二百七十一話 ヤングケアラー

文字数 2,323文字

俺達は少女の家に戻った。少女が泥まみれの自分の手を見つめると、泥はストンと床に落ちて、最初からなにも触っていなかったかのように綺麗になった。少女は両手を俺に差し出す。俺はそっと、少女の両手に自分の両手を乗せた。

俺は、セピア色の世界に居た。

少女の家だ。居間の一番奥には介護用の大きなベッドが置かれていて、老婆が仰向けに寝ている。床にはおもちゃが広がっていて、小さな男の子が遊んでいる。台所で料理をしているのは、疲れた顔をした少女だった。


『なあ、なあて』


老婆が声を発した。


『なあて! 腰が痛いんやけど!』


少女は慌てて料理を中断し、ベッドで眠る老婆に寝返りを打たせようとする。


『アホかお前は! さっきも右やったやないか! 左や左!』


老婆は一人で寝返りを打てないらしい。少女は老婆を左向きに寝かせようとする。老婆は少女の服を容赦なく掴み、支えにする。


『ッチ、なんべんやっても下手くそやわ』

「ごめんなさい」


悪態を吐く老婆に少女は謝罪する。


『ねえー! ごはんまだーっ?』


男の子が子供特有の舌っ足らずで甲高い声を上げる。


『おなかすいたぁ。まだなの?』

「ごめんなさい」

『もーっ! はやくしてよっ』


少女は謝罪をしてから、料理を再開する。男の子はおもちゃで遊ぶのに夢中になっていた。料理ができると、小さな卓袱台を出し、子供用の器に食事を盛って、卓袱台に置く。男の子はおもちゃ片手に食事を始めた。少女は介護食を老婆に食べさせ始める。


『あッつ! 火傷させる気かいな!』

「ごめんなさい」

『ねー、おちゃこぼしちゃったんだけどー』

「ごめんなさい」

『塩味濃いな。はよ死ねってか?』

「ごめんなさい」

『ねーえー! おかわりはやくいれてよっ!』

「ごめんなさい」


繰り返される謝罪。少女は家事に追われ続ける。老婆が鼾をかき、男の子が深く眠り始めると、少女は小さな卓袱台に教科書やノートを広げ、それを見ながらプリントの問題を解き始めた。日付もかわろうかという時刻に玄関の引き戸が開き、酷く疲れた様子の女が家の中に入ってきた。少女は慌てて卓袱台の上を片付けて、料理を温め直し、二人分配膳する。女は手に提げていたビニール袋からビールの缶を取り出し、開封すると飲み始めた。


『あんたなんでまだ学校の課題なんてやってんの』

「ごめんなさい」

『高校やめるんだからもうやんなくていいでしょ。資格の勉強してよ』

「ごめんなさい」

『婆ちゃん死ぬまでは家で介護してさ、それを強味に『介護の経験ある』って言って就職すればいいんだからさ、高校の課題はもういいでしょ。無駄なことやめてよ』

「ごめんなさい」

『婆ちゃん死ぬ頃には『いっくん』も大きくなって学校行くからさ、そしたら面倒見なくてよくなるから働けるっしょ。まあ、それまでの辛抱だから、頑張ってよ』


女はうんざりといった様子で溜息を吐き、小さく舌打ちをする。


『なんかさ、危機感足りなくない? お母さん一人じゃやってけないのわかってるよね?』

「ごめんなさい」

『なんで学校の課題なんてやってんのマジで。その時間をさ、内職探して稼げばさ、千円でも二千円でも家計の足しになるんじゃないの?』

「ごめんなさい」

『疲れて帰ってきてるんだから苛々させないでよ。全く・・・』


母親は食事を終えると化粧を落とし、少女の弟の『いっくん』に寄り添って寝始める。少女はそっと、狭い自室に戻る。

少女の記憶が流れ込んでくる。

父親が居た頃は幸せだった。母親も優しかった。きちんと愛情を貰えていた。ところが、中学二年生の秋に、母方の祖母が介護を受けなければ生きていけないようになってしまった。祖母は家族ではない人間から食事や入浴、排泄の介護を受けるのを恥ずかしがって嫌がって、唯一の家族である少女の母親が引き取ることになった。

祖母を引き取ってほんの数ヵ月で、母親の妊娠が発覚した。

少女は、妊娠中の母親の介助と、祖母の介護をするしかなかった。部活をやめて、友達と遊ぶのをやめて、やがて勉強もやめた。疲れ果て、授業中も眠くて集中できず、いつしか授業中に眠る罪悪感も無くなってしまった。成績はどんどん落ちていき、町の外の高校に進学するのを諦めて、偏差値の低い町の高校に通うようになった。

祖母の一言が、父親が出ていく理由を作った。


『この子は『恥かきっ子』だねえ。この子が居なけりゃ、うちはもう少し裕福なのにねえ』


父親は祖母に猛抗議したが、それを母親が庇ったことで、大喧嘩になった。夫婦仲はあっという間に冷え切り、二人は離婚して、父親は家を出ていった。一番の働き手を失い、生活水準がどんどん落ちてくると、祖母は少女につらく当たるようになった。母親は見て見ぬ振り。祖母の介護も、幼い弟の世話も、働く母親のサポートも、少女一人が我慢することで『家族』という形を作っていたのである。

少女は家族を愛していた。

誰も悪くないと思っていた。

だから我慢したのだ。

でも、こころのどこかで、誰かに助けてほしかった。高校の教師、クラスメート、近隣の住民、買い物先のスーパーの店員、すれ違う町の人々、父親。


「私、透明人間みたい・・・」


最後に名前を呼んでもらったのは、いつだったか。

熱で倒れ、意識が朦朧とする。

死ぬ。

寂しくて、悲しくて。でもそれは、解放でもあった。


「おやすみなさい。萌恵ちゃん・・・」


最後に自分の名前を呼んだのは、自分だった。


「あ・・・、」


俺は元の世界に戻ってきた。少女は無垢な瞳で俺を見つめている。俺の手を放し、少女は桜子の手を握った。桜子は数秒、放心したように固まったあと、目を見開いて息を吸った。


「貴方は、気付いて、ほしくて・・・」


桜子の言葉に、少女が、萌恵が頷く。


「ぶったりして、ごめんなさい」


萌恵は首を横に振った。
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