二百六十七話 プールサイド

文字数 2,606文字

「なあ、美代」

「ん?」

「デートの計画をバラされないようにジャスミンを買収したのはわかる」

「うん」

「都の食い合わせの件については俺もさっぱりわからないが、千代と桜子に相談して都が喜ぶメニューを考えたのもわかる」

「うん」

「なんで俺が運転?」


俺は美代とジャスミンをドッグプールに連れていくため、車を運転させられていた。


「最後に車を運転したの、いつ?」

「・・・三週間前」

「流石に『淳蔵を見習え』とは言わないけど、ペーパードライバーになるのはまずいだろ」

「なにも言い返せねえ・・・」

「次、右折な」

「はい・・・」


ジャスミンは『道中で暴れないように』と美代が与えたトウモロコシで出来た食べられるおもちゃに夢中になっている。美代の案内に従い慎重に車を走らせ、無事にドッグプールに到着した。予約は美代がしているので、店員とのやりとりは任せる。二重扉を開け、シャワーブースでジャスミンの手足と尻周りを念入りに洗い、背中と腹の汚れも軽く落とす。犬用のライフジャケットを着せて、プールエリアに入った。


「ん? 貸し切りか?」

「いや、予約しただけだよ」


他の利用客は居ない。


「ジャスミン、飛び込みは禁止だぞ」


俺はジャスミンの首輪からリードを外した。ジャスミンは水深の浅いプールに入り、ごろんごろんと転がって派手な水飛沫を上げている。俺と美代はプールサイドでジャスミンを見守る。


「直治、話をしよう」


美代はジャスミンを見つめたまま、そう言った。


「お前、仕事の日はどんな一日を過ごしてる? 起きてから寝るまで、全部話してほしい」


意図がわからない。


「客の居る日か? 居ない日か?」

「居ない日」

「五時半までには起きて、床に脱ぎっぱなしにしてるジャージに着替えて庭の森を走る。帰ってきたらシャワーを浴びて歯を磨いて、六時半までには事務室に行く。四十五分頃に千代か桜子が出勤してくるから、それまでの間にその日のうちにやることを確認する。四十五分を過ぎたらキッチンに行って、食事当番の仕事を手伝う。七時に食堂で食事をする。事務室に帰ったら労働基準法に引っ掛からないように休憩を調節しながら仕事をする。休憩中は本を読む。十一時四十五分に食堂に行って、食事当番を手伝って、正午に食事をして、事務室に戻って仕事。二時になったら談話室に行ってお前と淳蔵と話す。三時になる前に事務室に戻って仕事、七時四十五分になったらキッチンに行って手伝って、八時に食事。メイドは『寂しがり屋な都様と夕食を摂る』って仕事が終わったら退勤するから、俺が後片付けをする。毎回、千代も桜子も手伝ってから退勤するけどな。事務室に帰ったら翌日の準備をして、地下室の点検をして九時までには仕事を終える。そのままトレーニングルームに行って身体を鍛えて、シャワーを浴びて歯を磨いて、部屋の電気を消してベッドに寝転びながら携帯を弄ってその日あったニュースを確認して寝る」


適度に息を吸いながら、俺はそう答えた。


「社畜なんですか?」

「お前が言う台詞か?」

「休みの日はなにをしてる?」

「おい勘弁してくれ」

「いいからいいから」

「起きて、ジャージに着替えて庭を走って、シャワーを浴びて歯を磨いて、飯食ったら自室に戻って、本を読むかゲームをする。疲れが溜まってたら昼寝もする。洗濯物が溜まってたら片付ける。正午には飯食って、昼過ぎには談話室に行ってお前らと喋って、八時になったら飯食って、地下室の点検をして、トレーニングをして、シャワーを浴びて歯を磨いて、ベッドで携帯弄ったあとにおやすみなさいだよ」

「毎日地下室点検してんのな」

「誰もやらねえからだよ」


嘘だ。本当は趣味である。


「直治、俺と約束してほしい」


美代は、一度も俺の顔を見ない。


「なにがあっても、これからもその生活を続けてほしい」


二年後の八月三十一日、以降も。

言外に滲んでいる。

俺は美代の意図がわかってしまった。


「いいぞ」


俺はすぐにそう答えた。美代が驚いた顔をして、漸く俺を見る。


「いいのか?」

「お前から言い出したくせに、なんなんだよ」

「・・・本当に、」

「しつこいぞ」


美代は薄く唇を開いたあと、瞬きをしながら視線を一度下に落とし、唇を噛み締めた。そして再び、唇を開いた。


「俺達は死なないけど、無敵ってわけじゃない」


『直治』


「都は俺達にそう教えてくれた」


『私が死んだら、悲しい?』


「・・・俺は『不老不死』を得たってことだと思った」


『私は、直治が死んだら、悲しい』


「でも、そうじゃない」


『淳蔵が、美代が、千代さんが、桜子さんが、なにをしてくれても、私は私じゃいられなくなる』


「無敵ってわけじゃないから、癒えない傷を負ったら、そのままだ」


『大丈夫だよ』


「都も・・・」


『誰も死なせない』


「癒えない傷のつらさで自分を見失ったら、そのままだ」


『私は死なない』


「だから俺達は、死んでしまう存在なんだよ」


俺は鼻から深く息を吸い、口から深く吐いた。


「哲学的な話がしたいのか? 『死』の定義をどうのこうのって」

「直治、」

「黙れ」


美代は口を噤んだが、物言いたげな表情をしている。


「思い上がるなよ」


俺は顔だけでなく、身体も美代の方に向ける。


「物知り顔でお説教か? 弟は馬鹿で短気だから優しく言って聞かせようって思ってんのかよ」


美代は苦い顔をする。


「約束してるのは、お前だけじゃねえんだよ」


俺は身体の向きを元に戻した。


「・・・ごめん、直治」

「話は終わりか?」

「終わりだよ。付き合ってくれてありがとう」


美代は少しだけ笑った。

話をして、良かったと、思う。

俺はいつも『都を信じる』と言いながら、自分を律しきれず、都に感情をぶつけて、ぶつけたあとに自分勝手な自責の念でグチャグチャになる。そんな俺をいつも許す、都の麻薬のような優しさにつけこんで、自分は愛されているんだと再確認する振りをして、都の愛情を試すような行為を、俺は、また。


『ジャスミン、愛情を試す行為は、愛情を貶す行為と同じなのよ?』


昔、都がジャスミンを叱る時に、こう言った。俺はそれを聞いて名言だと思った。馬鹿だ。俺は馬鹿だ。あの馬鹿犬以下だ。犬以下だ。ジャスミンは浅いプールに飽きたのか、深いプールに移動して泳ぎ始める。ジャスミンは不安を感じていないのだろうか。本当は不安なのに、明るく振舞っているだけなのだろうか。


「毎日楽しそうだなあ、お前は・・・」


俺が苦笑しながら言うと、美代も困ったように笑い、ジャスミンはニパッと笑った。
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