三百三十六話 えんざいだ!

文字数 2,818文字

美代が姫子を引っ叩いた。


「美代!」


俺は慌てて立ち上がり、美代の肩を掴んだ。首を少し捻って俺を見た美代は、姫子を叩いたことをなんとも思っていない顔をしていた。


「ひだ、ひだい・・・」


淳蔵の足元に倒れ込んだ姫子が、震える手で叩かれた頬をおさえる。


「姫子君、従業員の君が社長の都をどう思おうと勝手だけど、口には出さないでね」


美代の言葉に淳蔵が物言いたげな顔をしたが、美代は構わず持ってきていたノートパソコンを操作してから折り畳むと、なにも言わずに談話室を出ていった。


「ギイーッ!」


不快な声。姫子は倒れ、頬をおさえた姿勢のまま、俺達を見上げている。


「ギイーッ!」


これ本当に人間か?


「ギイーッ!」

「・・・淳蔵、部屋に戻るんだろ?」


淳蔵は俺を気遣うように視線を送ってきたが、首を振って断った。


「じゃあ、また・・・」

「おう」


ラックに雑誌を戻し、淳蔵は談話室を出ていった。


「ギイーッ!」

「美代を訴えるんなら勝手にするんだな。証言はしてやるよ」

「ギイーッ!」

「ただし、物に当たったりしたら、弁償してもらうからな」

「ギイーッ!」

「お前、試用期間中だってことを忘れるなよ」

「ギイーッ!」

「・・・会話を放棄するならそれでもいい。じゃあな」


俺も談話室を出た。自室に戻ろうとしたタイミングでトレーニングルームから桜子が出てきたので、手招く。


「なんでしょう?」

「ちょっと話、いいか?」

「はい」

「中にどうぞ」

「失礼します」


二人で向かい合い、椅子に座る。


「お前に拍手を贈りたい」

「な、なんです急に?」

「姫子だよ。試用期間が終わったら絞めるって提案したのは桜子だろ?」

「あ・・・。もしかして、出ましたか、『アレ』が」

「出た。『アレ』が。美代がブッ飛ばしたおかげで頭が冷えた状態での遭遇だったんだが、それでも少し、いやかなり・・・」

「今『ブッ飛ばした』と不穏な言葉が聞こえた気がします」

「ん、詳しく説明するから聞いてくれ」

「はい」


談話室でなにがあったか説明すると、桜子は呆れた顔をした。


「歌、ですか。都様のトラウマですものね・・・」

「都を悪い方向に刺激する結果にならなければいいんだが・・・」

「あの、直治様」

「なんだ?」

「・・・都様の歌を聞いたことは、ありますか?」


俺は少し、言葉が詰まった。若い頃、寂しい夜に子守歌をねだってしまったことを思い出した。あの頃はなにも知らなかったとはいえ、歌うと母親のことを思い出してつらくなってしまう都に、子守歌だなんて幼稚な、馬鹿なことを。次に思い出したのは、美代の復讐の夜。不思議な歌を歌っていた。複雑に興奮していた俺の頭とこころは、都の歌声を聞いて、心地良く冷まされたように、ゆっくりと冷静になっていった。


「・・・ある」

「都様、最近、わたくしに歌を聞かせてくれるのです」

「へっ? 最近?」


思わず間抜けな声が出た。


「都様が『トラウマを克服したい』と、夜に一人で歌っていることがあるそうで、わたくし、その、聞きたいと我儘を。初めて聞いた時、号泣して呼吸困難になるかと思いました」

「ど、どういう状況だよ?」

「歌が、歌が、その、『僕が死のうと思ったのは』という曲名なのです」


桜子は口元を手でおさえた。


「わたくし、都様の過去を、何度か夢で・・・。都様達と出会うまでの空白を埋めるように、何度も何度も・・・」


じわ、と目に涙が浮かぶ。


「都様の過去と、悲しくも力強い歌声が合わさって、ですね。都様は恥ずかしがってわたくしに背を向けて歌っていまして、わたくしは最後まで聞きたくて声を殺して泣いていたのです」

