三百三十三話 焼きおにぎり
文字数 2,272文字
「うわ、見ろよ豚。じゃなくて山田。バスがどんどん入ってくるぞ」
「おほっ、す、凄いですね・・・」
親睦会当日。一条家の人間には俺の蛇を服の下に忍ばせている。責任者として都が姿を現さないわけにはいかないので、アンナと並んで表に立った。あとでジャスミンの力で認識をある程度曖昧にするらしいが、ジャスミンの力に抵抗力を持つ人間も存在するので、苦い気持ちになる。都とアンナが控室であるイベントテントに戻ると、一瞬で忙しくなった。俺はサラダと飲み物担当になったので嫌いなカレーと直接対決することは避けられたが、それでもカレーのにおいが漂ってきて憂鬱になる。
「女史、親睦が深まったと思いませんか?」
「そうですね、ミストレス」
「ここに居る全員が人質です」
アンナが突然、物騒なことを言い出す。
「あら・・・」
「気分はどうです?」
「間抜けだなあ、と」
「ほう?」
「人質、という点でなら、私にも言えることですよ。今から一瞬で、町の人間を全て消し飛ばしてみせましょうか?」
「間抜けは貴方では? 『虎の威を借る狐』でしょう」
「どういう意味です?」
「とぼけても無駄です。本当に怖いのは貴方ではなく、私の視界の端にちらちら映っている白い犬だ」
くす、と都が笑う。
「なあんにもわかっていませんね。貸借などというものとは無縁の関係ですよ」
ざっざっ、ジャスミンが土を踏む足音。『きゅうん』と甘える声。すぐ、近くに居る。
「・・・やあ、ジャスミン君。元気そうでなにより」
「貴方のことを気に入ったそうですよ」
「それは光栄です。知っていますか? 夢生乃介も同じ犬種ですよ」
「あら!」
「耳が垂れてる犬はいいですよねえ」
雑談が始まり、穏やかな空気が流れる。綿町の住民の声が聞こえる。老人、子供、その両者を世話する男女。どの声も楽しそうで、カレーに舌鼓を打っている。不快なにおい、俺のテリトリーに大勢の他人が居る嫌悪感、望まない労働をさせられている不満、都を攻撃しようとするアンナへの怒り。俺はくらくらする意識をなんとか繋ぎとめて、綿町の住民がバスに乗って帰るのを見送るまで、機械のように働いた。
「ふわー! 一段落、ですねェ」
千代の声で意識が明瞭になる。
「直治様、少しお疲れのようですから、部屋に戻って休まれた方がよいかと」
桜子の提案を断ろうと思ったが、
「直治、後片付けは私達がやっておくから、貴方は部屋に戻って休みなさい」
都にそう言われ、俺は誘惑に勝てずに自室に戻った。シャワーを浴び、歯を磨き、水差しの水を飲んだ。そして腹が空いたままベッドに横になる。蛇はそれぞれの体温と音を拾っている。ムカつくがあの豚、相当便利な能力の持ち主らしい。『この人数でこの時間で片付くはずがない』という矛盾を利用して、あっという間に片付けが終わって、残ったカレーを皆で食べることになったらしい。
「すみません、私は仕事があるので、今日はこれで。美代、あとはお願いね」
「わかりました」
「ミストレス、楽しい会でした。では、また」
「今日はありがとうございました、女史。良い夢を」
都が歩く振動が伝わる。
「直治、お腹空いてるでしょ? 焼きおにぎり食べる?」
ぱち、と目蓋が開いた。
『食べる』
「沢山食べる?」
『食べる』
「ちょっと待っててね。作ったら部屋に持っていくから」
歯を磨いたことなんてどうでもよくなった。また磨けばいい。ごま油と醤油をフライパンで焼いたにおい。じゅうじゅうと食欲をそそる音。十分程で、都が焼きおにぎりとお茶を持って部屋に来た。
「おまたせ」
「食べるところ見ててくれ」
「あは、いいよ」
二人でテーブルを囲んで座る。
「どう? 美味しい?」
