八十八話 胡蝶の夢
文字数 2,772文字
あれっ?
「俺、こんなところでなにしてるんだ・・・?」
トラックの荷台を開けて、俺は中を覗き込んでいた。トラックは有名な引っ越し会社のものだった。
「先輩! なにぼーっとしてるんですか! ちゃちゃっと片付けますよ!」
「え、あ・・・」
俺は自分の服が急に窮屈に感じて、引っ張って見る。恐らく制服であろうものを着ていた。
あ、仕事中だったのか。
俺は慌てて仕事に戻った。夜七時には仕事が終わって、俺はアパートに帰った。
「お、帰ってきた。おかえり」
淳蔵の髪が短い。いや、一般的な男性よりは長いんだが、肩に届くくらいまでしかなかったので、俺は吃驚した。
「淳蔵! お前、髪どうした!?」
「デカい声出すなって、隣に聞こえるだろ。タクシー運転する時に邪魔だから切ったんだよ。忘れたか?」
「・・・あ、あれ? そんなこと言ってたような気がしてきた」
「大丈夫か? 疲れてるんでないの?」
「ああ・・・うん・・・。美代と都は?」
「美代なら都の介護してるけど?」
「・・・は?」
淳蔵が指差した部屋の襖を開ける。
「お、直治、おかえり」
「美代、都は・・・」
「ん? 今、食事を摂らせてるけど?」
美代が粥を食べさせている人物は、女盛りの都ではなく、骨と皮だけになり、頭髪も殆ど無い老婆だった。肌はシミだらけ、皺だらけで垂れ下がっている。僅かに糞尿のにおいがした。
都?
この人が?
俺は、
「・・・ただいま、都」
都の頬に口付けた。都は俺を見て僅かに微笑む。目も見えていないし耳も聞こえていない。一人で立つことも、歩くこともできない。感覚だって鈍くなっているのに、俺達が触れると反応してくれる。それが嬉しくて仕方がない。
「ハハ、さっき淳蔵もそこにキスしてたから間接キスだな」
「うげぇ」
都はぺちゃぺちゃと音を鳴らしながら粥を食んでいる。
「美代。俺がかわるよ。飯を作ってくれ」
「ん、わかった」
そうだ、俺達は。
ジャスミンが死んで、館も森も山も燃えてあの場所を追いやられて。
都を連れてここに来た。
淳蔵はタクシーの運転手、俺は引っ越し業者の中途社員、美代は都の介護をするために専業主夫になったんだった。千代はどうしたんだっけ・・・。
狭くて汚いアパート。風呂やトイレ、全ての部屋を計算に入れても、館の自室の方が広いくらいだ。卓袱台を置いて三人座ればもう一杯になる居間で、俺達は美代の作った食事を摂る。栄養バランスや彩は良いが、インスタント食品や総菜なども混じっていた。
「なあ、なんかずっと違和感を覚えてるんだけど、お前らはどうよ」
淳蔵が言う。
「んー、俺もなんだよな」
美代が答える。
「・・・俺もだ。ずっと誰かに見られている気がする」
ぴたり、と三人の箸が止まった。美代がキッチンに行って包丁を手にする。そしてそれを鏡のように部屋の中に翳した。ぎらぎら輝く包丁に、倉橋の姿が映っていた。俺と淳蔵が倉橋の姿目掛けて飛びつく。卓袱台がひっくり返り、今日の夕食が宙を舞った。透明ななにかがじたばたと暴れている。倉橋は徐々に姿を現した。
「痛い痛い痛い! 悪かったって! 謝るから!」
「あーっ! 全部思い出したぞ! テメェ! 俺達になにしやがった!」
「死にたいのか全身落書き野郎!」
「野郎じゃねえッて! おわッ!?」
美代が俺達を巻き込んで倉橋に馬乗りになり、耳の横に包丁の刃を落とした。いや、耳を削ぐつもりだったのかもしれない。それを倉橋が顔を傾けることで躱した。