「そう、か・・・」

「す、すみません、思い出したら泣きそうになってしまいました」

「桜子」

「はい」

「もう一度聞きたいか?」

「えっ? は、はい」

「部屋に戻って窓を開けろ。静かにしてろよ」

「は、はい。失礼します」


桜子が部屋を出てから、俺はプライベート用の携帯で都にメッセージを送る。


『会いたい』


淳蔵と美代にもメッセージを送る。


『美代の部屋で窓を開けて静かに待て』


都から返信がきた。


『どうしたの? 今どこ?』

『部屋。ちょっと待って』

『我儘やな! 千代さんとのお茶会は終わってるからいつでもいいよ』


数分して、淳蔵からも返信がきた。


『待機完了』


都に再びメッセージを送る。


『会いに来てください』


俺は部屋の窓を開けた。すぐに都は部屋に来た。


「どうしたの?」

「ずるい」

「ええっ? な、なにが?」

「桜子に歌を聞かせてるんだって?」

「えっ・・・」

「ジャスミンから聞いた」

「もう、あの子ったら・・・」

「俺にも歌ってくれよ」

「あの、でも、ちょっと悲しい曲しか練習してなくて、それでもいいの?」

「いい」

「恥ずかしいから、背中向けていい?」

「いい」


都が窓に近寄り、閉めようとしたので、


「そのままで」


と言った。都は恐らく気付いているが、気付かない振りをしてくれて、そのまま歌い始めた。


『僕が、死のうと、思ったのは。ウミネコが桟橋で鳴いたから。波の随意に、浮かんで消える、過去も啄んで、飛んでいけ』


少し低い、美しい声。


『僕が、死のうと、思ったのは。こころが空っぽになったから。満たされないと、泣いているのは、きっと満たされたいと、願うから』


中身がなにもない人生の虚無感を歌う。


『僕が、死のうと、思ったのは。靴紐が解けたから。結びなおすのは、苦手なんだよ、人との繋がりも、また然り』


段々と強くなる歌声。全身を使って歌っている。


『僕が、死のうと、思ったのは。冷たい人と言われたから。愛されたいと、泣いているのは、人の温もりを知ってしまったから』


諦観を孕んだ怒りを感じる。


『僕が、死のうと、思ったのは。貴方が綺麗に笑うから。死ぬことばかり、考えてしまうのは、きっと生きることに、真面目過ぎるから』


すう、と吸い込む息すら美しい。


『僕が、死のうと、思ったのは。まだ貴方に出会えてなかったから』


もし窓を閉めていたら、都の声の振動で割れていそうだ。


『貴方のような人が産まれた、世界を少し好きになったよ』


都が愛おしい。


『貴方のような人が生きてる、世界に少し、期待するよ』


山を越えて海にまで届きそうな伸びやかな歌声が、終わった。


「・・・お、終わりました」

「お疲れ様です」


俺はそう言って、都を後ろから抱きしめた。


「わっ、直治、急にどうし、わあっ!」


そのままベッドに連れ去り、覆い被さる。都は顔を赤くしていた。俺に押し倒された状況でそうなっているのではないことはすぐにわかった。


「愛してる」

「ば、馬鹿・・・」


唇を合わせる。都が目を閉じた隙を見計らって蛇を一匹出して、窓の外に向かわせた。窓がそのまま扉となり、ベランダに続く。淳蔵の鴉と美代の鼠がこちらを見ていた。


『ここから先は有料だ』

『そっちが金払え馬鹿野郎』

『金貰っても要らねえよクソッタレ』


二人共、小声で言うと、部屋に戻っていった。

そのあと、ジャスミンにこれ以上ない程責めるような目で見つめられたので、謝罪と共にドッグカフェに連れて行くことを約束した。
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