二十五話 時は流れて

文字数 2,392文字

三年後、八月。美雪はまだ生きていた。

雅は都と聞き間違えるとややこしいという理由で『みーちゃん』と呼ばれ、順調に育っている。淳蔵は一度髪を引き千切られて以来、髪を結んでなるべく近寄らないようにしているようだが、みーちゃんは淳蔵が好きらしく、よく後を着いて回っている。


「いやぁ、実家は良いねぇ」


事務室で冷たいハーブティーを飲みながら、夏休みで帰ってきた美代が笑う。事務室に居るのはみーちゃんから逃げるためだ。


「美代、都に相談したんだが、二人で仕事を分担しないか? 宿泊客を増やしてもいいし、どっちかが都のサポートに回ってもいいと思うんだが」

「お、名案。いいね、そうしよう」

「なら、あとで都に、っ」

「どうした?」

「・・・擦れて痛いんだよ」


シャツを引っ張って胸との間に空間を作ると、美代は思いっきり溜息を吐いた。


「自慢ですかぁ直治さん。俺の居ない間につけこんで?」

「もうすぐ帰ってくるから言うけどな、かなり荒れたんだぞ。俺も淳蔵も大変だった」

「え・・・。そうなの?」

「お前の機嫌とってなんになるんだ」

「えー、やば、嬉しい・・・」

「良い事ばかりでもないかもな。みーちゃんの世話がある」

「ハハハ、淳蔵が愚痴ってたぞ。都が情けをかけて、美雪君が死ぬまでの間は美雪君に面倒見させてやってるんだろ?」

「美雪に車の免許もとらせた。淳蔵に送迎させてたらあいつストレスで過労死しちまうからな」

「そこまでする価値があるのかね・・・」


美代が考え込む。


「都ってなんであんなにえっちなんだろ」

「はあ?」

「俺達にとって都って命の恩人でもあるけどさぁ、命の恩人とご主人様ってのは全く別なわけで・・・」


美代は肩を竦ませ両手を広げた。


「都も俺達が初めての相手だって言ってたし」

「そんなこと聞いたのか?」

「聞いた」


怖いもの知らずだな、と感心する。


「お前、都が初めてしてくれた時のこと覚えてる?」

「覚えてねーよ」

「あ、覚えてるな。俺は肩を抱いて頬にキスしながらしごいてくれたんだけどさぁ」


機嫌が良いのかよく喋る。


「こなれてるえっちなお姉さんって感じではなかったんだよな。むしろ一生懸命やってくれてるような感じで・・・」


美代は言葉を区切った。


「淳蔵も似たような感じだったんだと。お前は?」

「覚えてねーよ!」

「いいじゃん聞かせろよ」


俺はシャツを引っ張った。


「・・・昔のこと思い出して吐いてたら、慰めてくれたんだよ」


直治。

私が怖いの?

・・・女が怖くなったの?

病気の時に追いかけ回してたから?

自信無くなっちゃった?

フフ、

じゃあ自信つけてあげるね。

・・・下手くそだけど、許してね。


「確かに最初の内は手探りって感じだったな。変なところに拘りだしたのは数年経ってからだ」

「乳首?」

「殺すぞ」

「お前なんで乳首虐められてんの?」

「知らねーよ!」

「うーん、わかんねえ・・・」


馬鹿馬鹿しいことで悩み始めたので、俺は背凭れに身体を預けて苛立ちを殺した。ぎし、と背凭れが鳴る。


『直治様、美代様、昼食ができました』


少し前に雇ったメイドの詩織が呼ぶ。俺と美代は事務室を出て食堂に向かった。


「やぁー! みーちゃん、パパとたべるのぉー!」


みーちゃんが淳蔵のズボンに抱き着いて駄々をこねていた。美雪がしゃがんでみーちゃんを引き剥がそうとしている。


「だから俺はパパじゃないって・・・」


淳蔵はくたびれていた。


「すみません淳蔵様! みーちゃん、淳蔵様にご迷惑をおかけするんじゃありません! ごはんはママと食べようね!」

「いーやー! ママきらいー! やーのぉー!」

「美雪さん、みーちゃんの分は貴方の隣に置きますから。直治様、わたくしは昼食は結構です。食事の時間は休憩時間とさせていただいてよろしいですか?」

「いいぞ」

「では失礼します」


詩織はきびきびとした動きで去っていった。


「今までにないタイプのメイドだな。なにをやらかしたの」


美代が耳打ちするので、俺も耳打ちで返す。


「幼児虐待で離婚。親権は父親に」


美代は一瞬きょとんとした後、失笑した。


「美雪さーん、またみーちゃん泣いてるのー?」

「あっ、あ、都様!」


ジャスミンを従えた都が食堂に入ってくると、みーちゃんは嘘のように泣き止んで淳蔵のズボンから離れ、今度は都の足に抱き着いた。


「こらこら、あんよにだっこしちゃ危ないよ」

「みやねえ、ママがいじわるするのぉ!」

「みーちゃん、ママはそんなことしないでしょう? ご飯はママと食べるの。そしたらおやつにゼリー食べていいから。わかった?」

「みーちゃんのすきないちごのやつ?」

「うん。苺のヤツ。ゼリー食べたらひらがなのお勉強しようね」

「わかったぁ!」


都があっという間にみーちゃんを説得すると、美雪は少し悲しそうな顔をした。


「す、すみません、都様・・・」

「仕事の息抜きしたかったからいいのよ。気にしないで。それより、」


都は美雪にもわかるよう、目だけ笑ってない笑みで、


「お行儀良くね」


と言った。美雪の背筋がぴんと伸びる。俺達の背筋も思わず伸びた。


「は、はい!」

「では、いただきましょう」


都はお嬢様だ。気さくな性格をしているから細かいところまでは拘らないが、必要最低限のマナーやルールは絶対に守らせる。例えば、口を開けてクチャクチャ音を立てて食事をしないだとか、どんなに仕事が忙しくても書類や携帯を持ち込まずに食べるだとか。俺達も拾われた頃はそれなりに厳しく躾けられた思い出がある。


「みーちゃん! スプーンで遊ばない! お口は閉じて食べて! ぐにゃぐにゃ座らない!」

「ううー! やっぱりママやあーだあー! みやねえ! パパー!」

「みーちゃん、お行儀よくね」


都が静かに食事を続けながら言う。淳蔵はぐったりした様子で、美代はかなり気まずそうに食事をしていた。俺は味がよくわからなかった。最初はさっさと死んでくれと思っていた美雪に、できるだけ長生きしてみーちゃんの世話を焼いてくれるよう、天に祈った。
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