二百七十九話 君も間違うのだね
文字数 2,179文字
「お? 珍しい光景だな」
「ちょっとな」
いつもなら一番最後に談話室に来る直治が、ソファーに座ってジャスミンに膝枕をしている。寝心地が良くないのか、ジャスミンは微妙な表情だ。直治の目元は、少し赤い。俺はなにも気付いていない振りをして、雑誌を取ってソファーに座り、読み始めた。
「猿は追い払ったのか?」
「俺のこと『パワハラで訴える』って啖呵切ったからな。黙ってどっか行ったよ」
「おー、そうか」
俺は理由を聞かなかったのに直治から話し始めたので、相槌を打つ。そのまま少し雑談していると、美代がやってきた。美代もなにも気付いていない振りをした。直治が椿と文香の話をすると、美代は『そう』と言って小さく溜息を吐いた。
ぴんぽおん。
千代が談話室の前を駆けていく。と、一瞬、足音が止まった。そして再びぱたぱたと駆けていく音が聞こえると、入れ替わりに桜子を従えた都が談話室に現れた。
「お客様よ。美代、淳蔵の隣に」
「はい」
都は一番奥のソファーに座った。桜子は『失礼します』と断ってから美代の隣に座る。ジャスミンは起き上がりもしない。
「都さん、お客様をご案内しました」
「貴方も座って」
「はい」
千代が直治の隣に座る。客は、中年の和装の男だった。俺はこの人を知っている。『宝石商』の男だ。以前、若い姿と老いた姿を見た。今は丁度その中間の年頃で、目元があまりかわっていないので、人の顔と名前が覚えられない悪癖がある俺でも気付くことができた。いつもなら賓客として上座に通すのに、今日は下座に座らせる。
「挨拶は結構」
男が言った。
「なんのご用でしょうか?」
「真鍮と鉄で出来た指輪を手に入れてね」
男が右手を顔の前に翳す。その人差し指には、指輪が嵌められている。
「天使を使役する時は真鍮を、悪魔を使役する時は鉄の部分を相手に向けて、命じる」
「『ソロモンの指輪』ですか?」
都が薄く笑う。俺は寒気がした。それはつまり、この場に居る全員を意のままに操れる、ということなのか?
「君は昔、私にこう言ったね」
神は存在しない。
しかし神のような人間は存在する。
悪魔は存在しない。
しかし悪魔のような人間は存在する。
「私は君に問うた。何故、人間に拘るのかと」
進化も退化もしない生きものは面白くない。
不変は言い換えれば完璧である。
完璧な存在は面白くない。
鑑賞はできても干渉はできないから。
「だから君は卑小な人間に拘る。君は、」
男は右手の人差し指で都を指差し、
「孤独な生きものだ」
と言った。都の薄い笑みは、どこか挑発するようだった。
「孤独なのは、貴方ですよ」
都は男の仕草を真似るように、右手を顔の前に翳す。
「このちっぽけな手の平で、髪を梳き、頬を撫で、背を抱くだけで、私は有り余る程の幸福を感じるのです。それと同時に、不快なものには手を翳すだけで殺意が芽生える時すらある」
都の手の平の先には男が座っているのに、都は臆することなくそう言い切る。
「貴方は? 手に入れたものは指を締め付ける支配だけ。それを使ってエルサレムに再び神殿でも造るのですか?」
都が手を降ろす。
「君は嫌な女だ」
男は顔を顰め、俯いた。
「私が何度宝石を贈っても拒んで送り返してきたのに、卑小な人間共のためなら正規の手順で宝石を買う」
男は溜息を吐いた。
「私には何百もの妻と妾が居た。私は妻と妾を等しく愛していた。だから彼女達のために彼女達が信じる神を私も信じた。しかし神は、そんな私を愛さなかった」
都の笑みは、冷たい。
「信ずることが愛ならば、私はただ一人だけを愛さなければいけなかったということさ。しかし神は敬虔であれば等しく愛する。ならば神は誰も愛していないということになる」