もっちりとした米の甘みを引き立てる醤油のしょっぱさと香ばしさ、ごま油の風味。
「美味しい。ありがとう」
「よかった。最近、夜食によく作ってるの」
「・・・おにぎりは嫌いで、作るの苦手じゃなかったか?」
「うん。でもね、最近ちょっと、克服しようかなあって。焼きおにぎりなら、文字通り焼き固められるから、色々とね。ほら、この前二人でテレビを見た時に、ふりかけの特集をやってたじゃない? あの時のアナウンサーが・・・。『お弁当に詰めたら、お米の水分を吸ってふりかけがしっとりする』って言ってて、すっごく羨ましかったのよね。しっとりしたふりかけって概念が今までなかったから・・・」
「うーん、好きだ・・・」
「えっ、なにが?」
「都が」
「きゅ、急にどうしたの?」
「可愛い」
「あ、ありがとう?」
少し照れている。押し倒したい。そのあとで俺が乗ることになるんだが。
「ごちそうさまでした」
「おそまつさまでした」
「また作ってほしい」
「えへ、わかりました。じゃ、おやすみなさい」
「おやすみ」
歯を磨き直し、ベッドに寝転ぶ。腹が膨れたおかげで気持ち良く寝られそうだ。
「都は偉いな・・・」
俺はカレー嫌いを直そうなんて思わない。林檎も菓子パンもだ。両者合わさったアップルパイなんて拷問である。
「うーっ、好きだ・・・。あっ・・・」
蛇を回収するのを忘れている。
「まあいいか・・・」
そのまま微睡む。
「・・・これ、直治寝てないか?」
美代の声。
「寝てるっぽいな。蛇はドアの横に置いておくか」
淳蔵の声。
もうベッドから起き上がる気力もないので、寝ている振りをしてそのままにした。明日の朝、回収すればいい。
つやつやと背を撫でられる感覚。
薄っすらと目蓋を開けると、都が俺を枕元に置いて、優しく微笑んでいた。
「おやすみ、直治」
そっと、額に口付けられる。ああ、キス一つでどうしてこんなに幸せになれるのだろう。俺はそのまま、心地良い眠りに包まれた。
「おほっ、す、凄いですね・・・」
親睦会当日。一条家の人間には俺の蛇を服の下に忍ばせている。責任者として都が姿を現さないわけにはいかないので、アンナと並んで表に立った。あとでジャスミンの力で認識をある程度曖昧にするらしいが、ジャスミンの力に抵抗力を持つ人間も存在するので、苦い気持ちになる。都とアンナが控室であるイベントテントに戻ると、一瞬で忙しくなった。俺はサラダと飲み物担当になったので嫌いなカレーと直接対決することは避けられたが、それでもカレーのにおいが漂ってきて憂鬱になる。
「女史、親睦が深まったと思いませんか?」
「そうですね、ミストレス」
「ここに居る全員が人質です」
アンナが突然、物騒なことを言い出す。
「あら・・・」
「気分はどうです?」
「間抜けだなあ、と」
「ほう?」
「人質、という点でなら、私にも言えることですよ。今から一瞬で、町の人間を全て消し飛ばしてみせましょうか?」
「間抜けは貴方では? 『虎の威を借る狐』でしょう」
「どういう意味です?」
「とぼけても無駄です。本当に怖いのは貴方ではなく、私の視界の端にちらちら映っている白い犬だ」
くす、と都が笑う。
「なあんにもわかっていませんね。貸借などというものとは無縁の関係ですよ」
ざっざっ、ジャスミンが土を踏む足音。『きゅうん』と甘える声。すぐ、近くに居る。
「・・・やあ、ジャスミン君。元気そうでなにより」
「貴方のことを気に入ったそうですよ」
「それは光栄です。知っていますか? 夢生乃介も同じ犬種ですよ」
「あら!」
「耳が垂れてる犬はいいですよねえ」
