百七十一話 涅槃に至る雫

文字数 2,407文字

直治が都の横に土下座をするような形でしゃがみこんだ。


『えっ?』


都以外、その場に居る全員の声が揃った。

直治は都の、シンプルなパンプスの爪先に口付ける。それも、角度を変えて何度も。そして舌を大きく広げると、べろ、べろ、と舐め始めた。

あの、直治が。

格好良くて、優しくて、海底から響くような低く落ち着いた声で話す直治が、鍛えた身体を箱のように小さく折り畳んで、靴なんていう、歩けばすぐ汚れるモノを、いつもとかわらぬ表情で舐めている。

鈴木一家は全員ぽかんと呆けていた。ばくおうが、


「ねえっ、ねえっ、あのおにーちゃん、あっちのおねーちゃんのおくつぺろぺろしてるよ! なんでっ? なんでっ?」


と家族に声をかけ、ぷみるが、


「ばっちばっちねー! ばっちばっちよー!」


と直治を指差して笑う。直治は静かに立ち上がり、両手を軽く叩き合わせて砂を落とすと、手の甲で口元を拭った。


「えぇ・・・。マジ・・・? やっばぁ・・・」


靴を舐めろ、と言った張本人のじゅきあが、顔を引き攣らせる。


「・・・気ッ持ち悪い。あんたら、気持ち悪いわ」


母親が都に向かって言った。


「イカれとるわ・・・」


父親が都に向かって言った。

そのまま、父親と母親は子供達には目もくれずに山を降りていく。じゅきあは中指を立てて見せ付けると逃げるように両親のあとに続き、じゅえりは訴えかけるように都をじっと見つめたあと、諦めたのか、背を向けてとぼとぼと歩き出す。ぐりむがばくおうを、てぃふぁにぃがぷみるを抱いてあとに続き、他の子供達も山を降りていった。


「うーん、徒歩で山を登る根性とあの図太さがあるなら、どこででも働けそうなものなのにねえ・・・」


都が腕を組み、首を捻る。


「淳蔵、美代、直治。助けに来てくれてありがとう。数の暴力で押されるかと思っちゃった」

「い、いや、俺はなにも・・・」

「あの、それより直治が・・・」


直治は何事もなかったかのように涼しい顔をしている。


「・・・そうね。直治に『ご褒美』をあげなくちゃね」


都が自分の人差し指に噛み付いた。

がぶり。

途端に俺達は立っていられなくなった。濃密な血のにおい。俺達にとって『都の血』は、どんな蜜よりも甘く、どんな毒よりも痺れて、生きながら涅槃に至ることができる究極の雫だ。


「直治、指を噛まないでね」


都は膝から崩れ落ちた直治の顎を右手で掴んで上げさせ、噛んだ左手の人差し指を直治の口の中に入れる。


「あっ、あっ、あ・・・」


理性は一瞬しか持たなかったらしい。直治の表情はとろっとろっに蕩けて、全身の筋肉を弛緩させていた。


「あ・・・あぁ・・・」


気付いた時には都は居なくなっていて、淳蔵は四つん這いになって荒い呼吸を繰り返していた。直治は恍惚の表情で横向きに倒れていて、時折、びくんっびくんっと身体を震わせている。


「・・・あ、あつぞう」

「・・・ンだよ」

「な、なおじ、へやにはこんであげなくちゃ・・・」


俺も呂律が回らない。視界の端で、館のドアが開いて千代が出てくるのが見えた。


「おおっ? 大丈夫、ではありませんねェ」


ひょい、と千代が直治を抱え上げる。


「中畑さんは都さんがお裁縫を教えるという名目で見張ってくださっていますので、迎えに来ましたァ! 直治さんはお部屋に運びますねェ! 淳蔵さん、美代さん、一人で立てますか?」


淳蔵は無言で立ち上がったが、ふらふらしていた。


「ち、ちよくん、かた、かして・・・」

「どうぞどうぞ」


俺は千代の身体を猿が木を登るようにして立ち上がる。館に戻り、必死に手摺りを掴んで階段を登り、自室に戻る。ベッドに倒れ込むとあっという間に意識が無くなった。その日の夕食と、翌日の朝食と昼食に直治は参加しなかったが、談話室にはいつも通りの時間に現れた。


「腹減った」

「なんか食えよ」


直治のデカい独り言に、淳蔵が雑誌を読みながら答える。


「都を喰いたい」

「殺すぞ」


直治は顔を両手で覆うと、洗うように撫で始めた。


「抜けるのに一日かかっちまった・・・。いや、まだ抜け切ってないんだが・・・」

「都も都だよ。俺と美代まで巻き込んで・・・」

「室内でやられなくてよかったよ。全員馬鹿になってたところだ」


淳蔵が雑誌を畳む。


「なんなんだァ? 昨日の馬鹿共は。流石の俺でも一発で顔と名前を覚えちまったよ」

「俺、自分の名前嫌いなんだけど、あいつらの名前を聞いた時は『美代で良かった』と思っちゃったよ」

「所謂『キラキラネーム』や『DQNネーム』ってヤツだな。一体どういう字で書くのやら・・・」


かちゃかちゃ。ジャスミンの爪が固い床に当たって鳴る独特の足音。


「で? 馬鹿犬。また都を刺激して愛情表現してんのか、俺達をおちょくったのか、どっちだ?」


オテ、オカワリ、オテ、オカワリ。機嫌が良い時にやる仕草。


「はっ、お前、毎日林檎食ってるから、肉に臭みが無くて美味そうだな」


直治が言うと、ジャスミンは『きゅうん』と情けない鳴き声を上げて談話室の入り口から逃げるように去っていく。


「クソッ、都を喰いたいッ・・・! 俺なら余すことなく都を喰えるのにッ・・・!」

「おお、こわ。ホテルの肉料理担当の男が言う台詞は一味違うね」


俺が茶化すと、淳蔵もおどけて肩を竦めた。


「気持ちはわかるがな。都の血は薬の何億倍も気持ち良いからなァ。しかも美味いときた。肉や内臓を喰っちまったら、二度と他の食べものを受け付けなくなるんじゃねえの?」

「皮や髪の毛も・・・。骨だって・・・」


直治は今にも都に喰らい付きそうな表情をしていたので、俺は茶化したことを後悔した。


「直治、キッチンに行ってなにか胃に詰め込んでこい。空腹だから余計なことばかり考えるんだ。早く行け」


直治は黙って談話室を出ていった。


「あいつ、大丈夫かね?」

「直治が都に手を出したら、都が泣いて嫌がっても俺が直治を殺す。そのあとお前を謀殺して都を独り占めするから大丈夫だ」

「ぜーんぜん大丈夫じゃないんですけど・・・」


淳蔵が苦笑する。俺も笑った。
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