三百三十八話 紫苑とひろ

文字数 2,674文字

姫子のターゲットが淳蔵一人になった。俺は叩いた張本人だし、直治も優しくしなかったらしいので当然の結果だろう。俺が談話室から去ったあとに『ギイーッ』は出たらしい。淳蔵は『醜悪って言葉を体現してた』と言い、直治は『人間も動物なんだなって思った』と言っていた。露骨に都に喧嘩を売る頻度は下がったので、淳蔵には悪いが良しとしたい。


「都さァん! サラダのドレッシング、どうですかァ?」

「凄く美味しいわ。人参のドレッシングなの?」

「そうですぅ! 庭で採れた人参ですよォ! 現在、人参ジュースも研究中ですので、楽しみにしていてくださいませませェ!」

「千代さん、いつも畑の世話をありがとうね」


最愛のご主人様に喜んでもらえて自分も嬉しい黒猫。姫子はつまらなさそうな顔をして無言で食事をしている。今まで煩かったので有難い。が、こういう女は表立って暴れられなくなると陰でこそこそと悪いことをしようとする。ジャスミンが居るので全て失敗するか、上手くいっても未遂に終わるだろうが、都を敵対視するメイドが居る時は日々が少しつらい。早く解放されて肉を喰って終わりたいものだ。

ぴんぽおん。


「ありゃ? 見てきます」


千代と入れ違いにジャスミンが食堂に入ってきて、都の太腿に顎を乗せる。都はジャスミンを見ながら、静かになにかを考え始めた。俺達は顔を見合わせた。嫌な予感がする。都は何故かにやりと笑うと、食事の最中だというのに黙って席を立ち、食堂を出ていってしまった。ジャスミンが尻尾をブンブンと振りながらくるくるとその場で回転し、『ハフッ』と鳴き声ともつかない鳴き声を上げると、都に続いて食堂を出た。


「なあ、嫌な予感がするから見てきていいよな?」

「俺も見に行く」

「行かない選択肢はないだろ」


俺達が立ち上がると、姫子も立ち上がった。


「えーっ! 淳蔵様が見に行くならひめも行きますう!」

「桜子、お前も来い」

「わかりました」


直治が言わなくても桜子が一人で食事を続けるなんてことはしないが、桜子も立ち上がった。間違いなく玄関だろう。揃って玄関まで行くと、女が土下座しているのを都と千代が見下ろしていた。女の横には幼い男の子も居て、土下座の意味がわからないのか、不思議そうに母親を見つめている。


「えっ!? なんで土下座してるのっ? オモシロッ」


姫子が言う。こいつホント馬鹿だな。


「ほら、紫苑さん、頭を上げてください」

「で、ですが一条様・・・」

「貴方、上司の顔を見ずに働くつもりですか?」


うわ、嫌な予感が当たった。直治が鼻から盛大に溜息を吐いている。


「あ、あの・・・」

「あら、それとも社長の命令が聞けない従業員なのかしら?」

「いえ! あの、すみません、失礼します・・・」


紫苑、は、清潔感はあるが、痩せたというよりは窶れた女だった。抱っこをせがまれて、男の子を抱き上げる。


「直治」

「はい」

「こちら、田口紫苑さん、二十八歳。こちらは息子のひろ君。二歳。今日からここでメイドとして雇うから」

「・・・わかりました」


ギギ、と直治が拳を握り締める音が聞こえた。


「改めて自己紹介を。私は一条都。社長です」


都が俺を見る。


「副社長の美代です」

「運転手の淳蔵です」

「管理人の直治です」

「メイド長の櫻田千代でェす!」

「副長の黒木桜子です」

「・・・姫子さん、貴方も自己紹介を」


都の言葉に、姫子は思いっ切り顔を顰めた。


「え? なんで?」

「紫苑さんを今日から一条家で雇うわ。姫子さんの後輩になるわね。だから自己紹介をしてください」

「はあ? え、嫌なんですけど。あのー、履歴書とか職務経歴書とか面接とか、しないんですか?」

「履歴書と職務経歴書なら受け取って、私が内容を確認したわよ」

「これッス!」


千代が書類を二枚、ぴら、と振る。


「面接なら今したわ」

「え、意味わかんないです。ずるくないですか?」

「なにが?」

「なにもかもがですけど? なんでその人を雇うんですか?」

「貴方なにか勘違いしてない?」

「なにも勘違いしてないですけど?」

「してるでしょう。最終的な決定権は社長の私にあるの。私が雇うと言ったら雇うの。わかる?」

「しょっけんらんよーじゃないですかそれ?」

「ええ、そうね。貴方、私のやり方が嫌なら仕事を辞めたら? それにこの仕事、向いてないみたいだしね?」


にっこり、都が笑う。


「は? これって『モラハラ』ですよね?」

「そう思うなら辞めたらどう? 自己紹介をしないならクビです」

「えーもう! 意味わかんなぁい! 淳蔵様ぁ!」


縋り付こうとした姫子の腕を、淳蔵は虫を払うようにして払いのけた。


「・・・馬場姫子です」


小さな声で、渋々言う。


「紫苑さんもどうぞ」


紫苑はすっかり姫子に畏縮している様子だが、男の子、ひろを抱いたまま頭を下げた。


「田口紫苑です。突然押し掛けて申し訳ありません。後ほど、事情を説明させてください。今日からお世話になります」

「ひろ、にさい!」


まだ場の空気を読めない子供だ。指を二本立ててそう言うと、母親である紫苑を見つめてにこりと笑う。


「ひろ君、自己紹介できるの、偉いね」


都が言う。


「おねーちゃんなんさいっ?」

「都ちゃんは十五歳だよ」


言ってる場合か?


「紫苑さん、安心してください。昔、子供の面倒を見たことがありますから、子育てにも協力できます」

「そっ、そんなとんでもない! 息子と一緒に住み込みで働かせていただけるだけで、私はもう、」

「はー、最悪っ! ひめ、子供大嫌い! 煩いし汚すし臭くて汚いし!」


紫苑が困惑二割、不満八割といった顔で姫子を見る。


「千代さん、ご飯はまだある?」

「ありまァす!」

「紫苑さん、昼食は摂りましたか? もしまだなら、是非ご一緒に」

「そ、そんな・・・」

「ここに来た経緯を話しながら、ですよ。どうです?」

「は、はい。ご一緒させていただきます」

「では、こちらに」


都と千代がすたすたと食堂に向かって歩いていく。こうなったら仕方がない。俺達も都のあとに続いて食堂に戻った。千代と桜子が紫苑とひろの分を新しく配膳する。


「ひろさっきたべたよ? ママまだだから、これママの?」

「ああ、うん・・・。ママはちょっとお話しするから、ひろ君、ちょっとだけ良い子にしててね」

「うん! これ、ひろもたべてもいいの?」

「あ、ちょっと待ってね。一条様、あの、」

「都と呼んでください。ひろ君、食べていいよ」

「いただきまーす!」

「都様、ありがとうございます」


ちゃんと躾けられているのか、二歳の子供にしては行儀が良い。比較対象は思い出したくもない『半田雅』だが。


「あの、皆様、説明させてください」

「どうぞ」


紫苑の説明が始まった。
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