百四十一話 眼鏡
文字数 2,279文字
ぱきっ。
「あ!」
俺の顔から、するりと眼鏡が落ちていった。都に貰ったお気に入りの眼鏡。フレームのブリッジの部分が真っ二つに割れている。
「大丈夫か? 破片とか目に入ってないか?」
直治が声をかけてくれたが、
「だ、大丈夫じゃない・・・」
と、余裕無く返答してしまった。
「お、俺の、お気に入りの、初めて都に貰った、大切な・・・」
十六歳、工場勤務をしていた頃。ずっとずっとずーっと同じ場所を見つめて、流れてくる部品を組み立てる細かい作業を続けて、視力がどんどん悪くなっていった。都に拾われて、仲良くなって、都の傍に居るのが心地良くなった頃。仕事をする都の横顔を眺めているのが好きだった。都がかけている眼鏡は、薄いベージュ色のシンプルなフレーム。丁番の部分に小さな薔薇が付いていて、とても可愛い。
『眼鏡が気になるの?』
書類を見ていた都が顔を上げて、俺を見る。
『あっ、ご、ごめんなさい』
『いいのよ。怒ってないから、怖がらないで』
都は眼鏡を外す。
俺の低下した視力は都の力で回復していたから、眼鏡は必要無い。それなのに、じろじろと見ていたので『物欲しそうな視線を送って卑しいヤツだ』と怒鳴られて、暴力を振るわれるイメージが鮮やかに脳内に再生される。俺は反射的に目をぎゅっと瞑ってしまった。
『美代』
都の優しい声。俺は恐る恐る目を開く。都がそっと、両手の上に眼鏡を乗せて俺に差し出す。
『かけてごらん』
そうっと受け取り、かけてみる。世界が少しだけ引き締まった気がした。
『細かい仕事をしていると、目が疲れるでしょう? だから、薄くしか度は入ってないの』
『そ、そうなんだ・・・』
『欲しい?』
『えっ・・・?』
『欲しいなら、『欲しい』ってちゃんと意思表示するの。欲しいものや、してほしいことがあったら、私に遠慮なく、なんでも言いなさいね。私は美代に、甘えてほしいな』
少し首を傾げて笑う都があんまりにも優しくて、俺は泣きそうになった。
欲しい、ほしい。
ごはんがほしい、おみずがほしい、といれにいかせてほしい、おふろにはいらせてほしい、きれいなふくがほしい、あなのあいていないくつがほしい、あめのひにかさがほしい、ふかふかのふとんがほしい。ゆっくりねむらせてほしい。
都が全て、叶えてくれる。
名前を呼んでほしい。褒めてほしい。慰めてほしい。励ましてほしい。一緒に居てほしい。怖くないよって言ってほしい。優しく触ってほしい。帰る場所であってほしい。愛してほしい。こんな俺に愛されても、嫌わないでほしい。
都が全て、叶えてくれる。
『都の眼鏡、とっても可愛いから、美代に、下さい・・・』
『いいよ。美代に、私の眼鏡、あげる』
凄く凄く嬉しかった。
「お、おおい、美代、泣くなって!」
「ご、ごめっ、ごめん、思い出の詰まった品だから・・・」
「あ、あー、都を呼んでくる・・・」
「頼む」
淳蔵が都を呼びに行った。
「ど、どうしよう、壊してごめんなさいって、あや、謝らなきゃ・・・」
「美代、『壊した』んじゃない。『壊れた』んだ。何十年も使ってただろ? 経年劣化で、壊れたんだ。お前がその眼鏡を大切に扱っていたことは、皆、知ってるから」
直治が慰めてくれた。その通りだと思うのに、どうしても謝らなくちゃという気持ちが強くなる。
「美代?」
都の声。淳蔵が都を連れて談話室に戻ってきた。
「あらあら、眼鏡が壊れたくらいでそんなに泣かなくても」
俺の隣に座り、ハンカチで涙を拭く。
「淳蔵」
「ん」
淳蔵が紙袋をテーブルの上に置いた。
「都の使ってない眼鏡だってさ」
「え・・・」
「ニ十個あるってさ」
淳蔵が中から眼鏡ケースを取り出し、テーブルの上に並べる。
「私ね、眼鏡の丁番って部分に飾りが付いてるのが好きで、可愛いと思ったらつい買っちゃうのよ」
