二百三十九話 幸せのハードル

文字数 2,897文字

サラダのプチトマトを盛り付けていると、美代がキッチンに来た。


「桜子君が泣いちゃったよ」

「あ? 愛坂になんか言われたのか?」

「いや、『自分が至らなかったせいで直治様を追い詰めてしまって悲しい』ってな」


俺はサラダに息がかからないように、顔を逸らして溜息を吐く。


「畜生、ついカッとなっちまった。言うべきじゃなかった。俺のせいで桜子が泣くなんて、自分が情けない・・・」

「直治のせいじゃないよ。なんか手伝うか?」

「ゆで卵の殻を剥いて半分に切ってくれ」

「了解」


今日のメニューは、トースト、プチトマトとレタスのサラダ、半分に切ったゆで卵と焼いたベーコンを二枚。よく食べる俺と都と桜子はトーストを二枚、ベーコンを三枚にする。


「桜子はどうした?」

「淳蔵が自分の部屋に連れていった。慰めてるんだろ」

「妙に包容力のある男だな、あいつ」

「長男の器というかなんというか」

「若い頃はなんであんないい加減なヤツが長男で俺が末っ子なんだと思ってたが、今思うとこの順番が最適だし、しっくりくるな」

「ハハッ、俺もそう思う。ああ、そうそう、愛坂の部屋の片付けは千代君が手伝ってるよ。ついでに話もしてるんじゃないかな」

「あいつにも助けられてるな。しっかりしてるのに明るくて、場の雰囲気を和ませるのが上手い。争いの芽は適度に摘んで食べてくれてる」

「猫は古来より権力者を骨抜きにしてきた正真正銘の愛玩動物だからね。人間の友であるはずの犬は人をおちょくることしか考えてないし、あの馬鹿犬より働き者だよ千代君は」

「あの馬鹿犬の愛読書、『人をおちょくる50の方法』だろ」

「『パタリロ』とは懐かしい」

「都の愛読書なんだよなあ、『パタリロ』。教育に悪いからやめさせたいんだが・・・」

「あんなモン読んでたらお茶目にもなるよなあ・・・」


話しているうちに落ち着いてきた。愛坂の分まできっちり食事を作る。


「都の分を運んでくる」

「行ってらっしゃい」


食事を盆に乗せ、階段を登る。

こんこん。

少し間を置いてから、


『どうぞ』


と聞こえた。俺はドアを開けて中に入る。都は電話をしていた。


「ええ。三人居る指導係の内の二人が根を上げてしまいまして。窓ガラスは割るしテレビと椅子を壊すしで手が付けられませんよ」


俺と桜子のことだろう。怒鳴ったので都にも聞こえていたらしい。気まずい。都がテーブルを指差したので、俺はそっと食事を置く。都はそのまま、ソファーを指差した。俺は黙ってソファーに座った。


「弁償、と簡単に言いますけれど、ゼロが六つは付きますよ、いいんですか?」


都は仕事机の椅子から立ち上がり、俺の隣に座り直した。人差し指を唇の前に立てて『静かに』とジェスチャーをする。俺が頷くと、都は通話画面のスピーカーボタンを押した。椎名社長の声が聞こえてくる。


『申し訳ありません! 必ず弁償します!』

「いえ、結構です。支払う意思があるかどうか確認しただけですよ」

『そんなっ、必ずお支払いします!』

「椎名社長、私が今回、愛坂さんの指導を引き受けることにしたのは、愛坂さんに女優としての可能性を見出したわけでも、貴方の弱味を握ってビジネスに利用するためでもありません」

『で、では、何故・・・?』

「面談にメイドを二人、同席させたでしょう? 二人とも私の『お気に入り』なんですよ。可愛い顔をした方が『黒猫ちゃん』、綺麗な顔をした方が『蜂蜜ちゃん』です」

『はあ・・・?』

「黒猫ちゃんは我が家で暮らして長く経ちますから、色々と弁えております。でも、蜂蜜ちゃんは、まだ日が浅い上に、複雑な生い立ちを抱えています。蜂蜜ちゃんは我儘を一切言えないんですよ。愛坂さんとは正反対」