男は自虐するように笑う。
「ただ一人だけ・・・」
そう言って、都を見る。
「君の美貌は神を堕とし悪魔を虜にする。そして人間を狂わせる。完璧に美しい君を、私は鑑賞することしかできなかった」
男は再び、手を顔の前に翳した。
「君に干渉できるかな?」
長く短い沈黙。
「・・・やーめた!」
男は笑って手を下げた。
「手首ごと切り落とされたら目も当てられないからね」
男が立ち上がる。
「見送りは結構」
「人間は王にしかなれませんよ」
都の言葉に、去ろうとした男が少し驚いた表情をする。
「君も間違うのだね」
男は微笑む。
「人間は英雄にもなれるのだよ」
男は、去っていった。
「直治」
都が直治の名を呼ぶ。
「・・・部屋に来る?」
少し言いづらそうに言う。直治は目を細めた。睨んでいるのか悩んでいるのか。
「二人でお話しようよ」
直治は頷いた。ソファーから立ち上がると、ジャスミンの頭がゴロンと落ちる。ジャスミンは構わずそのまま微妙な表情で寝続けている。
「千代さん、桜子さん、あとはよろしくね」
「はァい!」
「はい」
都と直治が談話室を出たあとに、千代と桜子も談話室を出る。
「・・・あの『エロジジイ』も都に惚れてたってわけか」
「都が俺達の前で口汚く罵るわけだ」
「直治は・・・」
「文香君が贔屓されてるのが頭にキたんだろうね」
「それで我が家専属のセラピードックに癒してもらっていたと」
「今の台詞を聞いたかジャスミン。お前の『仕事』なんだからもっと愛想良くしたらどうだ」
ぱたぱた、とジャスミンは尻尾でソファーを叩いた。
「『ちゃんと尻尾振ってます』だってよ」
「ムカつく犬だ・・・」
ジャスミンはむくりと起き上がり、ソファーを降りて談話室を去っていった。
「ちょっとな」
いつもなら一番最後に談話室に来る直治が、ソファーに座ってジャスミンに膝枕をしている。寝心地が良くないのか、ジャスミンは微妙な表情だ。直治の目元は、少し赤い。俺はなにも気付いていない振りをして、雑誌を取ってソファーに座り、読み始めた。
「猿は追い払ったのか?」
「俺のこと『パワハラで訴える』って啖呵切ったからな。黙ってどっか行ったよ」
「おー、そうか」
俺は理由を聞かなかったのに直治から話し始めたので、相槌を打つ。そのまま少し雑談していると、美代がやってきた。美代もなにも気付いていない振りをした。直治が椿と文香の話をすると、美代は『そう』と言って小さく溜息を吐いた。
ぴんぽおん。
千代が談話室の前を駆けていく。と、一瞬、足音が止まった。そして再びぱたぱたと駆けていく音が聞こえると、入れ替わりに桜子を従えた都が談話室に現れた。
「お客様よ。美代、淳蔵の隣に」
「はい」
都は一番奥のソファーに座った。桜子は『失礼します』と断ってから美代の隣に座る。ジャスミンは起き上がりもしない。
「都さん、お客様をご案内しました」
「貴方も座って」
「はい」
千代が直治の隣に座る。客は、中年の和装の男だった。俺はこの人を知っている。『宝石商』の男だ。以前、若い姿と老いた姿を見た。今は丁度その中間の年頃で、目元があまりかわっていないので、人の顔と名前が覚えられない悪癖がある俺でも気付くことができた。いつもなら賓客として上座に通すのに、今日は下座に座らせる。
「挨拶は結構」
男が言った。
「なんのご用でしょうか?」
「真鍮と鉄で出来た指輪を手に入れてね」
男が右手を顔の前に翳す。その人差し指には、指輪が嵌められている。
「天使を使役する時は真鍮を、悪魔を使役する時は鉄の部分を相手に向けて、命じる」
「『ソロモンの指輪』ですか?」
都が薄く笑う。俺は寒気がした。それはつまり、この場に居る全員を意のままに操れる、ということなのか?
