三百四十五話 異常事態

文字数 2,013文字

異常事態だ。

淳蔵が都を避けている。

何故か、つらそうに。

食事の席にも姿を現さない。何故避けられているのか、都は心当たりが無いと言う。俺や美代が問い詰めても、千代や桜子がそれとなく聞いても、申し訳なさそうに笑って謝るだけで理由は言わない。談話室にも来ない。

こんこん。


「どうぞ」

『失礼します』


紫苑が事務室に来た。


「どうした?」

「あの・・・。淳蔵様が、暫くピアノのレッスンを休みたいと仰いまして・・・」

「そうか・・・」

「体調が悪いのでしょうか? 最近のレッスンも上の空でしたし、ひろも心配しています」

「二歳児にまでバレちまうとは重症だな・・・」


俺がなんとかする、か。


「紫苑、千代がキッチンに居るはずだから、千代から仕事を貰ってくれ。俺は淳蔵と少し話をしてくる」

「わかりました。失礼します」


俺は淳蔵の部屋に向かった。ノックをするが返答は無い。携帯でメッセージを送ってみる。こちらも返答無し。どうしたものか。


「・・・ジャスミン、鍵を開けろ」


カチャ。


「良い子だ。来週のおやつは期待していいぞ」


俺は部屋に入った。トイレのドアが開いている。三つ編みにした髪を右肩に垂らした淳蔵が真っ青な顔をしてトイレから出てきた。


「・・・なんだよ」


力無く言う。


「どうしたんだ、淳蔵」

「・・・俺の問題なんだ。ごめん」

「いい加減にしろ」


淳蔵が目を逸らす。


「もうお前だけの問題じゃないんだぞ。ひろまでお前の様子がおかしいことに気付いてる。一人でどうにもできないなら誰かに相談しろ」

「なお、うっ・・・」


淳蔵は慌てて口をおさえてトイレに戻った。苦しそうに吐いている音が聞こえる。部屋に残るべきか出るべきか迷って、


「淳蔵、落ち着いたら俺に話してくれ。頼む」


と伝えて、部屋を出た。カチャ、と鍵が閉まる。俺は事務室に戻り、仕事を再開する。一時間程でプライベート用の携帯に淳蔵からメッセージが来た。


『ごめん。文字で伝えさせてほしい』


仕事を中断し、返信する。


『わかった』

『昔の商売をしていた時の夢を見て、都に近付けなくなった』


昔の、商売。クスリ欲しさに男に口で奉仕していたこと。


『都とキスしたり、一緒に食事をしたり、話したり、できなくなった』


携帯を見つめる。仕事もプライベートも可能な限り迅速に返信する淳蔵が、時間をかけて文字を打ち込んでいることは想像に難くなかった。


『自分のことが気持ち悪くて許せない』


どうすべきか、考える。


『なんとかするから、もう少しだけ待ってほしい』

『事情は伏せて、都にそう伝えるぞ。いいか?』

『わかった』


すぐに知らせてやるべきだろう。都に電話をかけると、ワンコール鳴り終わらないうちに電話に出た。


「直治です」

『どうしたの?』

「淳蔵と話をした」


電話の向こうで、すう、と息を吸い込む音がした。


「淳蔵は都を嫌になって避けてるんじゃない。寧ろその逆だ。もう少しだけ待っててやってくれないか?」

『・・・なにそれ。理由を教えてよ』

「言えない」

『・・・は? はあ?』


一瞬で、都は怒った。


『ねえなにそれ。嫌になって避けてるんじゃないってことは、好きだから避けてるってこと? そんなことあるの? どういうことよ?』

「落ち着いてくれ。淳蔵は、」

『落ち着け!? 落ち着けってなに!? 私がこの数日間、どんな思いで過ごしてきたと思ってるの!?』


これは『後遺症』が出てる、か?


『いつも通り『おはよう』って言っただけで泣きそうな顔されて、話しかけても『ごめん』って言って逃げるように私の前から居なくなって、話し合いにも応じてくれない! 私がどんな思いしてるか言ってみなさいよッ!』

「都、俺に八つ当たりするな」


沈黙。ブツッと電話が切られる。


「・・・八つ当たりするなというに」


独り言つ。俺まで都と気まずくなっちまった。

その日の昼食は、都も淳蔵も参加しなかった。

夕食前、食堂に行くと、いつもなら一番最後に来る都と、遅めに来る淳蔵が居て、二人でいつも通りに会話をしていた。


「あっ、直治、ちょっと」


都が立ち上がり、俺の腕を掴んで食堂の外に連れ出す。


「ごめんなさい。さっき八つ当たりして・・・」

「素直に謝れて偉い。許します」


ほっ、と都が安堵する。


「淳蔵と仲直りできたのか?」

「うん・・・」

「なら良かった」


都は少しだけ困ったように微笑んだ。穏やかな食事が始まる。俺達は大人なのでなにも言わなかったが、二歳児のひろはそうもいかない。


「あっちゃん、げんきになったの?」

「ん? ああ、うん。元気になったよ」

「みやこちゃん、よかったね!」


ぼふ、と音が聞こえそうな程、淳蔵は爆発したように顔を真っ赤にした。


「淳蔵、あとで話があるから俺の部屋に来いよ」

「はい・・・」


美代が客用のとびっきりの笑顔で言うが、長い付き合いでわかる。あれはお説教する顔だ。紫苑が焦った表情をしている。ひろの発言に対してなにを言うべきか考えているのだろう。


「紫苑」

「はい」

「『喧嘩する程仲が良い』って言うだろう。気にするな」

「は、はい」
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