くすくす、と都が笑う。椎名社長が小さく呻いた。


「我儘を言うことはどれ程気持ちの良いことなのか、我儘を言い過ぎるとどんなにみっともないのか、我儘な人間にはどう接するべきなのか。『加減』というものを知るお手本として、我儘を極めている愛坂さんは理想の存在ですよ」


椎名社長は沈黙している。


「我儘を一切言えない蜂蜜ちゃんが、『もう限界です』と言って泣いたんですよ。素晴らしい成長だと思いませんか?」

『・・・貴方達は、真面目に愛坂の指導をしたのですか?』

「ええ、勿論。どれ程厳しく指導されたのかは、愛坂さん本人に聞けばわかりますよ」


椎名社長は再び沈黙する。


「本題に戻りますね。愛坂さんが望むのなら、引き続き指導を続けても構いませんよ。ただ、根を上げた二人に面倒を見させるのは可哀想なので、私ともう一人で指導をすることになりますが、愛坂さんがあまり無礼な態度を取り続けると、指導係の性格上、痛みを身体に擦り込んで教えることになりますね」

『手を上げると言うのですか!?』

「はい。それが嫌なら愛坂さんを迎えにきてください。無理ならタクシー代を出しますよ」

『あ、あんまりだ! 愛坂は女優なのですよ!? 女優は身体が資本で商品だ! それを叩く!?』

「嫌なら愛坂さんを迎えにきてください。無理ならタクシー代を出しますよ」

『そんな、指導すると言って、一度引き受けておいて反故にするなんて!』

「あんまりなのは愛坂さんですよ。部屋をしっちゃかめっちゃかにしたのは一体どこのどなた?」

『う・・・』

「どうするかは愛坂さんと相談して決めてください。この電話を切ったらすぐに、ですよ。朝食が冷めてしまうので失礼します。では」


都は電話を切ると、トーストにバターを塗り始めた。


「直治、幸せ過ぎても人間って駄目になるんだよ」


音も無くトーストを齧り、咀嚼し、嚥下する。


「幸せ過ぎると感覚が麻痺して、幸せ過ぎる状態が続かないと現状に満足できず、逆に不幸せになってしまう。或いは、ふとした瞬間に『いつかこの幸せは壊れるんじゃないか』と不安になる。漠然とした不安は良くない。自分を見失う。それが『退屈』って名前になるわけ」


再びトーストを齧り、咀嚼し、嚥下する。


「常に目標を、とは言わないけれど、緊張感がないとね。肌荒れに気を付けて食生活を乱さないようにするとか、健康に気を遣って適度に運動するとか、そういうレベルでいいんだ。ハハッ、美代がたまに自分へのご褒美としてピザ食べてるでしょ。あんなに美容に気を遣ってるのにさ。『自分へのご褒美』だなんて、なんて人間らしい感情なんだろうね。『幸せになる方法』の一つだよ。美代みたいなやり方を心得てないと、愛坂さんみたいになるってわけだ」

「幸せのハードルがどんどん上がっていって、十分幸せなはずなのに、不幸になっちまう。それが『我儘』になる、ってことか」

「そう。『感情のコントロールができない未熟者』。桜子さんは愛坂さんをそう呼んだ。でもね、間違ってるよ。感情はコントロールできるものではない。そこんとこ学習して、恥ずかしがったり怖がったりせず自己表現できるようになれば、私の目論見は成功ってわけ」

「『ショック療法』も度が過ぎると死んじまうぞ」

「そうなったら中身は食べて『ガワ』は剥製にするかな」

「おッかねえ・・・」

「ハハハ、今のは失言。はい、口止め料」


都はプチトマトをフォークで刺し、そっと、俺の口の前に持ってくる。俺は黙って受け取った。
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