと、長椅子に座る。俺も隣に座った。


「都様の歩き方を見て気付いたのですけれど、訓練を受けていたことがあるのでしょうか?」

「まあ、素人ではないよな」


軍人だった祖父の伝手で仕込まれていた話は、息子である俺達しか知らないことなので、濁した。


「都様ほどではありませんけれど、千代さんも訓練を受けているように見えます」

「ん? 千代? メイドとして雇った時に調べた限りでは、そんな経歴は無かったと思うが・・・」

「では都様に手解きを受けたのでしょうか? 二人共、歩き方の『癖』が似ています」


全く気付かなかった。


「どんな癖なんだ?」

「『重心』を少し低めに意識して歩いているように見えます。それと、あまり頭部を動かさないのです。方向転換したり振り返ったりする時も、自然に見せていますが、身体の部位を少しずつ回転させるのではなく、身体全体を回転させて、隙を作らないようにしているように見えました」

「ほーう・・・」

「お二人の癖とは違いますし、ほんの少しなのですけれど、淳蔵様も隙を見せないような歩き方をしていますね」

「ああ、あいつは昔、とんでもなく喧嘩が強かったらしいから、その名残りかもな」

「フフッ、愛坂さん、淳蔵様に恋をしてしまったようですよ」

「この前のおにぎりだろ」

「はい。食事作法の指導も、淳蔵様と一緒に食事を摂りたいからと、聞き入れてくれるようになりました」

「そういえば、赤ん坊の頃から女優としてやってきてるのに、なんであんなに食事作法がなってないんだ? 演技で飯を食うシーンだってあるだろうし、付き合いで飯を食うことだってあるだろうに」


始めて食事作法を指導することになった時、愛坂は都の正面に座り、二人は食事をしながら、都が細かな部分を指摘する、ということになっていた。『少し窮屈な食事になるけれど頑張りましょう』と言った都を思いっきり睨んだ愛坂は、『いただきます』も言わずに茶碗に親指をひっかけて持ち上げ、握り箸で白米を掻き込むと、おかずの肉団子の皿を寄せ箸して肉団子に箸を突き刺し、口に放り込むとクッチャクッチャと大きな音を立てて咀嚼を始めたので、都はなにから指摘していいのかわからなくなったのか、ぴたっと固まっていた。俺達も吃驚したのを覚えている。


「都様とお話をした時に伺ってみたのですけれど、どうも椎名社長の会社『アップルグループ』が中堅止まりなのはその辺りが関係しているみたいですね」

「というと?」

「椎名社長自身が礼儀作法のなっていない人間だったから、だからだそうです。会社をある程度大きくできたのは。街でスカウトする女優や、オーディションで採用する『女優を見る目』は抜群にあるからだそうです。美貌ではなく演技力を見る力、ですね。女優に振り分けるマネージャーも、女優達の個性に合ったマネージャーを選別できているらしく、女優達にとっては働きやすい職場だそうですよ。愛坂さんを依怙贔屓することに不満を持った女優が、一度事務所をかえたそうなんですけれど、芸能界の荒波に揉まれて泣いて逃げ帰ってきたのを、再び受け入れたこともあるとか」

「ほう・・・」

「女優達は親元である程度の教育を受けていますし、マネージャーもそうです。ですから他の女優達はあそこまで酷くないそうですよ。寧ろ、愛坂さんを反面教師にしているとか。ただ、それなりの仕事と快適な環境を提供してくれる椎名社長と、依怙贔屓されている愛坂さんに直接物を言うことはできないようですね」


桜子は水を一口飲んで喉を潤した。


「椎名社長は取り引き先で礼儀作法を馬鹿にされたり、契約を結べなかった結果、なんとか礼儀作法を身に着けて今は問題無いようなのですけれど、根がそういう人間だからなのか、娘可愛さに目が曇っているのか、わかっていても女優病を発症している娘に手が付けられないのか、礼儀作法についてはあまり教育できなかったようですね」

「都の言っていた通り、他に育てるべき花の種はあるのに、我が子を優先して自分で首を絞めているってことか」

「はい」

「成程なあ」

「フフッ、食事作法はここ数日でかなり改善していますよ。恋は人を変えますからね」

「ハハッ、仰る通りで・・・」


俺は立ち上がった。


「桜子、話があるのを忘れていた」

「なんでしょう」

「愛坂の指導が終わったら、新しいメイドを雇うぞ」

「まあ・・・。それはそれは・・・」


桜子は薄っすらと笑い、瞳をサファイア色に煌めかせる。


「お前のリクエストを聞いてやろうと思ってな」

「では、酢豚をお願いします」

「わかった。じゃあな」


俺はトレーニングルームを出た。桜子も完全に『こちら側』だ。千代も桜子も優秀で、都も気に入っている。とはいえ、これ以上増えたら流石に、


『鬱陶しい』


・・・かもしれない。

今後はどうするのか都に聞きに行こうと、俺は階段を登った。
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