「なにが目的だ、倉橋」
美代は無表情になっている。
「へへへ、『胡蝶の夢』って知ってるか?」
「自分が胡蝶か胡蝶が自分か、夢が現実か現実が夢かわからなくなる話か?」
「そうさ。館での暮らしを追われて、都さんも醜いババアになっちまえば、精神的に弱ったお前らくらい喰い殺せるかと思ったんだが、忠誠心って本当にあるんだな。あんなババアにかわらず愛情を抱けるとは、恐れ入ったよ」
「どうやって俺達をこの状況に引き摺り込んだ?」
「お手製のオセロ盤さ。あれは細かい文字で呪文を書いて作ったモノだったんだよ。お前ら、私と都さんがコップを置く時にそれを目で追ってあちこち見てただろ? 完璧に術に嵌めることはできなかったが、いいとこまでいっただろ? 面白い夢を見られたんじゃねーの?」
「つまり、盤上を見ていた都と千代君もこんな夢を見てるってことか?」
倉橋は挑発的に笑って頷いた。
「どうやったら目が覚める?」
「これが夢だって気付いたんだから、あと五分もしないうちに目が覚めるって。なあ、次からはこんな騙し討ちみたいなことしねーから、仲良くしねえか? とりあえずその包丁を仕舞って、」
ヒュッ、と風切り音がして、ザクッ、と倉橋の胸に包丁が突き刺さった。美代は無言で包丁を振り上げ、振り下ろす。
「お、おい、美代・・・」
淳蔵がなんとか声をかけるが、巻き込まれそうなので危なくて止められない。美代は無表情で顔に返り血を浴びていた。
「・・・美代、ね」
刺された倉橋が息も絶え絶えに言う。
「・・・あんたが一番、厄介、だな」
そう笑った顔を最後に、俺が瞬きをすると、いつもの見慣れた天井が視界に映った。俺は慌てて部屋を飛び出る。淳蔵と美代も飛び出してきた。『ぐーちゃん』の時と同じだ。俺達は一目散に都の部屋に向かった。
どんどんッ!
『だ、誰? 何事?』
「都! 俺だ! 説明はあとでするから鍵を開けてくれッ!」
美代が叫ぶ。ガチャ、とドアが少し開いたのを、美代が乱暴に押し入って大きく開けた。
「ど、どうしたの?」
「変な夢見なかったか!?」
「ああ、千代さんが見たらしくて、今、私の部屋に居るわよ」
入ってすぐの部屋、仕事部屋兼リビングになっている部屋のソファーに千代が座っていて、都の部屋の冷蔵庫に入れていた都のお気に入りのプリンを三つも空けていた。
「あら、皆様お揃いでェ」
「・・・都は変な夢見なかったのか?」
「父親に襲われそうになったからぶっこ抜きジャーマンスープレックスかける夢なら見たけど」
「ぶ、ぶっこ・・・。そ、そうですか・・・」
淳蔵がくすっと笑った。美代が都に抱き着いて珍しく泣き始めたので、俺と淳蔵でなにがあったのかを説明する。
「成程ねえ。千代さん、明日の美代の食事当番、朝食だけでいいからかわってあげられる?」
「はい! プリン三個も頂いちゃったので、気合入れてお作りします!」
「淳蔵は明日、直治は明後日、私の部屋に来て。ゆっくりお喋りしましょう」
「おう」
「わかった」
「さて、と」
都は抱き着いていた美代をちょっと強引に引っぺがすと、ひょい、と華奢な女性を抱き上げるように美代を抱き上げた。
「エッ!? ちょ、ちょっと」
「じゃ、皆さん、おやすみなさい」
「み、みやこっ、恥ずかしいって!」
都と美代は寝室に消えていった。
「・・・千代、どんな夢見た?」
俺が問う。
「刑務所に入る夢、ですねェ」
