三百二十話 三度目
文字数 2,172文字
陽の光の下で見る都は、可愛い。俺より小さい身体で、あどけない顔で上品に笑って、まさにお嬢様といった具合である。しかし、月光に包まれた都は、肉欲に吊り上げられた鋭い目付きで俺を見て、にい、と牙を見せて笑うのだ。まさに女王といった具合である。
綺麗な背中。
美しい曲線を描く都の身体。俺が愛してやまない、少し外側に跳ねるふわふわの髪から白い項が伸びている。それは丸い肩に繋がり、すらりとした腕と、大きな胸を支える胴にわかれる。くびれ、肉厚な柔い尻。ベッドに腰掛けているので向こう側にある足は見えないが、魅惑的な太腿とふくらはぎへと続き、締まった足首に、硬い踵まで。形の良い足。その先に桜貝の爪。
堪らなくなって、俺は都の背中を撫でた。
「フフ、くすぐったい」
調律した楽器で演奏するような声。俺の指の腹と手の平が、都の背中と擦れ合う。振り返った都の、つんと尖った鼻と、ふっくらとした唇。蝶が羽搏く睫毛に彩られた宝石の瞳。そして、丸い額。
「どうしたの、直治」
皮の下で蠢く骨達。肩甲骨が、背骨の筋が、肘が、手が。
「綺麗だったから、つい」
都ははにかんで微笑んだ。俺はいけないことを考えた。美味そうな頬の肉。
「・・・都、もう一回」
「欲しがりさんめ」
その日、夢を見た。
『石田君』
久し振りに聞いて、思い出した。
俺の古い名前。
高校の制服を着た石田直治に話しかける若い教師。
『なにかあったら、必ず誰かに相談するんだよ』
察しの良いヤツ。そのくせ責任は負いたくないらしい。俺は返事をせずに教室を出て、そっと、屋上へ。辺りをぐるりと囲うフェンスは雨風に曝され、錆びている。そのうちの一つは大きく歪んで役目を果たせず、向こう側の景色が遮られることなく見えていた。俺は塔屋を見上げた。給水塔の陰に都が居る。本物ではない。瞬きもせず、呼吸もせず、ただそこに投影されていた。俺は塔屋の壁に背を預けて座り込み、感傷に浸る。今から飛び降りて死ぬのだ。俺は、俺と、夕暮れを待った。
俺は立ち上がり、歪んだフェンスをこじ開けて、向こう側へ。靴を脱いで揃え、ポケットから遺書を取り出して靴を重石にする。うつ伏せに落ちるのは怖いと思った。だから綺麗な夕焼けを見ながら落ちようと、身を翻す。俺は、俺と目が合った。
醜い。脂ぎって、汚い。
俺は都を見た。こんな状況なのに綺麗な女だと思った。今までに見たことのない美しさの女だと思った。矢鱈と可愛い女だと思った。
「俺のだ」
俺の声に、俺は俺を見る。渡すものか。俺は俺を突き落とした。遠退く視界。夕陽を背に立つ一条直治。背中に衝撃が走り、意識が暗転する。目を覚ますと、病院のベッドの上ではなく、父が運転する車の後部座席に居た。助手席には母が座っている。俺はガムテープで縛られていた。人が滅多に立ち寄らないとされている小さな森に入った。そこは都の私有地だった。館に、いや、都に近付くにつれ、俺の中から病が漂白されたように抜け落ちていった。残ったのは、自分が自分であるという意識と、自分の名前。そして、奇行としかいえない過去。急に冷静になった俺の中にぽっかりと大きな穴が開いた。その中に、両親に捨てられた悲しみと、死への恐怖が、練炭を燃やして産まれた一酸化炭素が充満していく。
そこに、あいつが現れた。
ジャスミンだ。
カチャカチャ。ジャスミンの肉球と爪が車の窓硝子を引っ掻く音。がちゃ、と車のドアの鍵が開いて、続いてドアが独りでに開いた。俺は急いで外に出て、身を捩って後部座席から車外へ出ようとする俺に向かって、