雑談が始まり、穏やかな空気が流れる。綿町の住民の声が聞こえる。老人、子供、その両者を世話する男女。どの声も楽しそうで、カレーに舌鼓を打っている。不快なにおい、俺のテリトリーに大勢の他人が居る嫌悪感、望まない労働をさせられている不満、都を攻撃しようとするアンナへの怒り。俺はくらくらする意識をなんとか繋ぎとめて、綿町の住民がバスに乗って帰るのを見送るまで、機械のように働いた。
「ふわー! 一段落、ですねェ」
千代の声で意識が明瞭になる。
「直治様、少しお疲れのようですから、部屋に戻って休まれた方がよいかと」
桜子の提案を断ろうと思ったが、
「直治、後片付けは私達がやっておくから、貴方は部屋に戻って休みなさい」
都にそう言われ、俺は誘惑に勝てずに自室に戻った。シャワーを浴び、歯を磨き、水差しの水を飲んだ。そして腹が空いたままベッドに横になる。蛇はそれぞれの体温と音を拾っている。ムカつくがあの豚、相当便利な能力の持ち主らしい。『この人数でこの時間で片付くはずがない』という矛盾を利用して、あっという間に片付けが終わって、残ったカレーを皆で食べることになったらしい。
「すみません、私は仕事があるので、今日はこれで。美代、あとはお願いね」
「わかりました」
「ミストレス、楽しい会でした。では、また」
「今日はありがとうございました、女史。良い夢を」
都が歩く振動が伝わる。
「直治、お腹空いてるでしょ? 焼きおにぎり食べる?」
ぱち、と目蓋が開いた。
『食べる』
「沢山食べる?」
『食べる』
「ちょっと待っててね。作ったら部屋に持っていくから」
歯を磨いたことなんてどうでもよくなった。また磨けばいい。ごま油と醤油をフライパンで焼いたにおい。じゅうじゅうと食欲をそそる音。十分程で、都が焼きおにぎりとお茶を持って部屋に来た。
「おまたせ」
「食べるところ見ててくれ」
「あは、いいよ」
二人でテーブルを囲んで座る。
「どう? 美味しい?」
もっちりとした米の甘みを引き立てる醤油のしょっぱさと香ばしさ、ごま油の風味。
「美味しい。ありがとう」
「よかった。最近、夜食によく作ってるの」
「・・・おにぎりは嫌いで、作るの苦手じゃなかったか?」
「うん。でもね、最近ちょっと、克服しようかなあって。焼きおにぎりなら、文字通り焼き固められるから、色々とね。ほら、この前二人でテレビを見た時に、ふりかけの特集をやってたじゃない? あの時のアナウンサーが・・・。『お弁当に詰めたら、お米の水分を吸ってふりかけがしっとりする』って言ってて、すっごく羨ましかったのよね。しっとりしたふりかけって概念が今までなかったから・・・」
「うーん、好きだ・・・」
「えっ、なにが?」
「都が」
「きゅ、急にどうしたの?」
「可愛い」
「あ、ありがとう?」
少し照れている。押し倒したい。そのあとで俺が乗ることになるんだが。
「ごちそうさまでした」
「おそまつさまでした」
「また作ってほしい」
「えへ、わかりました。じゃ、おやすみなさい」
「おやすみ」
歯を磨き直し、ベッドに寝転ぶ。腹が膨れたおかげで気持ち良く寝られそうだ。
「都は偉いな・・・」
俺はカレー嫌いを直そうなんて思わない。林檎も菓子パンもだ。両者合わさったアップルパイなんて拷問である。
「うーっ、好きだ・・・。あっ・・・」
蛇を回収するのを忘れている。
「まあいいか・・・」
そのまま微睡む。
「・・・これ、直治寝てないか?」
美代の声。
「寝てるっぽいな。蛇はドアの横に置いておくか」
淳蔵の声。
もうベッドから起き上がる気力もないので、寝ている振りをしてそのままにした。明日の朝、回収すればいい。
つやつやと背を撫でられる感覚。
薄っすらと目蓋を開けると、都が俺を枕元に置いて、優しく微笑んでいた。
「おやすみ、直治」
そっと、額に口付けられる。ああ、キス一つでどうしてこんなに幸せになれるのだろう。俺はそのまま、心地良い眠りに包まれた。