百八十一話 お礼

文字数 2,812文字

「・・・さて、ジャスミン。皆の前で話があるから、来なさい」


ジャスミンは怒られるのがわかっているのか、そおーっと談話室に入ってきて、都の隣に座った。


「ジャスミン、愛情を試す行為は、愛情を貶す行為と同じなのよ?」


蓋し名言だ。


「いつものフードもおやつも、皆からお許しが出てからよ。貴方が反省している姿を、皆にたっぷりと見てもらわないとね。千代さん」

「はァい!」


千代は談話室を出ると、すぐに戻ってきた。腕の中には、白いレースがどっさりと着いた黒い衣装。途端にジャスミンがきゅんきゅんと鳴きだして、ぐねんぐねんとのたうつように都に腹を見せる。


「ジャスミン! 往生せい!」


千代が仁王立ちで言う。ジャスミンはゆっくりと座り、項垂れた。千代はジャスミンのワインレッドの首輪を外すと、蝶々結びの黒いリボンが沢山付いた首輪を着け直し、ジャスミンにオテとオカワリをさせながら、犬用の服を着せた。所謂『ゴスロリ』の服である。40kgを超えるデカい雄犬が、ふりっふりでふわっふわの服を着させられてしょんぼりと俯いている姿は、可愛いのに哀愁を誘う。まだ都が説教をしている途中なので、俺達は笑いを堪えようとしたが、結局、堪え切れなかった。


「今日『は』それで勘弁してあげるわ。明日は蜜蜂のコスプレよ。中畑さんが出ていくまでの間は毎日着てもらうから覚悟しなさい」


ぶうん、と鼻を鳴らして、ジャスミンは大きな身体をゆさゆさと揺らしながら談話室を出ていった。

一週間が過ぎた。

都は順調に回復している。三日で自力で座れるようになり、五日で立てるようになり、そして、今日。介助を受けながら、少しだけ部屋の中を歩くことができた。淳蔵と美代の喜びようったらない。淳蔵は羽根をばさばさと広げてがぁーがぁー喚き、美代はぴょんぴょん跳ねた拍子にひっくり返って起き上がれなくなってじたばたしながら転がっていた。

食器やペンを持つことはまだ難しいので、ハンドグリップで握力を鍛える。ベッドに腰掛けた都は、10kgのハンドグリップで手を震わせて苦労しているので、隣に座って見守っていた俺は都の身体の後ろから腕を回し、都の手に自分の手を添えた。


「これじゃペットボトルも開けられないよ・・・」

「焦らなくていいから」


都に合わせて、ゆっくりとハンドグリップを握る。


「ん、ん・・・」


都の真剣な表情。横顔が、可愛い。車椅子生活が始まる前の都は、知識と経験と努力に裏付けられた自信に溢れていて、慈愛を体現したように優しく、血に塗れて笑う姿は恐ろしかった。そして、この世のどんな存在よりも美しい。本来なら、俺などでは手が届かない存在だ。それが今は、俺の腕に抱かれて、俺の手の中で小さくて細い手を必死に握りしめようとしている。

不謹慎は俺の息の根を止めるかもしれない。

都に介護の役目について相談された時、俺は嬉しかった。淳蔵の機動力と、仕事の内容を理解して代行できる美代の頭脳から考えて、消去法で俺が選ばれたのかもしれないが、それでも嬉しかった。俺にだけ弱った姿を見せる都を、心底愛おしいと感じた。幼女のように泣いて食事を嫌がった時は、心臓が握り潰されたかのようにつらくて堪らなかったのに、同時にドキドキと高鳴って、鳴り止まなかった。

都の人差し指の下に俺の人差し指を潜り込ませて、ぴん、と弾く。そのまま他の指も絡めると、かちゃん、と音を立ててハンドグリップが床に落ちた。都の首筋に顔をうずめて、舌で舐め上げる。