「君は昔、私にこう言ったね」
神は存在しない。
しかし神のような人間は存在する。
悪魔は存在しない。
しかし悪魔のような人間は存在する。
「私は君に問うた。何故、人間に拘るのかと」
進化も退化もしない生きものは面白くない。
不変は言い換えれば完璧である。
完璧な存在は面白くない。
鑑賞はできても干渉はできないから。
「だから君は卑小な人間に拘る。君は、」
男は右手の人差し指で都を指差し、
「孤独な生きものだ」
と言った。都の薄い笑みは、どこか挑発するようだった。
「孤独なのは、貴方ですよ」
都は男の仕草を真似るように、右手を顔の前に翳す。
「このちっぽけな手の平で、髪を梳き、頬を撫で、背を抱くだけで、私は有り余る程の幸福を感じるのです。それと同時に、不快なものには手を翳すだけで殺意が芽生える時すらある」
都の手の平の先には男が座っているのに、都は臆することなくそう言い切る。
「貴方は? 手に入れたものは指を締め付ける支配だけ。それを使ってエルサレムに再び神殿でも造るのですか?」
都が手を降ろす。
「君は嫌な女だ」
男は顔を顰め、俯いた。
「私が何度宝石を贈っても拒んで送り返してきたのに、卑小な人間共のためなら正規の手順で宝石を買う」
男は溜息を吐いた。
「私には何百もの妻と妾が居た。私は妻と妾を等しく愛していた。だから彼女達のために彼女達が信じる神を私も信じた。しかし神は、そんな私を愛さなかった」
都の笑みは、冷たい。
「信ずることが愛ならば、私はただ一人だけを愛さなければいけなかったということさ。しかし神は敬虔であれば等しく愛する。ならば神は誰も愛していないということになる」
男は自虐するように笑う。
「ただ一人だけ・・・」
そう言って、都を見る。
「君の美貌は神を堕とし悪魔を虜にする。そして人間を狂わせる。完璧に美しい君を、私は鑑賞することしかできなかった」
男は再び、手を顔の前に翳した。
「君に干渉できるかな?」
長く短い沈黙。
「・・・やーめた!」
男は笑って手を下げた。
「手首ごと切り落とされたら目も当てられないからね」
男が立ち上がる。
「見送りは結構」
「人間は王にしかなれませんよ」
都の言葉に、去ろうとした男が少し驚いた表情をする。
「君も間違うのだね」
男は微笑む。
「人間は英雄にもなれるのだよ」
男は、去っていった。
「直治」
都が直治の名を呼ぶ。
「・・・部屋に来る?」
少し言いづらそうに言う。直治は目を細めた。睨んでいるのか悩んでいるのか。
「二人でお話しようよ」
直治は頷いた。ソファーから立ち上がると、ジャスミンの頭がゴロンと落ちる。ジャスミンは構わずそのまま微妙な表情で寝続けている。
「千代さん、桜子さん、あとはよろしくね」
「はァい!」
「はい」
都と直治が談話室を出たあとに、千代と桜子も談話室を出る。
「・・・あの『エロジジイ』も都に惚れてたってわけか」
「都が俺達の前で口汚く罵るわけだ」
「直治は・・・」
「文香君が贔屓されてるのが頭にキたんだろうね」
「それで我が家専属のセラピードックに癒してもらっていたと」
「今の台詞を聞いたかジャスミン。お前の『仕事』なんだからもっと愛想良くしたらどうだ」
ぱたぱた、とジャスミンは尻尾でソファーを叩いた。
「『ちゃんと尻尾振ってます』だってよ」
「ムカつく犬だ・・・」
ジャスミンはむくりと起き上がり、ソファーを降りて談話室を去っていった。