二百八十一話 疲れ過ぎ
文字数 2,478文字
椿と裕美子の試用期間が終了して一ヵ月半、文香の試用期間が終了して一ヵ月になる。今はゴールデンウィークで、連日宿泊客が滞在している。淳蔵は自らを『客寄せパンダ』と言い、宿泊客が居ても談話室で雑誌を読み、会話を求められると応じている。淳蔵を尊敬するのは悔しいが、口下手な俺には到底真似できない程喋るのが上手い。都も淳蔵を信頼して評価しているので、忙しくて接客できない時は淳蔵がかわりに『夢』の話を聞くこともある。
「・・・とまあ、お客様用の笑顔の淳蔵さんを見たくて、ずーっと廊下を掃除しているんです、椿さん。掃除するところが無くなったらわざと汚して掃除してますぅ」
千代の報告に、俺は脱力するしかなかった。櫻田千代の仕事は完璧だ。説教もせずに帰ってくるはずがない。
「汚すってどこを・・・」
「床ですぅ! ジャスミンが粗相をしたと言って、お茶をブチ撒いてます! 在庫は減っていないので、前の買い出しの時に用意したみたいですねェ」
「淳蔵とお前が買い出し当番の時に強引に着いて行ったアレか」
「アレですニャ」
「そろそろ絞める、か・・・」
千代がチェシャ猫のように笑う。
「文香は修道院送りが決まった」
「あれま、本ができたんですか?」
「七月には店頭に並ぶ」
「んへぇ!?」
「十冊作るそうだ。そのうちの一冊は都に献本、一冊は文香の手元へ。残りの八冊を都の知り合いの店に並べるらしい。もしかしたら増刷が決まってベストセラー作家になるかもな」
「ロマンですねェ!」
「ロマンだな。というわけで文香は七月までの我慢だ」
「問題はウキウキさんですかァ」
「このことを知ったら確実に『蹴り落とす』だろうな」
「下手しなくても死んじゃいますよォ? どうするんですか?」
「『縁の紐』を切るらしい」
「ほ? えにしのひも?」
「『運命の赤い糸』は知ってるだろ?」
「左手の小指同士を結んでいる赤い糸、ですか」
千代が左手の小指をピンと立てる。
「都は人間関係を『糸』で例えた。丁寧に紡いで美しい糸を作る人間も居れば、面倒臭がって適当に捩って質の悪い糸を作る人間も居る。これをお互いに結び合って『糸電話』をするんだと」
俺も左手の小指を立てた。
「糸の繊維、撚り方、結び方は人それぞれだ。やり方次第では相手を縛り付けることもできる。文香は自分で作った糸で、自分の首を縛り付けている。だから喉につっかえて言葉がうまく出てこない。複雑に絡み合った糸は、やがて紐になり、縄になり、鎖になる。そうなる前に息を吸わせてやるんだとよ」
「んーニャるほどォ・・・?」
「今のでわかったか?」
「なんとなく」
「俺もなんとなくしかわかってない」
「展開の読めるお話は王道で面白くはありますが、慣れた人間にはつまらなく感じますからねェ」
「ハハ、わかったような口を利きやがる」
「これはこれは、失礼しました。あ、そういえば直治さんに内密のお話がありましてェ」
「なんだ?」
「都さんが『秘密のおやつ』にハマっていまして、自室の冷蔵庫で保存すると美代さんに見つかってしまうのでキッチンの冷蔵庫に隠しています。『アレ』は毎日食べていいような代物ではありませェん! 直治さんがお説教するのが一番かと思いまァす!」
「時間は?」
「午後十一時ですぅ!」
「わかった」
「では、失礼しまァす!」
千代が事務室を出ていく。いつまで経っても声がデカい女だ。しかしあの声に俺達は救われている。
「・・・ふぅー。頑張らないとな」
気持ちを切り替え、仕事に打ち込んだ。
午後十一時。
メイド達は仕事を終え、美代も自室で休んでいる時間。俺は明かりを落としたキッチンに蛇を潜ませ、本体はキッチンと繋がる食堂の陰に隠れて、待つ。
都が来た。
きょろきょろと辺りを見回し、そっと、冷蔵庫を開ける。取り出したのは生クリームだった。スマートパックタイプのそれを、ゼリー飲料を飲むようにちうちうと吸っている。