俺と淳蔵は顔を見合わせ、苦笑した。
「俺、こんなところでなにしてるんだ・・・?」
トラックの荷台を開けて、俺は中を覗き込んでいた。トラックは有名な引っ越し会社のものだった。
「先輩! なにぼーっとしてるんですか! ちゃちゃっと片付けますよ!」
「え、あ・・・」
俺は自分の服が急に窮屈に感じて、引っ張って見る。恐らく制服であろうものを着ていた。
あ、仕事中だったのか。
俺は慌てて仕事に戻った。夜七時には仕事が終わって、俺はアパートに帰った。
「お、帰ってきた。おかえり」
淳蔵の髪が短い。いや、一般的な男性よりは長いんだが、肩に届くくらいまでしかなかったので、俺は吃驚した。
「淳蔵! お前、髪どうした!?」
「デカい声出すなって、隣に聞こえるだろ。タクシー運転する時に邪魔だから切ったんだよ。忘れたか?」
「・・・あ、あれ? そんなこと言ってたような気がしてきた」
「大丈夫か? 疲れてるんでないの?」
「ああ・・・うん・・・。美代と都は?」
「美代なら都の介護してるけど?」
「・・・は?」
淳蔵が指差した部屋の襖を開ける。
「お、直治、おかえり」
「美代、都は・・・」
「ん? 今、食事を摂らせてるけど?」
美代が粥を食べさせている人物は、女盛りの都ではなく、骨と皮だけになり、頭髪も殆ど無い老婆だった。肌はシミだらけ、皺だらけで垂れ下がっている。僅かに糞尿のにおいがした。
都?
この人が?
俺は、
「・・・ただいま、都」
都の頬に口付けた。都は俺を見て僅かに微笑む。目も見えていないし耳も聞こえていない。一人で立つことも、歩くこともできない。感覚だって鈍くなっているのに、俺達が触れると反応してくれる。それが嬉しくて仕方がない。
「ハハ、さっき淳蔵もそこにキスしてたから間接キスだな」
「うげぇ」
都はぺちゃぺちゃと音を鳴らしながら粥を食んでいる。
「美代。俺がかわるよ。飯を作ってくれ」
「ん、わかった」
そうだ、俺達は。
ジャスミンが死んで、館も森も山も燃えてあの場所を追いやられて。
都を連れてここに来た。
淳蔵はタクシーの運転手、俺は引っ越し業者の中途社員、美代は都の介護をするために専業主夫になったんだった。千代はどうしたんだっけ・・・。
狭くて汚いアパート。風呂やトイレ、全ての部屋を計算に入れても、館の自室の方が広いくらいだ。卓袱台を置いて三人座ればもう一杯になる居間で、俺達は美代の作った食事を摂る。栄養バランスや彩は良いが、インスタント食品や総菜なども混じっていた。
「なあ、なんかずっと違和感を覚えてるんだけど、お前らはどうよ」
淳蔵が言う。
「んー、俺もなんだよな」
美代が答える。
「・・・俺もだ。ずっと誰かに見られている気がする」
ぴたり、と三人の箸が止まった。美代がキッチンに行って包丁を手にする。そしてそれを鏡のように部屋の中に翳した。ぎらぎら輝く包丁に、倉橋の姿が映っていた。俺と淳蔵が倉橋の姿目掛けて飛びつく。卓袱台がひっくり返り、今日の夕食が宙を舞った。透明ななにかがじたばたと暴れている。倉橋は徐々に姿を現した。
「痛い痛い痛い! 悪かったって! 謝るから!」
「あーっ! 全部思い出したぞ! テメェ! 俺達になにしやがった!」
「死にたいのか全身落書き野郎!」
「野郎じゃねえッて! おわッ!?」
美代が俺達を巻き込んで倉橋に馬乗りになり、耳の横に包丁の刃を落とした。いや、耳を削ぐつもりだったのかもしれない。それを倉橋が顔を傾けることで躱した。
