三百一話 帰還

文字数 1,701文字

都が旅立ってから一年が経った。まだ暑い九月の夕暮れ、俺は鴉を飛ばし続けている。

ドタドタと荒い足音。

ノック無しで開いたドア。

『白い男』が焦った表情で、空中に指で文字を書く。エノク語であろう複雑な動きなのに、何故か俺はなにを書いているのかすぐにわかった。


『C A R』


肺が、一瞬で満杯まで空気を吸い込んだ。俺は車の鍵を持ってジャスミンと共に部屋を飛び出した。駐車場、俺が運転席に乗るとジャスミンも助手席に乗る。ジャスミンが両手でなにかを広げるような仕草をすると、地図が現れた。不思議とそこが何処だかわかった。俺は急いで車を飛ばした。

夜。山の奥。腐葉土を踏みしめる。


「あっ・・・」


枯葉の上に横たわる小さな光。珍しい蜥蜴かなにかだと勘違いしたかった。手の平に乗る程の、小さな竜。生きているのか死んでいるのかもわからない。


「み、都ッ!!」


俺は慌ててハンカチを取り出し、都を包む。

ぐったりと柔らかく、酷く冷たい。

傷口から血が滴り落ちることはなかった。

助手席のジャスミンの膝の上。俺は鴉の身体で少しでも体温を移そうとする。車を飛ばしたいのに都の身体を揺らすことが怖くて、速度が出ない。じれったい。もどかしい。


『淳蔵、どうした?』


美代に話しかけられて、俺は山に鴉を置いたままなのを思い出した。


『いッ、今、お前一人か?』

『一人だよ』

『落ち着け、落ち着けよ。都が、都が帰ってきた』


美代が目を見開く。


『落ち着けよ、美代。酷い傷で、意識も無い。今、場所は・・・、』


俺は現在地を告げる。


『落ち着いて、今から言う物を準備してくれ。医務室にある、消毒と、傷の手当のできるものを一通りと、身体を、綺麗にしてやれるなにかと、部屋を暖かくして、柔らかい寝床も、』

『淳蔵』

『なんだ?』

『落ち着け』


一瞬、怒りが沸いた。俺は深呼吸を繰り返す。


『淳蔵。山の見張りは桜子君にかわってもらうから、鴉はシャットダウンして運転に集中しろ。玄関に千代君を待機させるから、帰ってきたらすぐ医務室に来い。直治と二人で待ってる』


直治には見せない方がいい。喉から出かけたその言葉を飲み込んだ。俺が逆の立場だったら、必ず直治を恨む。『俺を馬鹿にするな』と。慌てふためいて、傷だらけの都に縋り付いて、泣き狂うような、そんな真似はしないと。


『わかった。美代、もう一つ準備を。俺の部屋にあるオルゴール時計、金庫になっていて、中に都の血のカプセルがある。輸血できるかもしれない。鍵は、時計の針を八時三十一分に。鍵を閉めたら元の十二時二十五分に戻してくれ』

『わかった。またあとで』


美代が去っていく。数分で、桜子の蜂が山に行き渡った。鴉の目を閉じて目の前の運転に集中する。


「落ち着け・・・。落ち着け、一条淳蔵・・・」


田舎の道の荒さに車が揺れて、俺を苛つかせた。

無事に館に戻る。

駐車場に停めている余裕なんてない。館の入り口のギリギリに停めて、ジャスミンと共に車を降りる。千代がすぐに玄関の扉を開けた。真っ直ぐに医務室に向かう。美代と直治は、医務室の出入り口からベッドまでの動線を塞がないように立っていた。二人はジャスミンが包むようにしている手元を見て、言葉を詰まらせた。ジャスミンはベッドの枕をテーブルに置き、その上に都を乗せ、ハンカチを開く。明るい室内で、俺はハッキリと、都の傷付いた身体を見ることになってしまった。

身体のあちこちの肉が裂け、鱗が剥がれている。先端が斧のように尖った尻尾は、斧の刃が欠けたように肉そのものが無くなっていた。生命力を感じさせる一対の角は、片方は折れ、片方は根元からごっそりと無くなっている。爪も何本か無くなっている。空を飛ぶための立派な翼には大小様々な穴が開いていた。閉じられた目蓋は、片方は眼球の膨らみが無い。目が、無いんだ。

はあ、はあ。

呼吸が、苦しい。息が、息が苦しい。息ができない。ジャスミンが都の手当を始めている。俺は立っていられなくなって、ずるずるとその場にへたり込んだ。馬鹿な考えが頭に満ちる。駄目だと思っているのに抑えられない。

神様、

俺はどうなってもいいから、

都だけは・・・。

ジャスミンと、目が合った。ジャスミンは、にっこりと笑った。
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