「お前じゃない」
と言って、大きな音を立ててドアを乱暴に閉めた。
朱い着物を着た女、都。長髪の男、淳蔵。まだ痩せていた美代。そしてジャスミンに囲まれる。俺は腕を組み、ジャスミンを見ると首を傾げた。
「どういうつもりだよ」
ジャスミンはニパッと笑った。
そこで目が覚めた。
「・・・なんなんだよ、本当に」
ぴぴっ、ぴぴっ。都の目覚まし時計が鳴る。午前四時三十分。都は無意識なのか、むくりと起き上がり、すっと腕を伸ばしてアラームを止めた。そのままぼんやりと俺を見つめて、意識が覚醒したのか、目を見開いたあとにぱちぱちと瞬く。
「おはよう」
「お、おはよう・・・」
都はなんで照れてるんだか。
「直治、もう少し寝た方がいいよ」
「いや、デートしたい。ジャスミンの朝飯後に」
「そう・・・? じゃあ、朝の準備してくるね」
「俺もしてくる」
「うん」
俺は脱ぎ散らかした服を着ると自室に戻り、寝る前にも浴びたがシャワーを浴び直して、歯を磨いた。キッチンで都を待つ。ジャスミンを従えて現れた都は、俺の身体を貪る女王ではなく、俺に触れられると喜びながらも恥じらうお嬢様になっていた。ジャスミンに食事を摂らせる。食べ終わるとジャスミンは大きな身体をゆさゆさと揺らしてどこかに行ってしまった。俺と都は裏庭に続くドアから外に出て、手を繋ぎ、歩き出す。
「都」
「なあに?」
「相手のことが好きで好きで仕方がない時、どうする?」
「・・・キスしちゃう」
俺達は立ち止り、唇を吸い合う。
「キスしちゃった」
俺がそう言うと、都は悪戯っぽく笑った。
三度目の人生。
一度目は高校の屋上から飛び降りた時に死んだ。病院のベッドで号泣したのが二度目の産声。二度目は一家心中で死んだ。都に自分の名を告げたのが三度目の産声。
俺は人生を謳歌している。
綺麗な背中。
美しい曲線を描く都の身体。俺が愛してやまない、少し外側に跳ねるふわふわの髪から白い項が伸びている。それは丸い肩に繋がり、すらりとした腕と、大きな胸を支える胴にわかれる。くびれ、肉厚な柔い尻。ベッドに腰掛けているので向こう側にある足は見えないが、魅惑的な太腿とふくらはぎへと続き、締まった足首に、硬い踵まで。形の良い足。その先に桜貝の爪。
堪らなくなって、俺は都の背中を撫でた。
「フフ、くすぐったい」
調律した楽器で演奏するような声。俺の指の腹と手の平が、都の背中と擦れ合う。振り返った都の、つんと尖った鼻と、ふっくらとした唇。蝶が羽搏く睫毛に彩られた宝石の瞳。そして、丸い額。
「どうしたの、直治」
皮の下で蠢く骨達。肩甲骨が、背骨の筋が、肘が、手が。
「綺麗だったから、つい」
都ははにかんで微笑んだ。俺はいけないことを考えた。美味そうな頬の肉。
「・・・都、もう一回」
「欲しがりさんめ」
その日、夢を見た。
『石田君』
久し振りに聞いて、思い出した。
俺の古い名前。
高校の制服を着た石田直治に話しかける若い教師。
『なにかあったら、必ず誰かに相談するんだよ』
察しの良いヤツ。そのくせ責任は負いたくないらしい。俺は返事をせずに教室を出て、そっと、屋上へ。辺りをぐるりと囲うフェンスは雨風に曝され、錆びている。そのうちの一つは大きく歪んで役目を果たせず、向こう側の景色が遮られることなく見えていた。俺は塔屋を見上げた。給水塔の陰に都が居る。本物ではない。瞬きもせず、呼吸もせず、ただそこに投影されていた。俺は塔屋の壁に背を預けて座り込み、感傷に浸る。今から飛び降りて死ぬのだ。俺は、俺と、夕暮れを待った。