ぱか、と都が眼鏡ケースを開けて眼鏡を取り出した。少し太めの黒いフレームの眼鏡で、丁番の部分に小さな蝶の片羽根が付いていた。
「花も三種類あって、ちょっとデザインが違うけど薔薇が付いてるのもあるわよ」
薔薇、百合、桜のモチーフが付いた可愛い眼鏡。
「この耳の垂れた犬。ジャスミンみたいでしょ?」
都は眼鏡のモチーフを指差して、笑う。
「あはっ、これね、エジプトの神様の『メジェド』っていうヤツなの」
シーツを被って素足だけ出しているような、シュールな顔つきの神様のモノもあった。
「全部、薄くしか度が入ってないけど、欲しいなら好きなだけ持ってっていいわよ。淳蔵も直治もね」
「おー、棚から牡丹餅だ」
「ええー? そんなこと言うほど?」
「言うほどだよ。ほれ、美代。はよ欲しいの選べ」
「・・・ふ、ははっ、あははっ。俺、これにするよ」
俺は笑って、薔薇のモチーフが付いている眼鏡を選んだ。薄いオレンジ色のフレームの眼鏡だ。
「オレンジの薔薇の花言葉って沢山あるんだけど、知ってる?」
俺達は顔を横に振る。
「情熱、熱望、誇り、爽やか、無邪気、絆、幸多かれ」
「んー、良いなァ」
「ベージュ色の薔薇ってあるのか?」
淳蔵と直治がそれぞれ眼鏡を手に取りながら言う。
「ベージュ色の薔薇、あるわよ。花言葉は、成熟した愛」
「・・・素敵だね」
俺はそっと、都の頬にキスをする。都の微笑みは、俺を拾ってくれた頃の微笑みとちっともかわっていない。ずっと昔から、俺を愛してくれているんだ。
「俺、これにしよっと」
「都、眼鏡ちょっと小さいんだが、どっか緩められるのか?」
「んー、お店に持って行って調節してもらった方がいいかな・・・」
談笑を心地良く聞きながら、俺は新しい眼鏡をかけた。世界が少し引き締まって見える。ぼやけていても、引き締まっていても、都の居る世界は美しかった。
「あ!」
俺の顔から、するりと眼鏡が落ちていった。都に貰ったお気に入りの眼鏡。フレームのブリッジの部分が真っ二つに割れている。
「大丈夫か? 破片とか目に入ってないか?」
直治が声をかけてくれたが、
「だ、大丈夫じゃない・・・」
と、余裕無く返答してしまった。
「お、俺の、お気に入りの、初めて都に貰った、大切な・・・」
十六歳、工場勤務をしていた頃。ずっとずっとずーっと同じ場所を見つめて、流れてくる部品を組み立てる細かい作業を続けて、視力がどんどん悪くなっていった。都に拾われて、仲良くなって、都の傍に居るのが心地良くなった頃。仕事をする都の横顔を眺めているのが好きだった。都がかけている眼鏡は、薄いベージュ色のシンプルなフレーム。丁番の部分に小さな薔薇が付いていて、とても可愛い。
『眼鏡が気になるの?』
書類を見ていた都が顔を上げて、俺を見る。
『あっ、ご、ごめんなさい』
『いいのよ。怒ってないから、怖がらないで』
都は眼鏡を外す。
俺の低下した視力は都の力で回復していたから、眼鏡は必要無い。それなのに、じろじろと見ていたので『物欲しそうな視線を送って卑しいヤツだ』と怒鳴られて、暴力を振るわれるイメージが鮮やかに脳内に再生される。俺は反射的に目をぎゅっと瞑ってしまった。
『美代』
都の優しい声。俺は恐る恐る目を開く。都がそっと、両手の上に眼鏡を乗せて俺に差し出す。
『かけてごらん』
そうっと受け取り、かけてみる。世界が少しだけ引き締まった気がした。
『細かい仕事をしていると、目が疲れるでしょう? だから、薄くしか度は入ってないの』
『そ、そうなんだ・・・』
『欲しい?』
『えっ・・・?』
『欲しいなら、『欲しい』ってちゃんと意思表示するの。欲しいものや、してほしいことがあったら、私に遠慮なく、なんでも言いなさいね。私は美代に、甘えてほしいな』