「こんばんは、お嬢さん」
びくんっと都の身体が跳ねた。そしてゆっくりと振り返る。
「こ、こんばんは、おじさん・・・」
「こんなところで、なにをしていたのかな?」
「お、おやつを・・・」
「おやつの時間にしては随分と遅いね」
「あ、あのっ、お砂糖、お砂糖入ってないからっ、ね?」
「生クリームを飲むな生クリームを」
「ううー・・・」
「都、猿とコバンザメ、そろそろ絞めないか?」
都はぱちぱちと瞬いた。
「忙しい八月が終わったら、皆で祝杯を上げたいだろ?」
「魅力的なお誘いだけど、メイドの数を減らしていいの?」
「満室が一ヵ月続いても平気だ。千代と桜子だけで事足りる」
「じゃあ、六月末に二人共絞めちゃいましょうか」
「餃子祭りだな」
「あ、そうそう、明日はちょっと部屋で探し物をするから、文香さんはお休みってことにしてあるの。たまにはお喋りしてらっしゃいって言ったから、お昼過ぎに談話室に行くかもしれないわ」
「邪険に扱うなと?」
「その通り」
「わかりました」
都はにっこりと笑った。
「で? ソレ、あといくつ隠してあるんだ?」
途端に拗ねた顔になった。
「二十個くらい・・・ですかね・・・?」
「数を把握しきれない程あると?」
「うーっ! 二日に一回にするから!」
「三日」
「ぐっ、うう、わ、わかった! わかりました! 三日に一回にします!」
「部屋に戻って歯を磨いたら寝なさい」
「はい! おやすみなさい!」
都はしっかりと生クリームを握りしめたまま、キッチンから退散していった。
「・・・はあ。頭の中がゴチャゴチャしてきた」
ちりりと燃えてなくなる小さな思考が他の小さな思考に引火し、やがて粉塵爆発を起こして脳の容量を全て使ってしまって、何事からも鈍くなってしまう。
「・・・疲れが溜まってるんだな」
原因はハッキリわかっている。今日はいつもより早く寝て、明日はいつもより遅く起きよう。朝食のトーストに塗るバターとジャムの量も多めにしよう。俺は取り敢えず今日の分の疲れを取ろうと、宿泊客に提供するためにストックしてあるスティックシュガーの封を二つ開け、口の中に流し込んだ。やたらと美味く感じる。やっぱり疲れている。部屋に戻ってシャワーを浴び、歯を磨いてとっとと寝た。
「・・・とまあ、お客様用の笑顔の淳蔵さんを見たくて、ずーっと廊下を掃除しているんです、椿さん。掃除するところが無くなったらわざと汚して掃除してますぅ」
千代の報告に、俺は脱力するしかなかった。櫻田千代の仕事は完璧だ。説教もせずに帰ってくるはずがない。
「汚すってどこを・・・」
「床ですぅ! ジャスミンが粗相をしたと言って、お茶をブチ撒いてます! 在庫は減っていないので、前の買い出しの時に用意したみたいですねェ」
「淳蔵とお前が買い出し当番の時に強引に着いて行ったアレか」
「アレですニャ」
「そろそろ絞める、か・・・」
千代がチェシャ猫のように笑う。
「文香は修道院送りが決まった」
「あれま、本ができたんですか?」
「七月には店頭に並ぶ」
「んへぇ!?」
「十冊作るそうだ。そのうちの一冊は都に献本、一冊は文香の手元へ。残りの八冊を都の知り合いの店に並べるらしい。もしかしたら増刷が決まってベストセラー作家になるかもな」
「ロマンですねェ!」
「ロマンだな。というわけで文香は七月までの我慢だ」
「問題はウキウキさんですかァ」
「このことを知ったら確実に『蹴り落とす』だろうな」
「下手しなくても死んじゃいますよォ? どうするんですか?」
「『縁の紐』を切るらしい」
「ほ? えにしのひも?」
「『運命の赤い糸』は知ってるだろ?」
「左手の小指同士を結んでいる赤い糸、ですか」
千代が左手の小指をピンと立てる。
「都は人間関係を『糸』で例えた。丁寧に紡いで美しい糸を作る人間も居れば、面倒臭がって適当に捩って質の悪い糸を作る人間も居る。これをお互いに結び合って『糸電話』をするんだと」
俺も左手の小指を立てた。