俺は立ち上がり、歪んだフェンスをこじ開けて、向こう側へ。靴を脱いで揃え、ポケットから遺書を取り出して靴を重石にする。うつ伏せに落ちるのは怖いと思った。だから綺麗な夕焼けを見ながら落ちようと、身を翻す。俺は、俺と目が合った。
醜い。脂ぎって、汚い。
俺は都を見た。こんな状況なのに綺麗な女だと思った。今までに見たことのない美しさの女だと思った。矢鱈と可愛い女だと思った。
「俺のだ」
俺の声に、俺は俺を見る。渡すものか。俺は俺を突き落とした。遠退く視界。夕陽を背に立つ一条直治。背中に衝撃が走り、意識が暗転する。目を覚ますと、病院のベッドの上ではなく、父が運転する車の後部座席に居た。助手席には母が座っている。俺はガムテープで縛られていた。人が滅多に立ち寄らないとされている小さな森に入った。そこは都の私有地だった。館に、いや、都に近付くにつれ、俺の中から病が漂白されたように抜け落ちていった。残ったのは、自分が自分であるという意識と、自分の名前。そして、奇行としかいえない過去。急に冷静になった俺の中にぽっかりと大きな穴が開いた。その中に、両親に捨てられた悲しみと、死への恐怖が、練炭を燃やして産まれた一酸化炭素が充満していく。
そこに、あいつが現れた。
ジャスミンだ。
カチャカチャ。ジャスミンの肉球と爪が車の窓硝子を引っ掻く音。がちゃ、と車のドアの鍵が開いて、続いてドアが独りでに開いた。俺は急いで外に出て、身を捩って後部座席から車外へ出ようとする俺に向かって、
「お前じゃない」
と言って、大きな音を立ててドアを乱暴に閉めた。
朱い着物を着た女、都。長髪の男、淳蔵。まだ痩せていた美代。そしてジャスミンに囲まれる。俺は腕を組み、ジャスミンを見ると首を傾げた。
「どういうつもりだよ」
ジャスミンはニパッと笑った。
そこで目が覚めた。
「・・・なんなんだよ、本当に」
ぴぴっ、ぴぴっ。都の目覚まし時計が鳴る。午前四時三十分。都は無意識なのか、むくりと起き上がり、すっと腕を伸ばしてアラームを止めた。そのままぼんやりと俺を見つめて、意識が覚醒したのか、目を見開いたあとにぱちぱちと瞬く。
「おはよう」
「お、おはよう・・・」
都はなんで照れてるんだか。
「直治、もう少し寝た方がいいよ」
「いや、デートしたい。ジャスミンの朝飯後に」
「そう・・・? じゃあ、朝の準備してくるね」
「俺もしてくる」
「うん」
俺は脱ぎ散らかした服を着ると自室に戻り、寝る前にも浴びたがシャワーを浴び直して、歯を磨いた。キッチンで都を待つ。ジャスミンを従えて現れた都は、俺の身体を貪る女王ではなく、俺に触れられると喜びながらも恥じらうお嬢様になっていた。ジャスミンに食事を摂らせる。食べ終わるとジャスミンは大きな身体をゆさゆさと揺らしてどこかに行ってしまった。俺と都は裏庭に続くドアから外に出て、手を繋ぎ、歩き出す。
「都」
「なあに?」
「相手のことが好きで好きで仕方がない時、どうする?」
「・・・キスしちゃう」
俺達は立ち止り、唇を吸い合う。
「キスしちゃった」
俺がそう言うと、都は悪戯っぽく笑った。
三度目の人生。
一度目は高校の屋上から飛び降りた時に死んだ。病院のベッドで号泣したのが二度目の産声。二度目は一家心中で死んだ。都に自分の名を告げたのが三度目の産声。
俺は人生を謳歌している。