少し首を傾げて笑う都があんまりにも優しくて、俺は泣きそうになった。
欲しい、ほしい。
ごはんがほしい、おみずがほしい、といれにいかせてほしい、おふろにはいらせてほしい、きれいなふくがほしい、あなのあいていないくつがほしい、あめのひにかさがほしい、ふかふかのふとんがほしい。ゆっくりねむらせてほしい。
都が全て、叶えてくれる。
名前を呼んでほしい。褒めてほしい。慰めてほしい。励ましてほしい。一緒に居てほしい。怖くないよって言ってほしい。優しく触ってほしい。帰る場所であってほしい。愛してほしい。こんな俺に愛されても、嫌わないでほしい。
都が全て、叶えてくれる。
『都の眼鏡、とっても可愛いから、美代に、下さい・・・』
『いいよ。美代に、私の眼鏡、あげる』
凄く凄く嬉しかった。
「お、おおい、美代、泣くなって!」
「ご、ごめっ、ごめん、思い出の詰まった品だから・・・」
「あ、あー、都を呼んでくる・・・」
「頼む」
淳蔵が都を呼びに行った。
「ど、どうしよう、壊してごめんなさいって、あや、謝らなきゃ・・・」
「美代、『壊した』んじゃない。『壊れた』んだ。何十年も使ってただろ? 経年劣化で、壊れたんだ。お前がその眼鏡を大切に扱っていたことは、皆、知ってるから」
直治が慰めてくれた。その通りだと思うのに、どうしても謝らなくちゃという気持ちが強くなる。
「美代?」
都の声。淳蔵が都を連れて談話室に戻ってきた。
「あらあら、眼鏡が壊れたくらいでそんなに泣かなくても」
俺の隣に座り、ハンカチで涙を拭く。
「淳蔵」
「ん」
淳蔵が紙袋をテーブルの上に置いた。
「都の使ってない眼鏡だってさ」
「え・・・」
「ニ十個あるってさ」
淳蔵が中から眼鏡ケースを取り出し、テーブルの上に並べる。
「私ね、眼鏡の丁番って部分に飾りが付いてるのが好きで、可愛いと思ったらつい買っちゃうのよ」
ぱか、と都が眼鏡ケースを開けて眼鏡を取り出した。少し太めの黒いフレームの眼鏡で、丁番の部分に小さな蝶の片羽根が付いていた。
「花も三種類あって、ちょっとデザインが違うけど薔薇が付いてるのもあるわよ」
薔薇、百合、桜のモチーフが付いた可愛い眼鏡。
「この耳の垂れた犬。ジャスミンみたいでしょ?」
都は眼鏡のモチーフを指差して、笑う。
「あはっ、これね、エジプトの神様の『メジェド』っていうヤツなの」
シーツを被って素足だけ出しているような、シュールな顔つきの神様のモノもあった。
「全部、薄くしか度が入ってないけど、欲しいなら好きなだけ持ってっていいわよ。淳蔵も直治もね」
「おー、棚から牡丹餅だ」
「ええー? そんなこと言うほど?」
「言うほどだよ。ほれ、美代。はよ欲しいの選べ」
「・・・ふ、ははっ、あははっ。俺、これにするよ」
俺は笑って、薔薇のモチーフが付いている眼鏡を選んだ。薄いオレンジ色のフレームの眼鏡だ。
「オレンジの薔薇の花言葉って沢山あるんだけど、知ってる?」
俺達は顔を横に振る。
「情熱、熱望、誇り、爽やか、無邪気、絆、幸多かれ」
「んー、良いなァ」
「ベージュ色の薔薇ってあるのか?」
淳蔵と直治がそれぞれ眼鏡を手に取りながら言う。
「ベージュ色の薔薇、あるわよ。花言葉は、成熟した愛」
「・・・素敵だね」
俺はそっと、都の頬にキスをする。都の微笑みは、俺を拾ってくれた頃の微笑みとちっともかわっていない。ずっと昔から、俺を愛してくれているんだ。
「俺、これにしよっと」
「都、眼鏡ちょっと小さいんだが、どっか緩められるのか?」
「んー、お店に持って行って調節してもらった方がいいかな・・・」
談笑を心地良く聞きながら、俺は新しい眼鏡をかけた。世界が少し引き締まって見える。ぼやけていても、引き締まっていても、都の居る世界は美しかった。