「ひっ、ちょ、ちょっと、」


胸を掴んで揉むと、柔い肉が指から零れ落ちた。くらくらする。舐めているだけで舌からビリビリと快楽が広がる。俺が洗った肌だ。俺が汚している。淳蔵と美代がうるさい。俺は都をベッドに押し倒して、顔中を舐め回した。

ばさばさっ。

ばさばさばさっ。

ばさばさばさばさっ。

がちゃ。


「直治さん、なにやってるのかな?」


美代の声。興奮していた俺は一瞬で冷静になって、そっと振り返った。美代は腕を組んで笑っている。部屋中に淳蔵の鴉が溢れていた。鴉を使って鍵を開けたらしい。


「ちょ、ちょっと待ってくれ、俺が悪かっ、」


物凄い破裂音。頬の痛み。ぐるんと回転する視界。引っ叩かれたと理解が追い付くまで、数秒かかった。


「正座して待ってろ」

「は、はい・・・」


美代が都を抱き上げ、風呂場に連れていく。都の顔を洗いに行ったらしい。


『馬ッ鹿じゃねえのお前』


肩に飛び乗ってきた淳蔵が責める。俺は黙って頭を下げてコクコクと頷いた。都を抱いた美代が戻ってきて、ベッドに都を寝かせて布団をかけると、俺の前で仁王立ちになった。


「やる気あんのかお前」

「あ、あります」

「都とヤる気か?」

「ち、違います」

「じゃあ俺と闘る気か」

「滅相もございません」


くすくす、と都が笑う。胸の上に淳蔵を乗せて、背中をゆっくりと撫でていた。


「美代、許してあげなよ」

「うん。一時間ね」


美代は都に微笑んで言ったあと、無表情で俺を見下ろして、風呂場を指差した。俺は二度頷いて、脱衣所に入る。美代も入ってくると、黙って床を指差した。俺は大人しく正座し、首を垂れる。きっちりがっつりみっちり一時間説教され、解放された頃にはゴリッゴリッに精神を削られていた。


「仕事に戻れ」

「はい・・・」

「淳蔵、戻るぞ」

『おー』


美代の本体が部屋を出ていき、淳蔵も一羽を残して窓から出ていった。残った一羽は都の頬に引っ付いていて、都は気持ち良さそうに寝ている。美代は都の胸元に乗って、じっ、とこちらを見ていた。鼠でも美代は怖い。俺は大人しく仕事に向き直った。暫くすると頬が痛んできたので、そーっと動いて都の熱冷ましシートを一枚拝借し、頬に貼った。

時間が経って、夜。

食事の席。中畑は来たばかりの頃の、ある意味での『純真無垢』と『天真爛漫』を失い、小さな物音一つに怯えながら、粛々と日々を送っている。ジャスミンは犬用の藍色の浴衣を着させられていて、淳蔵と美代の間を行ったり来たりしていた。可愛さをアピールしてどうにか許してもらいたいらしい。

食事を終え、部屋に戻る。


「直治」

「ん?」

「久しぶりに湯船に浸かりたい」

「わかった」


握力も無く震える手では、まだ一人で排泄もできないし、風呂にも入れない。排泄の介助をしたあと、湯船にお湯を貯め、風呂場に連れていき、シャワーで身体の汚れを軽く落としてから、湯船の中に凭れ掛からせるように座らせる。


「ねえ」

「ん?」

「しゃぶらせてよ」


ぴた、と俺は固まった。都はまだ満足に動けないのに、捕食者の目をしている。


「・・・俺への詫びは、最後でいいって、」

「『お詫び』じゃなくて『お礼』。介護ってストレス溜まるでしょ? 二十四時間、私と一緒でさ」

「そ、そんなことは・・・」

「さっきは我慢できなくて爆発しちゃったんでしょ?」

「う・・・」

「お口の気分じゃないなら、胸でもいいし、乳首舐めて齧ってあげてもいいよ」


駄目だ。


「・・・ね?」


都が、にやりと笑う。俺は、抗えなかった。
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