百三十八話 都の夢

文字数 2,737文字

都の感情が流れ込んでくる。

悔しい。悲しい。

もどかしい怒り。

強くなりたい。


『貴方の御爺様はね』


見知らぬ老婆。いや、目元が都に似ている。白髪交じりの黒髪をきっちりと結い上げ、品の良い着物を着て、お手本のように座布団の上に座っていた。老婆の前には、幼い都が座布団の上にお行儀よくちょこんと座っている。とても可愛い。


『誇り高き軍人だったのよ』

『ほこりたかき、ぐんじん?』

『とても情熱的な人だったわ。それが良いことだとは限らないけれどね』


老婆の口調は、余所行きの都にそっくりだった。

いや、

都が老婆にそっくりなんだ。この人は、都の祖母だ。


『貴方の母親、我が娘ながら見ていて吐き気がします。『オペラ歌手になりたい』だなんて浮ついたことを言って、挫折して、母親であるわたくしに甘えてこの家に住み着いている。寄生虫よ。人を見る目も無い。下賤な男と結婚したいがために、わたくしの忠告も聞かずに勝手に貴方を作って産んだ。都さん、貴方はあのような女になっては駄目よ』


都は悲しそうな顔をする。


『返事は?』

『はい・・・』

『わかるのです。わたくしはもう長くないことと、あの男、貴方の父親が、いつかきっと貴方を不幸にすることがね。だから、強くなりなさい、都さん。貴方は誇り高き夏彦御爺様と、一条家十五代目当主、一条都花の血を受け継ぐ、強く美しい存在なのですから・・・』


祖母が病死し、母を殺され、父を呪った都は、軍人であった祖父と、祖母の伝手を辿る。傍らにはいつもジャスミンが居て、都を見守っていた。

都は育ってきた胸を『さらし』でキツく巻く。これが痛い。俺には乳房なんて無いのに、都の気持ちがずっとずっと流れ込んできているから、つらかった。

屈強で厳格な男達に教えを乞い、肉体を鍛える。腕立て伏せや腹筋、背筋といった基礎的なトレーニングから始まる。都が自重すら支えきれなくなって倒れてしまっても、男達は甘やかさず、優しくせず、手を抜かない。都は吐くほど走らされたり、ぶちぶちと身体から嫌な音が聞こえるほど柔軟体操をさせられたりしていた。都は決して泣き言を言わなかった。

都の肉体が強くなってくると、戦闘訓練をする。柔道、剣道、銃剣術。ルールのない素手での殴り合い。木製のナイフを持った斬り合いもしていた。始めた頃は都の身体は痣だらけになっていて、鎮痛剤を飲んでも眠れない日々が続いた。都の目付きがどんどん鋭くなっていく。実弾を込めた銃を持った時は手が震えていて、それを見た教え役の男に手の震えがなくなるまで頬を引っ叩かれていた。見ていられないのに目が逸らせない。

都の初めての獲物は兎だった。

冬の山。猟銃を手に、都は教え役の猟師の男の指示に従う。興奮で熱くなる息を雪を食べて冷やす。都のために何人もの猟師が集まって兎を追い込んでいる。『巻狩り』という狩猟法らしい。仕留め損なうわけにはいかない。寒いのに暑い。不安定な足場を乗り越える。兎を追い込む声。兎の足跡を追う都。包囲網を縮める。

都の瞳が兎を捉えた。

乾いた発砲音。仕留められた兎。猟師達が都を褒める。初めてだとは思えない、才能がある、いっそ猟師になるか、など。都はそれをぼーっと聞いて、ただ銃の重みを感じていた。猟師達が兎の血抜きなどの下処理をするのを、都は見つめる。獲物を持って帰り、猟師達が都に説明しながら捌く。兎はさっきまで生きていた。内臓からは僅かに湯気が上がっていた。兎肉を使った料理を食べながら、都は教え役の猟師の男の話にじっと聞き入る。

確実に仕留めろ。

一発だ。

勝敗を決める遊びじゃない。

嬲るのは三流のすること。

殺すか殺されるかの、一度きりの真剣勝負だ。

いいな?


『はい』


都は大学に通いながら、祖母の関係者から仕事のなんたるかを叩きこまれる。海水の体積より多いんじゃないかという勉強量。侮辱されることも、無知を笑われることも、騙されることもあった。授業料を身体で払わせようとする輩も居た。都のこころから人間らしい感情が無くなっていく。一番の安寧の場所である自室に居る時でさえ落ち着かない。眠ると明日が来るのが嫌で、そのことを考えると頭痛がして、殆ど眠れないまま朝になる。隈を化粧で隠して、必死に笑って過ごした。

初めて殺した人間は、盗み癖のあるメイドだった。

世間知らずなお嬢様、と都を陰で馬鹿にしていたメイド。都は防空壕として作られた地下室にメイドを連れ込み、ナイフで殺し、この日のために用意した人体図鑑と実物を見比べながら、兎を思い出して捌く。血を啜り、肉を喰らい、骨を齧る。都は、罪人は殺してもいいのだと必死に自分に言い聞かせ、胃の中に詰め込んだモノを苦しみながら吐き出し、生きるために再び食べた。そこまでしてでも父親に復讐したかったのだ。そんな生活が何十年も続いた。

やがて、淳蔵がやってくる。

淳蔵は痩せていて、汚れていて、野犬の様だった。反抗的で、薬の禁断症状で手に負えない。それでも、世話をし続ければいつか愛を返してくれるのかもしれないと思った。無償の愛情を注げない自分に心底嫌気が差して、それが堪らなく悲しかった。だから、淳蔵が徐々にこころを開いて、都に初めて笑いかけた時、都は嬉しくて、初めて、生きていて良かったと思った。

次に俺がやってくる。

怯えている俺を壊さないように、そっと、そっと触れる。都は料理が苦手だ。それでも、自分が作った料理を食べて、頬が膨らんできた俺を見ると、嬉しかった。俺が都に徐々にこころを開いて、都に初めて笑いかけた時、都は俺達のためならなんでもしようと自分自身に誓った。

最後に直治がやってくる。

直治は大変だった。右も左もわからない。殆ど幼児のような状態で、感情が剥き出しだった。キツい言葉を浴びせられたり、怒鳴られたりしたときは怖かった。都は直治が怖かったんだ。長い年月をかけて直治が落ち着いて、身体も引き締まり始め、直治が都に徐々にこころを開いて、都に初めて笑いかけた時、都は一瞬、父親のことなんてどうでもよくなって、この幸せが永遠に続けばいいと思った。

都の感情が流れ込んでくる。

嬉しい。楽しい。

ずっとこのままでいたい。

強くなりたい。

守りたい。

なににかえても。

私の全てを捧げてもいい。

幸せにしてあげたい。

繋ぎとめていたい。

ずっと傍に。

なんて我儘なんだろう。

でも、自分の幸せを願うことは、我儘なんだろうか。

もし、

もし、『外』の世界に淳蔵と美代と直治の幸せがあるのなら、

悲しいけれど、寂しいけれど、引き留めてはいけない。

私は幸せだったから。

これ以上の我儘はいけない。

夜に一人、風呂場で泣ければそれでいい。

幸せになってほしい。

だからジャスミン。

幸せにしてあげて。


「都!」


俺は飛び起きた。涙がぼろぼろ溢れて止まらなかった。
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