「なにが目的だ、倉橋」
美代は無表情になっている。
「へへへ、『胡蝶の夢』って知ってるか?」
「自分が胡蝶か胡蝶が自分か、夢が現実か現実が夢かわからなくなる話か?」
「そうさ。館での暮らしを追われて、都さんも醜いババアになっちまえば、精神的に弱ったお前らくらい喰い殺せるかと思ったんだが、忠誠心って本当にあるんだな。あんなババアにかわらず愛情を抱けるとは、恐れ入ったよ」
「どうやって俺達をこの状況に引き摺り込んだ?」
「お手製のオセロ盤さ。あれは細かい文字で呪文を書いて作ったモノだったんだよ。お前ら、私と都さんがコップを置く時にそれを目で追ってあちこち見てただろ? 完璧に術に嵌めることはできなかったが、いいとこまでいっただろ? 面白い夢を見られたんじゃねーの?」
「つまり、盤上を見ていた都と千代君もこんな夢を見てるってことか?」
倉橋は挑発的に笑って頷いた。
「どうやったら目が覚める?」
「これが夢だって気付いたんだから、あと五分もしないうちに目が覚めるって。なあ、次からはこんな騙し討ちみたいなことしねーから、仲良くしねえか? とりあえずその包丁を仕舞って、」
ヒュッ、と風切り音がして、ザクッ、と倉橋の胸に包丁が突き刺さった。美代は無言で包丁を振り上げ、振り下ろす。
「お、おい、美代・・・」
淳蔵がなんとか声をかけるが、巻き込まれそうなので危なくて止められない。美代は無表情で顔に返り血を浴びていた。
「・・・美代、ね」
刺された倉橋が息も絶え絶えに言う。
「・・・あんたが一番、厄介、だな」
そう笑った顔を最後に、俺が瞬きをすると、いつもの見慣れた天井が視界に映った。俺は慌てて部屋を飛び出る。淳蔵と美代も飛び出してきた。『ぐーちゃん』の時と同じだ。俺達は一目散に都の部屋に向かった。
どんどんッ!
『だ、誰? 何事?』
「都! 俺だ! 説明はあとでするから鍵を開けてくれッ!」
美代が叫ぶ。ガチャ、とドアが少し開いたのを、美代が乱暴に押し入って大きく開けた。
「ど、どうしたの?」
「変な夢見なかったか!?」
「ああ、千代さんが見たらしくて、今、私の部屋に居るわよ」
入ってすぐの部屋、仕事部屋兼リビングになっている部屋のソファーに千代が座っていて、都の部屋の冷蔵庫に入れていた都のお気に入りのプリンを三つも空けていた。
「あら、皆様お揃いでェ」
「・・・都は変な夢見なかったのか?」
「父親に襲われそうになったからぶっこ抜きジャーマンスープレックスかける夢なら見たけど」
「ぶ、ぶっこ・・・。そ、そうですか・・・」
淳蔵がくすっと笑った。美代が都に抱き着いて珍しく泣き始めたので、俺と淳蔵でなにがあったのかを説明する。
「成程ねえ。千代さん、明日の美代の食事当番、朝食だけでいいからかわってあげられる?」
「はい! プリン三個も頂いちゃったので、気合入れてお作りします!」
「淳蔵は明日、直治は明後日、私の部屋に来て。ゆっくりお喋りしましょう」
「おう」
「わかった」
「さて、と」
都は抱き着いていた美代をちょっと強引に引っぺがすと、ひょい、と華奢な女性を抱き上げるように美代を抱き上げた。
「エッ!? ちょ、ちょっと」
「じゃ、皆さん、おやすみなさい」
「み、みやこっ、恥ずかしいって!」
都と美代は寝室に消えていった。
「・・・千代、どんな夢見た?」
俺が問う。
「刑務所に入る夢、ですねェ」
俺と淳蔵は顔を見合わせ、苦笑した。