「糸の繊維、撚り方、結び方は人それぞれだ。やり方次第では相手を縛り付けることもできる。文香は自分で作った糸で、自分の首を縛り付けている。だから喉につっかえて言葉がうまく出てこない。複雑に絡み合った糸は、やがて紐になり、縄になり、鎖になる。そうなる前に息を吸わせてやるんだとよ」
「んーニャるほどォ・・・?」
「今のでわかったか?」
「なんとなく」
「俺もなんとなくしかわかってない」
「展開の読めるお話は王道で面白くはありますが、慣れた人間にはつまらなく感じますからねェ」
「ハハ、わかったような口を利きやがる」
「これはこれは、失礼しました。あ、そういえば直治さんに内密のお話がありましてェ」
「なんだ?」
「都さんが『秘密のおやつ』にハマっていまして、自室の冷蔵庫で保存すると美代さんに見つかってしまうのでキッチンの冷蔵庫に隠しています。『アレ』は毎日食べていいような代物ではありませェん! 直治さんがお説教するのが一番かと思いまァす!」
「時間は?」
「午後十一時ですぅ!」
「わかった」
「では、失礼しまァす!」
千代が事務室を出ていく。いつまで経っても声がデカい女だ。しかしあの声に俺達は救われている。
「・・・ふぅー。頑張らないとな」
気持ちを切り替え、仕事に打ち込んだ。
午後十一時。
メイド達は仕事を終え、美代も自室で休んでいる時間。俺は明かりを落としたキッチンに蛇を潜ませ、本体はキッチンと繋がる食堂の陰に隠れて、待つ。
都が来た。
きょろきょろと辺りを見回し、そっと、冷蔵庫を開ける。取り出したのは生クリームだった。スマートパックタイプのそれを、ゼリー飲料を飲むようにちうちうと吸っている。
「こんばんは、お嬢さん」
びくんっと都の身体が跳ねた。そしてゆっくりと振り返る。
「こ、こんばんは、おじさん・・・」
「こんなところで、なにをしていたのかな?」
「お、おやつを・・・」
「おやつの時間にしては随分と遅いね」
「あ、あのっ、お砂糖、お砂糖入ってないからっ、ね?」
「生クリームを飲むな生クリームを」
「ううー・・・」
「都、猿とコバンザメ、そろそろ絞めないか?」
都はぱちぱちと瞬いた。
「忙しい八月が終わったら、皆で祝杯を上げたいだろ?」
「魅力的なお誘いだけど、メイドの数を減らしていいの?」
「満室が一ヵ月続いても平気だ。千代と桜子だけで事足りる」
「じゃあ、六月末に二人共絞めちゃいましょうか」
「餃子祭りだな」
「あ、そうそう、明日はちょっと部屋で探し物をするから、文香さんはお休みってことにしてあるの。たまにはお喋りしてらっしゃいって言ったから、お昼過ぎに談話室に行くかもしれないわ」
「邪険に扱うなと?」
「その通り」
「わかりました」
都はにっこりと笑った。
「で? ソレ、あといくつ隠してあるんだ?」
途端に拗ねた顔になった。
「二十個くらい・・・ですかね・・・?」
「数を把握しきれない程あると?」
「うーっ! 二日に一回にするから!」
「三日」
「ぐっ、うう、わ、わかった! わかりました! 三日に一回にします!」
「部屋に戻って歯を磨いたら寝なさい」
「はい! おやすみなさい!」
都はしっかりと生クリームを握りしめたまま、キッチンから退散していった。
「・・・はあ。頭の中がゴチャゴチャしてきた」
ちりりと燃えてなくなる小さな思考が他の小さな思考に引火し、やがて粉塵爆発を起こして脳の容量を全て使ってしまって、何事からも鈍くなってしまう。
「・・・疲れが溜まってるんだな」
原因はハッキリわかっている。今日はいつもより早く寝て、明日はいつもより遅く起きよう。朝食のトーストに塗るバターとジャムの量も多めにしよう。俺は取り敢えず今日の分の疲れを取ろうと、宿泊客に提供するためにストックしてあるスティックシュガーの封を二つ開け、口の中に流し込んだ。やたらと美味く感じる。やっぱり疲れている。部屋に戻ってシャワーを浴び、歯を磨いてとっとと寝た。